第三十五章 戻れない線
名前を見た瞬間、鷹宮は舌打ちした。
港湾安全コンサルタント
主任調査員 三宅 恒一
蒼浜では有名でもなく、無名でもない。事故処理、労災対応、関係者の聞き取り。表に出ない仕事を、淡々とこなす男。警察にも、行政にも、暴力団にも「敵ではない」と認識されている存在。
――一番厄介な種類だ。
「接触しました」
報告した部下は、まだ若い。
「女は警戒していません。完全に話を聞いています」
鷹宮は頷いた。
「そりゃそうだ。三宅は“善意の顔”を使う」
彼は資料を閉じ、椅子にもたれた。頭の中で、工程が一つずつ組み上がっていく。
三宅は整理側の人間だ。だが、末端ではない。血も流すし、拭くこともできる。本人に自覚があるかどうかは関係ない。彼は「事故の後始末」を生業にして生き延びてきた。
そして――
玲奈は、そこに触った。
ノートを失った女が、最初に掴んだ“入口”としては、あまりにも悪い。
「消しますか」
部下が小声で聞く。
鷹宮は即答しなかった。
消す。簡単だ。三宅が段取りを組み、事故が起き、書類が整い、街は何事もなかった顔をする。蒼浜では、何度も繰り返されてきた流れだ。
だが――
「今、消すと逆だ」
鷹宮は言った。
「女は“正解を引いた”と勘違いする。そうなると、止まらない」
彼女は攻撃的だ。怒りを原動力にする人間は、恐怖よりも確信で動く。
ノートが消えたと思い込み、善意の協力者を得たと思い込んだ今、玲奈は一段ギアを上げる。
――その先にあるのは、告発ではない。
自滅だ。
「泳がせるんですよね」
「ああ。ただし、深くは潜らせない」
鷹宮は立ち上がり、窓の外を見た。港の灯りが、規則正しく点滅している。
「三宅は使う。女も使う」
「両方、ですか」
「両方だ」
均衡を取る。それが鷹宮の役割だ。
夜、一本の電話をかける。
「三宅が動いた」
相手は桐島だ。
「女が引っかかった」
短い沈黙。
「……早いな」
「ええ。戻れない線を越えました」
「なら、工程を前に進めろ」
それだけで会話は終わった。
電話を切った後、鷹宮は初めて、自分の中に小さな躊躇があることに気づいた。
女は、まだ何も壊していない。
ただ、構造を見ようとしているだけだ。
だが――
この街では、それが一番危険な行為だった。
鷹宮は車に乗り込み、エンジンをかけた。
会う気はなかった。
だが、距離は縮める。
直接対峙する前に、どちらが引き金を引くか。
それを決める段階に、物語は入っていた。




