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分断の国(仮)  作者: キロヒカ.オツマ―


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第三十四章 善意の顔

その男は、最初から「危険な匂い」をさせていなかった。


 年齢は五十前後。腹は出ているが、だらしなさはない。安物だが清潔な作業着。港湾関連会社のロゴが薄く掠れている。爪は短く切られ、指に力仕事の癖が残っていた。


 ――信用できそう。


 玲奈は、そう判断してしまった。


 蒼浜市の港外れ、古い倉庫を改装した事務所。表向きは「港湾安全コンサル」。実態は、事故処理や労災対応の下請けだ。港で何かが起きるたび、必ず名前が出てくる会社。


「若いのに、こんなこと調べてるんだな」


 男は缶コーヒーを差し出しながら言った。


「港の補助金の流れに、興味があって」


 玲奈は嘘をつかなかった。すべてを言わないだけだ。


「正義感か?」


「違います」


 即答だった。


「放っておくと、同じことが繰り返されるから」


 男は少しだけ笑った。


「同じだよ。みんな、最初はそう言う」


 その言葉に、玲奈は小さな違和感を覚えた。だが、深追いはしなかった。彼は“理解者”の顔をしていたからだ。


 男は、事故の話をした。クレーンの誤作動。安全装置の未点検。書類上は整合性が取れている。だが、現場の人間は違和感を抱えている、と。


「上から降りてくるんだ。早く片付けろ、ってな」


「上、ですか」


「行政か、もっと上か。俺らには分からん」


 玲奈は頷きながら、頭の中で線を引いていた。行政、下請け、港運会社。事故。補助金。整理。


 ――やはり、消された。


 ノートの内容と、男の話は一致している。彼女の誤認は、さらに補強されていった。


「一つ、忠告しとく」


 男は声を落とした。


「深入りしない方がいい。女一人で触る話じゃない」


「だから、あなたに聞いているんです」


 その瞬間、男の目が僅かに動いた。ほんの一瞬。だが、玲奈は見逃さなかった。


 ――踏み込んだ。


 男はゆっくり息を吐いた。


「俺はな、善人じゃない。ただ、生き延びてるだけだ」


「それで十分です」


 玲奈はそう言った。善悪ではない。構造を抜くための入口が欲しいだけだ。


「連絡先を教える」


 男は名刺を出した。会社名、役職、携帯番号。どれも本物だ。


「ただし、条件がある」


「何ですか」


「一人で動くな。誰かに見られる」


 玲奈は一瞬、迷った。だが頷いた。


「分かりました」


 その約束が、どれほど空虚なものか、彼女はまだ知らない。


 事務所を出た後、玲奈は背中に視線を感じた。振り返っても、誰もいない。港の風が強いだけだ。


 男は、その日のうちに一本の電話を入れていた。


「女、かかった」


 短い報告。


「単独だ。ノートは持ってないと思う」


 電話の向こうで、誰かが低く笑った。


 善意の顔をしたその男は、整理側の人間だった。


 そして玲奈は、自分が罠の中心に足を踏み入れたことに、まだ気づいていなかった。

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