第三十章 逃げ切った理由
走りながら、玲奈は考えなかった。考えれば足が止まる。港の夜はそれを許さない。鉄の床、濡れたロープ、暗がり。転べば終わりだ。
背後の気配が消えたのは、倉庫を三つ越えたあたりだった。完全に逃げ切れたと理解した瞬間、足が震えた。肺が痛い。だが立ち止まらない。灯りのある方へ、道路へ。
タクシーに飛び込み、行き先を告げる。運転手は理由を聞かない。深夜の港では、聞かないのが礼儀だ。
部屋に戻り、鍵を二重にかけてから、ようやく座り込んだ。手が空だと気づく。ノートがない。
胃の奥が冷えた。あれは記録であり、命綱であり、同時に死刑宣告書でもあった。
なぜ、逃げられたのか。
答えは一つしかない。追ってきた男が、止めた。
彼の動きは訓練されていた。捕まえる気なら、捕まえられた。だが、そうしなかった。
理由を考える。善意? 違う。あの目は、計算の目だ。工程を見る人間の目。
彼はノートを見た。
そこに、彼自身の名前があったのだろう。
玲奈は息を整え、代替の記録を思い出す。完全なバックアップはない。だが、断片はある。クラウド、メール、記憶。
スマートフォンを開き、暗号化されたフォルダにアクセスする。残っているデータを確認する。線はまだ引ける。時間はかかるが。
窓の外、港の赤い灯りが見える。あの場所で、男と目が合った瞬間を思い出す。
敵だ。だが、同時に鍵でもある。
彼が止めた理由を、こちらが使う。
玲奈は新しいノートを取り出し、最初のページに書いた。
『鷹宮(仮)』
名前は仮でもいい。線を引くための起点だ。
逃げ切った理由は、運ではない。
互いが、互いの存在を必要とし始めたからだ。




