第二十六章 名前が消える
噂は、公式発表よりも早く、正確に、そして歪んだ形で届く。
下請け会社の経理が倒れたらしい。重い病気。もう戻らない。内部で何かあったのではないかという声は、昼休みの喫煙所で一瞬だけ上がり、すぐに消えた。消したのは誰か。誰も知らない。ただ、消えた。
玲奈がその名前を会議で出したのは、ほんの確認のつもりだった。
「以前、資料を出してくれた方ですが……」
議事録担当の若い男が、顔を上げずに言った。
「該当者はいません」
いない。存在しなかったことになる速度が、あまりにも速い。
資料をめくる。名前がない。数字だけが残っている。数字は嘘をつかないが、誰が出したかは語らない。
休憩中、代表が近づいてきた。
「君、最近ちょっと前に出すぎだ」
諭すような口調。
「団体としては、バランスが大事だ」
バランス。その言葉が、ブレーキになる。
午後、自治体の担当課からメールが届く。次回の意見交換会、出席者名簿。玲奈の名前がない。見落としだと思い、問い合わせる。
『今回は内部調整の都合で』
理由になっていない理由。
夕方、街頭でチラシを配る。通行人の反応が変わった。目を合わせない。避ける。昨日までは違った。
背後から声。
「玲奈さん」
振り向くと、知らない男。スーツ。名刺は出さない。
「最近、お名前を見かけなくなりましたね」
それは確認ではなく、宣告だった。
「無理しない方がいい」
男はそれだけ言って去った。
夜、自宅でパソコンを開く。過去の記事、動画、SNS。検索結果が減っている。削除ではない。埋もれている。アルゴリズムの海に沈められていく感覚。
電話が鳴る。母からだ。
「変な人が来た」
家の前で、玲奈のことを聞いていったという。心配するふりをして。
切った後、玲奈は壁にもたれた。殴られていない。脅されてもいない。それでも、確実に囲まれている。
机の上に、以前集めた証言のメモがある。名前、日付、場所。どれも今では危険物だ。
ふと、気づく。自分の名前が、メモの中で一番目立っている。
消される側にいるのは、証言者だけじゃない。
玲奈はメモを封筒に入れ、引き出しの奥にしまった。まだ捨てない。捨てた瞬間、完全に終わる。
窓の外、港の灯りがまた点滅している。規則正しい。
名前が消える。
それは死よりも、長く効く。




