第2話 手紙
路地裏のコンクリートから、自宅のフローリングへ。
その数十分間の記憶は、ひどく曖昧だった。
街灯の光は滲み、車の走行音は遠く、まるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の世界の出来事のようだった。
隣を歩く少年の、アキラと瓜二つの横顔だけが、悪夢的な現実感を伴って網膜に焼き付いている。
リビングのドアを開けると、ソファに座っていた父が顔を上げた。
「おお、朝陽おかえり。と、アキラくんじゃないか。珍しいな、泊まりかい?」
「あ……うん、まあ、そんなとこ」 声が、上擦る。
隣で、カイが怪訝な顔で私を見ている。
キッチンから顔を出した母が、にこやかに言った。
「あら、アキラくんいらっしゃい。ちょうどお夕飯作るところよ。朝陽の部屋で勉強会?」
「……うん」 頷くので精一杯だった。
両親は、目の前にいるのがアキラではないなどと、夢にも思っていない。その疑いのない眼差しが、今は針のように私の胸を刺す。
「さ、アキラくんも上がって。お父さんのジャージでも貸すから」
「……どうも」
カイは状況を察したのか、短くそう答えると、私に促されるまま部屋へと向かった。
父のジャージを無理やりカイに着せ、自室に二人きりになる。扉を閉めた瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになった。
心臓の音が、うるさいくらいに部屋に響いている。
「……じいちゃんの手紙だ」
カイは、改めてあの古びた封筒をテーブルに置いた。
「本当は、山ほどあった。百年分、お前に宛てた手紙がな。だが、持ってこれたのは、じいちゃんが『これだけは』と願った、最後の一通だ」
最後の一通。
その言葉の重みに、息を呑む。
震える指で封筒から便箋を取り出す。
インクが掠れ、染みができている。
これを、アキラが……
高鳴る鼓動を抑えつけ、私はその最初の文字を追い始めた。
◇
朝陽へ
この手紙を君が読んでいる。
その事実だけで、俺の心は満たされる。 カイが……俺のたった一人の孫が、最後の願いを叶えてくれたんだな。
あの日、俺の背中で震えていた君を、守り抜いてくれたんだな。 本当によかった……。
君にとっては一瞬の出来事だが、俺にとっては、とても、とても遠い日の出来事なんだ。
毎朝君が俺の家まで起こしに来てくれて、照れて嫌がる私の寝癖を直してくれた。
幸せで平凡な日々が懐かしい…
今君はとても混乱しているだろう。
目の前にいる、俺とそっくりの顔をした少年が誰なのか。
俺の身に何が起きたのか。
順を追って話す。
俺が体験した、地獄のような百年の物語を。
あの日、光に呑まれた俺が次に目を開けたのは、神と名乗る何者かの前だった。
有無を言わさぬ、絶対的な力。
俺に《賢者》の才能があるから、滅びゆくこの世界「ソリスティア」を救えという、一方的な宣告だった。
もちろん、抗議したさ。
「元の世界に帰せ」
「朝陽が危ないんだ」と、喉が張り裂けるほど叫んだ。
だが、その声はまるで届かなかった。
神に与えられた《賢者》の力は、皮肉にも本物だった。
あらゆる魔法の理を瞬時に理解し、自在に操れる。俺はすぐに希望を見出した。
この力があれば、世界と世界を繋ぐ転移魔法をすぐに見つけ出し、君の元へ帰れる、と。
だが、現実は非情だった。
古の文献を求めて禁断の書庫に潜り、偏屈なエルフの長老に頭を下げ、ありとあらゆる知識を貪った。
それでも、異世界に渡る魔法など、どこにも存在しなかった。 希望が絶望に変わるのに、二十年の歳月を要した。
魔法が存在しないのなら、創り出すしかない。 ゼロから、たった一人で。
神から押し付けられた魔物との戦いの合間に、寝る間も惜しんで研究に没頭した。
だが、人の一生はあまりに短い。
五十歳になった時、俺は己の限界を悟った。
俺の代でこの魔法を完成させるのは不可能だ、と。
ここで諦めるか? 君を、あの化け物がいる世界に独り残したまま朽ち果てるのか? ……冗談じゃない。
俺は、決断した。
俺の血と、意志と、そして何より「君を助ける」という使命を、次世代に託すことを。 ……結婚し、子を成した。 君ではない誰かを愛し、家庭を築く。
それは、俺の心を殺すにも等しい行為だった。だが、そうしなければ、未来は生まれなかった。
そして、孫が生まれた。
そこにいる、カイだ。 あいつが生まれた時、俺は奇跡を見た。
あいつは、俺の幼いに瓜二つだったんだ。
神が与えてくれた、最後の希望だと思った。
俺と息子で、カイに持てる全てを叩き込んだ。
剣を、魔法を、そして「朝陽を助けろ」という、神崎家の悲願を。
研究を再開してから、さらに五十年。
ついに、転移魔法は完成した。 だが、俺の身体はもう限界だった。
完成した魔法を起動するだけの生命力が、残されていなかった。
だから、カイに託した。俺の代わりに、百年越しの約束を果たしてくれ、と。
あいつは、俺と息子に鍛え抜かれている。
あの程度の魔物に遅れを取るはずがない。
最後に、朝陽。 本当に、すまなかった。
あの時、君を守り切れなかったこと。
独りにしてしまったこと。
君の隣で、君の人生を守れなかったこと。
俺の百年間は、君への謝罪と後悔の繰り返しだった。
この手紙が、俺の生涯をかけた、最後の恋文だ。
アキラより
◇
アキラは異世界で、たった一人で、私に会うためだけに生きていた。
(…ごめん)
心の中で、何度も謝る。
もう届かない。
もう、二度と届かない。
私の声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
「アキラは……死んだの?」
カイが、静かに頷く。
「ああ」
その瞬間、私の世界から、音が消えた。
夕暮れの公園。
ブランコに座る私と、隣に立つ小学生のアキラ。
「ねぇ、アキラはずっと、私と一緒にいてくれる?」
私の不意の問いに、アキラはぷいと顔をそむけた。
「しょーがないだろ。お前、俺がいないとすぐ迷子になるし、泣くし。…仕方ないから、ずっと一緒にいてやるよ」
そうぶっきらぼうに言って、夕焼けよりも赤くなった耳を隠すように、彼はポケットに両手を突っ込んだ。
「う…ぁ…ああああああっ!」
堪えきれず、叫び声が漏れた。
涙が溢れて止まらない。
約束したのに。
私の誕生日を祝いに来てくれたのに。
私を庇って、どこか遠い世界で一人で絶望して、それでも諦めずに、そして――
「アキラは死んだの!? もういないの!?」
泣きじゃくりながらカイに詰め寄る私に、彼は少し困ったような顔をして、そして、言った。
「泣くなとは言わねえ。でも、じいちゃんはあんたを助ける事だけを考えて生きてきたんだ。その人生をかけた目的を達成できて、本望だと思うぜ」
私の怒りは、もうカイには向かわなかった。
ただ、どうしようもない運命への、行き場のない叫びだった。
膝から力が抜けて、床に崩れ落ちる。
カイは何も言わず、ただ静かに私を見つめていた。
その瞳が、祖父の面影を宿して、優しく揺れていた。




