第1話『降臨と宣告』
逃げなければ。
そう思うのに、足はアスファルトに縫い付けられたように動かなかった。
甘ったるい腐臭が、喉の奥に絡みつく。
背中を撫でる夜風は冷たいのに、額には脂汗が滲んでいた。
目の前に「それ」はいた。
大きさは馬ほど。
全身を覆う濡れたような黒い毛の下で、筋肉が不気味に隆起している。
大きく裂けた口からは鋭い牙が覗き、滴り落ちる唾液が地面に触れると、ジュッと音を立ててアスファルトを溶かした。
ガァ、ガァ、と。
地獄の釜の底から響くような呼吸音が、ゆっくりと近づいてくる。
そして何より異様なのは、その三つの赤い「目」だった。
それが、品定めするように、じっと私を見つめている。
化け物が、一歩、踏み出す。
――死ぬ。
その二文字が、脳を灼いた。
その時だった。
「邪魔だ」
低く、温度のない声が響いた。
次の瞬間、黒い炎を纏ったかのような一閃が夜を切り裂き、化け物の体を背後から袈裟懸けに断ち割った。
「え……?」
化け物は、断末魔すら上げられなかった。
斬り口から黒い塵となって崩れ落ち、まるで幻だったかのように、夜風に溶けて消えていく。
後には、何も残らなかった。
膝から力が抜ける。
アスファルトに崩れ落ちそうになる寸前、誰かが力強く私の肩を掴んだ。
顔を上げる。
そこにいたのは――
「アキラ……!」
見慣れた、幼馴染の顔だった。
くせのある黒髪、少し垂れた眉。背格好も、不機嫌そうな雰囲気も、何もかも。
安堵に、涙が滲む。
「アキラ、無事だったの……! よかった……!」
「――違う」
だが、その声は氷のように冷たかった。私の知る、暁の響きじゃない。
「俺はカイだ。じいちゃんに頼まれて来た」
言葉の意味が、理解できない。
カイ? じいちゃん?
この人は、何を言っているの?
少年――カイは、私の肩から手を離し、まっすぐに私を見つめた。
その瞳に、気づく。
暁の瞳はもっと優しくて、少しだけ臆病で。
けれど、この少年の瞳は、獲物を前にした狩人のように鋭い。
「お前が、一条朝陽か?」
「……そう、だけど」
「なら、話が早い」
カイは、異国の意匠が施された革のポーチに手を入れた。
そして取り出したのは、一通の、黄ばんだ封筒だった。
「じいちゃん――神崎暁からの、手紙だ」
その名前を聞いた瞬間、思考が止まった。
「……なに?」
「じいちゃんは、あの光に飲まれて異世界に飛ばされた」
カイは淡々と、事実だけを告げる。
「そこで百年を生きて――そして、死んだ」
「……うそ」
声が、震えた。
百年? 死んだ?
「これが、その証拠だ」
カイが差し出した封筒は、一目で途方もない時間を経てきたと分かった。
茶色く変色し、端は擦り切れている。
けれど、その表には、不器用で、でも懸命な、見慣れた筆跡でこう書かれていた。
『朝陽へ』
「受け取れ」
促されるまま、震える手を伸ばす。
ひやりとした紙の感触が、これが夢ではないと告げていた。
「じいちゃんが、百年かけてお前に届けたかった、最後の言葉だ」
カイの声が、遠くで聞こえる。
百年。死んだ。最後の言葉。
その一つ一つの意味を、私はまだ理解できていなかった。
したくもなかった。
けれど、この手の中にある封筒の、脆く、確かな感触だけが、その全てが現実なのだと、静かに告げていた。
はじめまして、作者の識です。
この物語を読んでいただき、ありがとうございます。
本作は全5話で完結する短編となっております。
明日も更新しますので、少しの間お付き合いいただけますと幸いです。




