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裁恋〜サイレン〜

作者: 中村 月子

この物語は、

愛という名でゆがめられた支配から逃れ、

裁きの場に立ち、

それでも――愛を信じ直そうとした

ひとりの女性と子の記録である。


“恋”は、裁かれることがあるのだろうか。

“母”は、どこまで罪を背負えば赦されるのだろうか。

正しさと、優しさと、沈黙と、悲鳴の狭間で、

彼女は何度も名前を失い、

それでももう一度、“朋子”として生きることを選んだ。


この物語は、

虐げられた者の物語であると同時に、

赦すことを選んだ者の物語でもある。


ここに綴られた言葉が、

だれかの夜明けの兆しとなりますように。

それがこの本を書き上げた、唯一の祈りです。


――中村 朋子


■■■ 第一部 朋子 ■■■


《 第一章 白い家に生まれて 》


白く塗られた門扉と、白く塗られた壁。

玄関先には小さな灯籠と、剪定された椿の木が並ぶ。

そこが、私――朋子の「はじまり」だった。


昭和四十九年、東京都文京区。

税理士の父と、茶道教室を営む母のもとに生まれた私は、

生まれた瞬間から「良家の子女」としてのレールに乗せられていた。


父は無口だったが、家族思いだった。

母は笑顔が上品で、話すときはいつも語尾に柔らかさを残した。

決して怒鳴ることのないふたりだったが、私は時折、その沈黙が怖かった。



子ども部屋には、白いカーテン。

金色の縁のついた天蓋ベッド。

机の引き出しには文房具がきっちり整頓され、母の手作りのレースのペンケースが収まっていた。


誰かの“やさしさ”で満たされた部屋。

けれど、私はどこかで、その“やさしさ”が苦しかった。


「朋子ちゃんはいいところのお嬢さんねぇ」

近所の大人がそう言うたび、私は笑って「はい」と返していた。


それが、期待に応えるということだと思っていた。



思春期。

中高一貫のお嬢様校では、浮かない程度に人付き合いをしながら、

私の心は恋に染まっていった。


恋をすれば世界が変わる。

誰かの瞳に映る自分だけが、本当の“わたし”だと思っていた。


時には、両親が絶句するような相手――

例えば金髪でバイクに乗り、ピアスをいくつもつけたような青年を連れて帰った。


「朋子……」

父が茶碗を置く音が、妙に響いた。

母は無言でお茶を継ぎ足し、私と目を合わせなかった。


――なぜ、そんな人と?

言葉にせずとも、彼らの空気がそう語っていた。


でも私は、誰かに心配されることでしか、自分の輪郭を感じられなかった。



大学では文学部に進み、詩と短編小説にのめり込んだ。

だけど、自分の未来像は描けなかった。

周囲が就職活動に走る頃、私はまだ、夢という名の霧の中にいた。


そして、ある男と出会った。


最初は優しかった。

「文章、いいね」「話すと落ち着く」

毎晩のように届くメッセージに、私はまた“誰かに必要とされる自分”を見つけた気がした。


でも、彼は徐々に豹変した。

会わない日には無言電話、駅の出口での待ち伏せ、ポストに何枚も差し込まれた手紙。

ある日、彼はこう言った。


「今日もずっと、見てたよ。おまえのこと」


その瞬間、息ができなくなった。



診断は「パニック障害」。

電車に乗れなくなり、外出が怖くなった。

母は「少し疲れてるのね」と言い、父は「好きなことをすればいい」と言った。


でも、“好きなこと”がわからなかった。



それでも、時間は進んだ。

二十代後半、何人かの恋を経て、私は気づけば三十に近づいていた。


夢は、まだ、見えなかった。


けれどこの時はまだ、自分の人生がここから崩れ、

そして再び立ち上がる物語になることなど、想像もしていなかった。




《 第二章 誓いの火 》


三十三歳の冬、父が癌で倒れた。


診断名は膵臓癌。

医師の言葉は、どこか遠くから聞こえてくるようで、現実感がなかった。


「あと三か月……もって半年です」


その声が消えたあと、病室の天井が無機質に広がって見えた。



父は静かに死と向き合っていた。

何も言わない、泣きも怒りも見せない。

母はその沈黙を引き継ぐように、ただ湯を沸かし、父の枕元に急須を置いていた。


私ができることは、傍に座ることだけだった。

それすらも、「気を使わせるな」と思っていたのではないかと、今でも自問する。



亡くなる数日前、父は私の手を取った。

その手は思った以上に骨張っていて、冷たく乾いていた。


「朋子……税理士に、なる気はあるか?」


私は喉が詰まり、言葉を選べなかった。

でも、父の目の奥にある真剣さに負けるように、私は頷いた。


「……なるよ。お父さんの事務所、わたしが継ぐ」


父は、うなずいた。

ほんの一瞬、優しい笑みが浮かんだ気がした。



その言葉は私の中で火となり、燃え上がった。


それから、資格予備校に通い始めた。

テキストの厚みは辞書のようで、講義の内容は脳を鋭利に削ってくるようだった。


でも、私は前に進んでいた。

亡き父の背中を追いかけるように。



簿記論の担当講師は、淡野先生という名だった。

四十代後半か、五十に差し掛かっているかという年齢。

痩せ型で、スーツがよく似合い、少しだけ前髪が垂れている。

まるで豊川悦司を思わせる静かな色気があった。



「ここ、ちょっと難しいかもしれませんが……」


彼の声は低く、抑えられていて、板書をする手元も美しかった。

黒板に走るチョークの音すら、音楽のように聞こえた。


私は、気づけば彼の言葉に鼓動を合わせるようにしていた。

答えのある世界。努力が報われる構造。

それらを彼の口から聞くことで、私は確かに救われていた。



ある日の授業後、私は思い切って声をかけた。


「あの……貸借対照表のこの区分、もう一度、説明していただけますか?」


「あ、もちろん。ここの“純資産”の分類が……」


先生の指がページの隅をすっとなぞる。

距離が近くなった瞬間、私はその手の骨ばった輪郭を見て、息を飲んだ。


“この人の奥さんになったら”

そんな妄想が、唐突に脳内を横切った。


土曜の午後、二人で静かな図書館で並んで勉強して、

帰りにカフェでパスタを頼んで、

「トマトソース、白シャツにつくぞ」って笑われる――そんな世界。



でも、現実はあっけなかった。


クラスメイトの女性が、何気なく口にした。


「淡野先生、奥さんすごい美人だよ。なんか、和風の女優みたいな。子どももいるって」


その瞬間、世界の彩度が一段落ちた。


私は「あ、そうなんだ」と返したけれど、声が乾いていた。



試験の直前、集中力は散漫だった。

いつもは書ける問題で手が止まる。

鉛筆の先が震える。

吐き気がした。


試験は落ちた。

その後も何度か受けたが、結果は同じだった。



私の内側で、何かが壊れていった。

あの教室で、あの席で、先生の声を聞いても、心がついてこなかった。



しばらくして、病院で「双極性障害Ⅱ型」と診断された。

軽躁と抑うつが波のように訪れる状態。

私はうつ状態が長く、軽躁のときだけ“世界が晴れて見える”ようだった。


「でも、晴れた空は嘘みたいにすぐ曇る」

医師はそう言った。



私は、税理士になることを“やめる”とは言わなかった。

誰にも、そう言わなかった。


ただ、その夢を、心の奥の、ほこりの積もった棚にしまっただけだった。


ふとした瞬間、その棚が開いて、痛みが溢れることがあっても、

私は、鍵をかけることを覚えた。




《 第三章 見えない商品棚 》


「誰か、いい人いないかなあ……」


何気なくつぶやいた言葉は、自分でも驚くほど虚ろだった。


税理士試験に何度も落ち、教室の窓から見えた光景も、心の中に残る炎も、

もうすべて遠い出来事のようだった。


三十五歳。

焦りとは違う、諦めに似た静けさが胸の中にあった。


それでも、誰かに求められたいという感情だけは、まだ残っていた。



友人の母が、渋谷で結婚相談所を開いていると聞いた。

その名前は「シンシア・ブライダル」。

フランス語で“誠実”を意味するらしい。


予約を入れ、重い足を引きずるようにビルのエレベーターに乗った。



出迎えてくれたのは、七十代と思しき女性。

白いパンツスーツにグレーのボブヘア、口紅の赤だけが鮮烈だった。


「まあまあ、朋子さんね? さあ、どうぞ」


案内された応接室には、クラシカルな調度品。

重厚なソファと、テーブルの上には光沢のある分厚いファイルが積まれていた。


「この中から、気になる方を三名、お選びくださいな」


ファイルが“ドスン”と置かれる音に、小さく肩を跳ねさせた。


「……スーパーの野菜じゃないんだから」


そう心でつぶやきながら、ページをめくる。


一人目、五十代、大手企業の部長。

年収は高いが、頭頂部の光が眩しく、体格は三桁に近そうだった。


二人目、三十五歳、フリーランス。

写真は俳優のように整っているが、職業欄には「自由業」。

年収欄は「応相談」とあった。


三人目、二十七歳。

若すぎる。年齢欄を見ただけで閉じた。


……これは、無理かもしれない。


ファイルを閉じかけた、そのときだった。



宮川一朗太似。

長身、スーツ姿。

年齢は四十五歳。

資格欄には、税理士、公認会計士、弁護士とあった。


「……え?」


目を疑った。


見た目よし、学歴よし、資格は国家資格の三冠王。

これは、もしかして“当たり”なのでは?


「この方……お願いできますか?」


「はいはい、瀧口学さんね。とても真面目な方ですよ。ご自宅は新大久保。お母様と同居されてるそうで」


その“同居”という一言に一瞬引っかかりを覚えたが、

それよりも「資格三冠王」がすべてを塗りつぶした。



お見合いの日。

重厚な応接室に通され、ドアが開いた。


立っていたのは、写真そのままの宮川一朗太……に、似てはいたが、

「こんにちは、瀧口です!」という声は、どこか高かった。


――え、ジャパネットたかた?


第一声の印象はそれだった。

思考が“ジャパネット”に占拠され、お見合い中の会話はあまり覚えていない。



終わってから、瀧口に誘われてホテルのレストランでランチをした。


食事中は落ち着いた口調だった。

緊張が解けたのか、声もやや低く、表情も穏やかだった。


“悪い人では、なさそう”


そう思いながらも、どこかピントの合わない感覚があった。


「君って、よく食べるんだね。そこも可愛いね」


「……ありがとうございます」


「でも……あれ? ここ2、3日でちょっと太った?」



その言葉で、何かがひび割れた。

けれど、「結婚」の二文字が、ひびを接着した。



数回のデートを経て、瀧口からプロポーズを受けた。

豪華なレストラン、パステルカラーのブーケ、箱入りの指輪。


「朋子さん、僕と家族になってください」


私の返事は、「はい」だった。



結婚式はホテルで盛大に開かれた。

両家の親族が並び、白いドレスに身を包んだ私は、

誰かの人生をなぞっているような気持ちで歩いた。


けれど、式の終わりに瀧口が耳元で囁いた言葉は、妙に胸に残った。


「うちの母は……ちょっと口うるさいけど、すごく家族思いだから、安心してね」


安心――だったのか?

その言葉の真意は、結婚生活の中で、ゆっくりと剥がれていくことになる。



それでも私は、笑っていた。

誰にも“焦って飛びついた”とは思われたくなかった。


商品棚のようなファイルの中で、

私はたしかに“選んだ”つもりだった。


けれど、知らなかった。

「選ぶ」という行為が、

本当に人の運命を変えるのは、“選ばれたあと”の方なのだと――




《 第四章 シャネルと地雷 》


「いらっしゃい、朋子さん。これから家族になるのね」


そう言って迎えてくれた義母は、シャネルのツイードジャケットを羽織り、

手にはヴィンテージのエルメスのバッグをぶら下げていた。


身長は150センチに届くかどうか。

だが、その存在感は異様なほど大きかった。


リビングに通されると、彼女はソファに腰を下ろすや否や、マシンガンのように語り出した。


「息子は東京大学、娘は早稲田。私は立教なの。あなたは短大……まあね、学歴なんて、女は無い方がいいのよ」


「……は、はい」


「素直で可愛らしい。あなたみたいに、下手に頭が良くない方が、家庭はうまくいくのよ。ね? あははっ」


義母は笑ったが、その笑いはカラカラと乾いていた。



新居は、義母の所有するマンションの一室だった。

同じ階のすぐ隣、義実家は501号室、私たち夫婦は503号室。


「何かあったらすぐ来れる距離で、安心でしょう?」


義母の言葉に、私は小さく頷いた。

“何か”がどんなことなのか、私はまだ知らなかった。



朝、起きてキッチンに立つと、すでに義母が鍵を開けて入ってきていた。


「卵は常温に戻してから焼かないと、ふわふわにならないのよ」


そう言いながら私のフライパンに手を伸ばす。


昼には差し入れと称して手作りの煮物が届き、

夜になると瀧口と義母が二人で笑いながらドラマを観ている音が壁越しに聞こえてきた。



ある日、義実家に食事に呼ばれた。

テーブルに並ぶのは、義母お手製の豪華な料理。

その合間に、彼女は笑いながらこう言った。


「この子ね、昔から母親っ子で。キッチンに立つと、よく私のお尻をツンツンしてきたのよ」


「おい、やめろよ〜」


瀧口は笑いながら義母の腰に手をまわし、

義母は「キャーやだあ、もう〜」と笑い声を上げた。


私は、箸を止めた。


家族の仲がいい……とは、こういうことなのだろうか。

私の中で、何かがずれた。



「朋子って、“君”って呼び方、嫌?」


「……うん、ちょっと子ども扱いされてる気がして」


「でも可愛いじゃん。ね、君」


私は笑えなかった。



夜、瀧口が言った。


「俺たち、理想の家族になれると思うんだよ。

 家系もあるし、学歴もあるし、君が合わせてくれれば、何も問題ないよ」


その“合わせてくれれば”という言葉が、

自分が「誰かのピースになるだけの存在」に変わっていく音に聞こえた。



最初に違和感を覚えたとき、私はまだ自分の心を疑っていた。


「わたしが神経質すぎるのかもしれない」

「義母だって、好意でしてくれてる」


けれど、“好意”と“支配”の境界線は曖昧で、

気づいたときには、それはもう越えられていた。



友人に話しても、「それくらいよくあること」と笑われた。

母に相談すれば、「あなたも大人になりなさい」と言われた。


だから私は黙ることにした。


黙ることで平穏が保たれるなら、

黙っていようと、そう思っていた。


だが、平穏とは沈黙のうえに築かれるものではなかった。

むしろ、沈黙こそが、嵐の序章だったのだ。



■■■ 第2部 志音 ■■■


《 第五章 胎動と断裂 》


妊娠が分かったとき、私は心から安堵した。


この家に、“わたしの味方”が来てくれるかもしれない。

瀧口の母でもなく、瀧口でもない――ただ私と、この子だけの関係が、

この閉ざされた空気を、少しは変えてくれるのではないか。


そんな期待を抱いていた。



七か月目。

産婦人科の診察台の上で、医師が言った。


「切迫早産です。今日から、入院してください」


子宮口が短くなり、張りも強い。

このままだと、赤ちゃんが産まれてしまう。


その言葉に、私は寒さのような緊張を覚えた。



病室。

24時間の張り止め点滴。

ベッドから一歩も動けず、天井の白い模様だけが、時間の経過を伝えてくれる。



翌日、瀧口がやってきた。

スーツ姿のまま、ドアを開けて入ってくると、やや早口で言った。


「ぼく、会社抜けてきたんだけど、15分しか時間ないんだよね」


私は微笑みながら頷いた。

それでも、来てくれたことは、少し嬉しかった。


「体調、大丈夫?」


「うん。張りが強くて、点滴で抑えてる」


「ふーん。じゃあ、寝てるだけってことだよね。

 それって、わりと楽なんじゃない? ぼく、椅子で仕事してるけど腰がやばくて」


「……楽じゃないよ。トイレにも自由に行けないし、薬の副作用で頭痛もしてて」


「でも、命に関わるほどじゃないってことだよね? 医者がそう言ってる?」


「……流産の危険はあるって言われてるよ」


「ああ。うん。でも、母も言ってたけど、昔の妊婦って臨月でも動いてたらしいし、

 “安静に”っていうのは現代医学の過剰対応って可能性もあるよね」


私は返す言葉を見失った。

彼の声の調子は一切感情を帯びておらず、ただ情報を処理しているだけのようだった。


「……わたし、怖いんだよ。ちゃんと産めるのか」


「怖いって、感情の話? それは主観的だよね。

 でも、医者が“今は安定してる”って言ってるなら、必要以上に不安になる必要はないと思うよ」


その瞬間、胸の奥で何かがひとつ、ぽきりと折れた。



その週末、義母が現れた。

ピンクのシャネルのジャケットに白いパンツスーツ。

手には紙袋いっぱいの食料。


「見舞いに来たわよ〜! ほら、退屈でしょ?」


笑顔のまま、ベッド脇の椅子にどかっと腰を下ろす。


「まったく、現代の妊婦はひ弱ね。安静安静って、昔の日本人なら“根性”で産んでたのに」


「……医者に安静って言われてて……」


「医者なんてねえ、保身で言うのよ。

 帝王切開にでもなったら、病院の儲けになるんでしょ?」


それが“冗談”のつもりなのだと、彼女の口調が物語っていた。

だが私は、笑えなかった。



義母は差し入れ袋をあさりながら言った。


「あら、こんな甘いものばかり。妊婦が太ったら、子どもに悪影響よ?

 ただでさえ“お腹の中の栄養”が脳に影響するんだから」


「……志音に問題があるって、言いたいんですか?」


「まさか〜。でもね、育て方ってすごく大事なのよ。

 障害なんて言葉、あたしの辞書にはないわよ。

 全部“しつけ”で変えられるもの。

 あなたがどこまで本気で子育てできるか、それ次第よねぇ?」


声は甘やかで、内容は毒だった。



その夜、張りが強くなり、点滴の量が増やされた。

医師は小さくため息をつきながら、ナースに指示を出した。


「ご主人、面会制限しましょう。ストレスが張りの原因になっています」



私はその言葉に、心の中で深く頷いた。

でも、瀧口にそれを伝えると、返ってきたのはメッセージだった。


《面会制限って、そんなこと決める権利、あるの?》

《それって、ぼくが“悪い夫”って扱いされてるってこと?》

《そっちの気の持ちようじゃない? 医者って、偏ってる人もいるから》



私はもう、何も返さなかった。



37週、破水。

逆子のため、帝王切開に切り替え。

手術中、意識の半分が薄れていくなかで、志音の産声が響いた。


「オギャア、オギャア……」


その声は、病室での全てのノイズを一瞬にしてかき消した。



志音。

“志”を持って生きてほしい。

音に導かれ、他者と繋がって生きてほしい。


そんな願いを込めた名前だった。


その時の私はまだ知らなかった。

この小さな命を守ることが、

私という人間の“再生”そのものであることを。




《 第六章 椅子の少年 》


 第一節:小さな祈りの手


志音が生まれたのは、帝王切開の手術室だった。

逆子によるリスクと切迫早産のため、37週での計画出産。

手術台の上で朋子が初めて志音の泣き声を聞いたとき、

その声は、どこか遠く、宇宙の真空を割って届いたような、奇跡の響きだった。


産後すぐの抱っこ。

志音は手足が長く、いわゆる“まるっこい赤ちゃん”とはどこか違っていた。

頭がやや大きく、四肢は細く、まるで少し違う次元の生き物のようだった。



生後6ヶ月を過ぎた頃から、志音はよく“手を組んで”いた。

胸の前で、まるで祈るように、小さな手を組み合わせて、じっとしている。

その姿はたしかに可愛かった。

けれど、朋子の胸には、ふとした不安が灯り始めていた。



志音が8ヶ月のある日、熱を出した。

近所の小児科にかかると、若い女性医師が診察室で志音の姿をじっと観察した。


「……お母さん、志音くん、いつもこうやって手を組んでます?」


「はい、あの、よく。特に熱のせいかと思ってたんですけど……」


女医はやわらかく微笑みながらも、

どこか探るような口調で言った。


「この年齢で“手を組む”という行動が頻繁に見られるのは、

 発達の偏りを示す可能性があります。

 ほかにも気になる点、ありませんか?」


朋子は、息を呑んだ。


「首のすわりが少し遅かったこと、

 あと、人と視線を合わせる時間が短いような気がして……」


女医は丁寧に頷いた。


「今すぐ確定診断というわけではありませんが、

 少し早めに発達相談センターや療育の窓口にご相談されるのがよいかもしれません。

 “気づいた時が、始まり”ですから」



帰宅後、朋子は義母と瀧口にその話をした。

すると、義母があからさまに鼻で笑った。


「まーた変なこと言う女医ね。きっと独身よ、絶対。

 “平凡な女”が、こーんな可愛い赤ちゃん連れてきたもんだから、

 嫉妬してるのよ。

 “自分にはできない母親業”をやってるあなたが、

 羨ましくて仕方ないのよ〜。ねぇ、学ちゃん?」


瀧口は淡々と応じた。


「そうだね。“ぼく”も少し違和感ある。

 医学的根拠が明確でない限り、早計な診断は意味を持たない。

 それに、自閉症スペクトラムは先天的因子が強く、

 “母親の育て方”では発症しないはずだし」


朋子は、その言葉に逆にぞっとした。

まるで、志音の中に何かしら“遺伝的な欠陥”があると、

静かに決めつけているような空気を感じたからだ。



それでも、朋子はこっそり児童発達支援センターに連絡をとり、

初回面談の予約をとった。


ところが、当日の朝。


「お母様、今日のキャンセルの件、電話いただいたお祖母様で間違いありませんか?」


「……え?」


「“この子は普通の子だから、センターなんて行く必要ない”と仰ってました」


朋子は、電話口で凍りついた。


“義母が……勝手にキャンセルした”


怒りとも、悲しみとも違う、

底のない虚脱が、朋子を突き上げた。


「キャンセルしてません!今日、行きます!……すぐ行きます!」



 第二節:診断と拒絶と、しつけという名の暴力


志音が3歳になった春。

自治体の3歳児健診の通知が届いた。


朋子は、胸の中にうっすらと積もっていた不安を、

この日で何か“答え”に変えられる気がしていた。


視線が合いにくい。

言葉が少ない。

手の動きが独特で、指先にばかり注意が向く。

パズルや図形には驚くほど集中するのに、名前を呼んでも返事しない。


そして、あの――“手を祈るように組む癖”。



健診会場。

心理士の女性が志音にカードを見せ、声をかける。


「志音くん、これはなにかな?」「○○できるかな?」


志音は、指示されても視線を合わせず、

静かに手を組み、身じろぎもしなかった。


結果はすぐに出た。

医師の面談のあと、相談室に呼ばれた朋子に、

担当医師が静かに告げた。


「志音くんは、重度の知的障害を伴う自閉症スペクトラム障害と診断されます」


“重度”という二文字に、朋子の世界が凍った。


医師の説明は丁寧だった。

脳の情報処理の仕方が通常と異なること、

特性に応じた環境が必要であること、

母親のせいではないこと。


けれど、朋子の耳には、

「“普通の子”ではない」という響きしか届かなかった。



帰宅後、結果を見せると、

義母はあきれたように言った。


「診断名がつけば、みんな安心するのよ。

 いわば、“逃げ道”。

 あの女医と同じでしょ?

 “何かを見つけた”ような顔して、自己満足してるのよ」


瀧口は、義母の言葉に淡々と付け足す。


「“ぼく”の知る限り、発達の遅れは“個性”の範疇であり、

 社会的に支援を受けるべき“障害”と定義するのは、時期尚早。

 ぼくの学術的判断では、教育によって改善が可能と考える」


朋子は、診断書を抱きしめたまま、言葉を失った。

(この人たちは――志音を、“矯正すべき欠陥”と見ている)



ある朝。

朋子が目を覚ますと、隣にいるはずの志音がいなかった。


慌てて義父母の部屋を覗くと――

そこには、椅子に縛られ、

右手に鉛筆を持たされて、テープでぐるぐる巻きに固定された志音の姿があった。


泣き叫ぶ志音。

朋子は咄嗟に駆け寄ろうとした。


「やめてください!!」


その瞬間、瀧口が朋子の両脇を押さえ、志音から引き離した。


「志音ちゃんは、やらせればできるの!」

義母の声が響く。

「泣いてるのは、“わがまま”よ。

 あなたが、“甘やかす母親”だから、こうなるの」


義母は、志音の右手を握り、強引に丸を描かせようとした。


「ぐるぐる、ほら!できるでしょ!?やればできる!!」


志音は泣きながら、首をぶんぶん振っていた。

まるで、魂の奥から悲鳴をあげるように。



朋子の胸の中で、何かが切れた音がした。


“この子を、守らなきゃ。

たとえ、夫でも。義母でも。家族でも。

この子の未来を壊す者は――敵だ”



 《 第七章 夜の逃走 》


雨が降り出す直前のような空気だった。

湿った夜風がカーテンの隙間を抜け、朋子の頬を撫でた。

部屋の中では志音が静かに眠っていた。

唇をかすかに開き、胸を小さく上下させている。

その呼吸が、かろうじて朋子を正気に繋ぎとめていた。


彼を抱えて、逃げなければ。

このままでは、志音は“生きたまま”壊されてしまう。


バッグには母子手帳、最低限の衣類、診断書のコピーと数枚の紙おむつ。

そして、母が遺してくれた数珠と小さな現金封筒。

それが“全財産”だった。


スマホの画面には、弟からのメッセージ。


《今夜1時、角のコンビニ前で停めとく。絶対、音立てんな》


朋子は頷きながら、志音に抱っこ紐をつける。

その小さな身体が、自分にぴったりとくっついた。


「しおん、いこうね……おかあさんと、いっしょに……」



廊下を歩く音も、壁の軋みも、すべてが自分を見張っているように思えた。

ドアノブに手をかけたとき、背筋がぞくりと震えた。


「朋子……?」


背後から、あの声が響いた。


一瞬、時が止まったようだった。

いや、違う。

止まったのは“現実”で、“恐怖”だけが加速した。


「朋子ァァァァァァーーー!!!!」


狂ったような、怒鳴りというより獣の吠え声だった。

振り返ると、寝間着のままの瀧口が、狂気を宿した目で突進してきた。


「どこへ行くんだよ!? なんで!? なんで黙って!!

 “ぼくたち”は、“家族”じゃなかったのかよォ!!?」


「志音を……返して!わたしの子よ!!」


「違う!!“ぼくたち”の子だ!!教育方針に異議を挟む資格、お前にない!!

 “短大出”が、何を分かったつもりになってるんだよ!!!」


手が伸びてくる。

掴まれたら終わりだ。


朋子は、とっさに台所に転がっていたマグカップを掴んで、足元に叩き落とした。

陶器が砕ける音に、瀧口が一瞬たじろぐ。


その隙をついて、朋子はドアを開け、志音を抱えて廊下を駆けた。

心臓が、鼓動というより爆弾のように鳴っていた。


「まて……まて、まて……まてェェエ!!」


瀧口の裸足の足音が追ってくる。

壁に何かがぶつかる音、瀧口が転んだか、何かを蹴ったのか。


朋子は息も絶え絶えに階段を駆け下りる。

手すりにぶつかりながら、志音を必死にかばう。



マンションの外に出た瞬間、夜風が全身を包んだ。

遠くに、ハザードを点けた白いバン。


「朋子!! こっち!! はやく!!」


弟が叫ぶ。

朋子は全力で駆け出し、バンのスライドドアを開けて、志音を抱いたまま転がり込む。


「閉めて!! 今すぐ!!」


弟がドアをバタンと閉め、アクセルを踏んだ。

エンジン音が爆発のように鳴り、車体が夜の街を引き裂く。


バックミラーには、走って追う瀧口の姿が一瞬映った。

裸足でアスファルトを踏み、髪を振り乱し、口元が怒りに歪んでいた。


「オマエごときが、“ぼくの家族”から逃げられると思うなよォォォォ!!」

「家畜が檻を蹴ったところで、人間にはなれねぇんだよ、朋子ォォォ!!」

「返せ……志音は“ぼくの跡継ぎ”なんだ!! あんな母親に育てさせるかよォォ!!」


車が角を曲がった瞬間、彼の声はかき消えた。


助手席で、弟が顔をしかめて言う。


「間に合ってよかった……でも、マジであいつ、ヤバいな」


「……うん。……うん、でも、もう……終わった……」


朋子は志音を胸に抱きしめながら、ようやく涙を流した。

それは悔しさでも、恐怖でもない。

命をつないだ者だけに与えられる、静かな解放だった。



バンは走る。

眠る街の影を抜け、ネオンの川を渡る。


向かう先は、神社。

叔父・元重が神職を務める、あの清らかな空間。

そこが、朋子と志音にとっての、最初の“安全地帯”となる。


光はまだ見えない。

けれど、“この夜”は、確かに切り裂かれた。


次は、新しい朝が来る――

明日はいい日になる、そう信じてーー



《 第八章 神の前にて 》


山あいの集落。

月が雲に隠れ、境内の石灯籠だけが、ぼんやりと辺りを照らしていた。

バンが止まり、エンジンを切ると、あたりは一瞬、完全な静寂に包まれた。


「朋子……ついたぞ」


弟の声で、朋子は抱きしめていた志音に視線を落とした。

疲れているはずの志音は、目をぱっちりと開けていた。

この子もきっと、何かを感じ取っていたのだろう。


「……大丈夫。ここは、神さまの場所だから」



社殿の奥、控えの間で待っていたのは、元重だった。

六十を越えてなお、白衣と袴を纏うその姿には、厳しさと静けさが同居していた。


「朋子……よく来たな」


低く響く声が、冷えきった心に染み込む。

朋子は、その場に崩れ落ちるように頭を下げた。


「ごめんなさい……ごめんなさい、わたし……」


「詫びることなど何もない。

よく、逃げてきた。――それだけでいい」



翌朝、神社に警察が現れた。

黒いスーツ姿の二人組。

手には、捜索願の写し。


「この女性と子どもに関して、ご家族から捜索願が出されています。

 所在の確認ができ次第、ご家族にご連絡を……」


「その“家族”とやらが、何をしてきたか、私から話そう」


元重は一歩前に出ると、ゆっくりと神職の手帳を開き、

朋子から預かった、これまでの記録を見せた。


診断書、写真、LINEのやりとりの記録――

正座を強いられる姿や、志音の椅子拘束の証拠も含まれていた。


「これは、“保護”ではない。“逃亡”ではない。

神前に身を寄せた母と子を、これ以上、“加害者の元”に戻すというのか?」


警官は顔を見合わせ、深くため息をついた。


「……ご家族に、保護されているとだけ伝えます。

あとは、民事で解決してください」


「そうしてくれたまえ」



その日の午後、神社に一本の電話が入った。

元重が受話器を取ると、受話口の向こうで、ヒリつくような声が響いた。


「元重さん……そちらに朋子がいるんですか?」


「瀧口くんか」


「ぼくの、家族です。志音も、ぼくの子です。無断で連れて行ったら、誘拐と同じです」


「その“同じ”に、どれほどの重さがあるか分かって言っているのか?」


電話の向こうで、何かが壊れるような空気が走った。


「彼女は“ぼくのもの”なんです。

 志音も、学のない女に育てられるには惜しい。

 ぼくが作り上げてきた家にふさわしくないんです、あの女は」


元重は、一拍置いた。


「ならば言っておく。

 お前が“所有している”と思っていた女は、

 今、この“神のまなざし”の中にいる。

 この社を、穢す者には、指一本、触れさせぬ」


「……っ、元重さん、あなた神職でしょう?

 なら、家庭の和を尊ぶべきじゃ――」


「“和”とは、力による支配ではない。

 神が祝福するのは、互いを尊ぶ者たちだ。

 お前に足りないのは“祈り”ではなく、“悔い改め”だ。

 二度と、この社の敷居を跨ぐな。さもなくば――お前の魂を神が裁くだろう」


ガチャン。


受話器を静かに置いた元重は、ひと息つき、

奥の部屋で息を潜めていた朋子の頭に手を置いた。


「もう、大丈夫だ。

お前も、志音も、ここにいる限り、誰にも渡さん」


その手のひらの温度は、父が亡くなって以来、初めて感じた“家族”のあたたかさだった。



■■■ 第3部 中村秀樹 ■■■


《 第9章 裁かれる恋、芽生える赦し 》


 ● 第一節:静けさの中の炎


神社の朝は、ひとつひとつの音が、透き通るように響いた。


鳥のさえずり、ほうきで掃かれる砂利の音、

社務所の奥から漂ってくる香のかすかな匂い。

ここには、怒号も、否定も、強制もなかった。

ただ“在る”ことを赦される場所だった。


逃げてきたのは、あの夜だった。

朋子は、志音を抱いて弟のバンに乗り、

赤信号を抜けて、警察の手から、義母と瀧口の目から、

すべての“管理”の手を振り切って、この神社へたどり着いた。


元重――

朋子の父方の叔父にして、神職。

強い威厳と、沈黙に似た優しさを持つ男だった。


「ここではもう、誰にも触れさせん」

そう言ってくれたその言葉に、朋子は初めて、“守られた”と思えた。



志音はまだ落ち着かない夜を過ごしていた。

眠っていても、突然泣き出し、

自閉症の特徴でもある手の組み動作や、細かい指先の動きが頻発した。


けれど、朋子はそれすら、慈しむように見つめた。


“障害”と呼ばれるものの中に、

この子だけのリズムがある。

それを破壊するような教育ではなく、

尊ぶような環境で包みたいと、

初めて本気で思えた。



調停の呼び出しは、一週間後に迫っていた。


裁判所に通うたび、朋子は自分の中に残る“姓”を強く意識する。

名前は朋子だが、戸籍の上では、まだ「瀧口」だった。


その姓が、皮膚の裏側からじわじわと沁みてくるような錯覚。

“逃げても、まだ縛られている”――そんな感覚が、いつも消えなかった。



そんな夜、志音が眠ったあと。

朋子は布団の中でスマートフォンを開いた。


通知がひとつ。

Facebookに、古い知人からのメッセージが届いていた。


送り主は――杉田直樹。

大学時代のサークルの後輩。

一度も恋愛感情を抱いたことはなかったが、

どこか人懐っこく、憎めない存在だった。


《朋子先輩、お元気ですか?

 Facebookで志音くんの日記、読んでました。

 実は、うちの子も同じような特性があって……

 もしよければ、ちょっと話せませんか?》


一瞬、戸惑った。

今の自分は、“人と会う資格”なんてあるのだろうか。


けれど、画面を閉じようとした指が、ふと止まった。


(誰かと話すことが、罪じゃないなら――)


朋子は、短く返信した。


《ありがとう。少しだけなら、お茶でも。》



 ● 第二節:名前のないやさしさ


待ち合わせは、調停帰りの午後に組まれた。

神社から二駅先のベーカリーカフェ。

杉田は、相変わらず朗らかだった。

けれど、どこか疲れたような目をしていた。


「志音くん、日記見てると、“そのまんまでいい”って言いたくなるね」

杉田はコーヒーを前に微笑んだ。


朋子は、ほっとしたような、泣きそうなような顔で笑った。


「杉田くんの子も、自閉傾向……?」


「うん、うちは“中等度”。でも、可愛いよ。

“みんなと違う”が、“だめ”じゃないことに気づくのって、

 自分が親になってからだった」


「……ほんとにそうね」



杉田は、スマホを操作して一枚の写真を見せた。

短髪にサングラス、バイクジャケット――悪そうな雰囲気。


「ちょ、なにこれ……?」


「見た目、イカついけど、めちゃくちゃ優しい奴。中村っていう。

 もと寿司職人、今はうちでWEBデザインやっててさ。

 仕事も丁寧だし、言葉遣いも……まあちょっと不器用だけどさ。

 婚約破棄されたばっかで、どん底。

 “自分、誰かと飯行ってもいいですかね”とか言うからさ。

 なんか、朋子先輩と気が合いそうで」


「いやいやいやいや、今わたし調停中なんですけど……?」


「だから“付き合い”じゃなくて、ただの“会話”。

 傷ついた人間同士、しゃべるだけでも、違うだろ?」



その日の夜、スマホに短いメッセージが届いた。


《杉田から聞きました。はじめまして。中村です。

 今しんどい時かもですが、

 しゃべるだけでも、よかったら、どうか。》


文章には絵文字も顔文字もなかった。

だけど、“言葉”にふしぎなあたたかみがあった。


朋子は、胸の奥で何かが小さく灯るのを感じながら、

短く返信した。


《こんにちは。わたしも、正直しんどい時期です。

 でも、話せたらうれしいです。よろしくお願いします。》



 ● 第三節:沈黙から始まる会話 


初めて会ったのは、横浜中華街だった。

あくまで“おしゃべり”という名目。

それなのに、朋子は何度もスマホのカメラで自分の顔をチェックしていた。

中村からのLINEには、最後にこう書かれていた。


《今日、しゃべれなくてもいいです。

 ただ、“会う”ってことだけで、オレは嬉しいと思う。》


駅前で待っていた中村は、思ったより背が高く、

思ったより声が低く、

思ったより、眼差しがまっすぐだった。


「……こんにちは、中村です」


「朋子です。……杉田くんが、変な紹介してなかった?」


「“変な”じゃなく、“変なほど真面目”って言ってた。

 正直、それで会いたいって思った」



中華街を歩きながら、最初はたわいない会話ばかりだった。

志音の話。寿司屋時代の話。失敗した婚約の話。


「8年付き合って、結婚式の3週間前に“やっぱ好きな人ができた”って言われたんだよね」

中村は、笑いながら話した。


「え、それ……大丈夫だったの?」


「大丈夫じゃなかったよ。でも、なんか、助かった気もしてる」

「自分の中の“他人に認められたくて選ばれる”って感覚から、解放された」


朋子は、黙って頷いた。

その言葉が、彼女のなかのどこかに、そっと触れた。



夕暮れ、中村がふいに言った。


「このへんに、海が見えるとこあるんだけど、行ってみる?」


「……うん、行きたい」


着いたのは、小さなベンチのある広場だった。

遠くに海が広がり、風が髪を揺らしていた。


「朋子さん、離婚……まだ途中なんだよね」


「うん。まだ“瀧口”の名前が、全部について回ってる」


「それでも……今日みたいに、だれかと歩いて、話して、

 笑ったりできることって、ダメなことだと思う?」


「……少し前のわたしなら、罪悪感で潰れてたかも。

 でも、今は……

 “赦されたい”って思ってる」


中村は、うなずいた。


「オレは、“赦す”とか“救う”とか、そんなことできないけど……

 “一緒に歩く”ことなら、できると思ってる」


その夜、朋子は、久しぶりに“罪悪感”なしに眠れた。



 ● 第四節:恋もまた、裁かれる


中村と会うようになってから、毎週末、どこかへ出かけるようになった。

“デート”という言葉を、朋子は使わなかった。

中村も、それを言わなかった。


ある週末の中華街。

香ばしいゴマ団子の匂いが漂い、龍の装飾のある看板の下を、

観光客の群れがそぞろ歩いていた。


朋子と中村は、人混みを避けるようにして、細い裏通りに入った。


「この辺、実は“穴場”なんだよ。

 チャーハン頼むと、謎の味つきゼリーついてくる店がある」


「それ絶対ハズレでしょ!」


「いや、あれがうまいんだって……たぶん」


ふたりは、笑いながら“謎の店”に入った。

店内は昭和レトロで、なぜか壁に金魚のポスターが貼ってある。


「すいません、チャーハン2つと……その、ゼリー……ってまだあります?」


「はいはい、ありますよ。今日は“杏仁のような何か”です」


「“ような何か”って言っちゃったよ!」



食べ終えた帰り道、朋子がバッグからハンカチを出そうとした瞬間――

中村の手と、触れそうになった。


ふたりとも、反射的に引っ込めた。


「……あ、あの、ハンカチ、どうぞ?」


「いや、オレが、先に、あの、ティッシュあるんで……!」


「そ、そう? うん……」


急にぎこちなくなる空気に、ふたりは噴き出した。


「なにこれ、学生かよ!」


「いや、マジでドキドキしたわ、今」



江の島の海岸では、風が強く吹いていた。


朋子が髪を押さえて歩いていると、

後ろから中村がそっと、ゴムを渡してくれた。


「結べる? 風、つよいから」


「ありがとう……あ、ちょっと、結べない、これ、手が……」


「……手、貸していい?」


「……う、うん」


中村が後ろから、そっと朋子の髪を束ねた。

指先が、ほんの少しだけ、うなじに触れた。


朋子は、息をのんだ。


「……できた。これで、風にも勝てるね」


「な、なにそのセリフ……戦隊ヒーローか!」



海辺のベンチで、ふたりは沈黙のまま潮風を浴びていた。

その沈黙が、なぜか心地よかった。


「……こうしてると、“悪いこと”してるみたいに思えなくなるね」

朋子がぽつりと言った。


「そうだね。

 でも、“悪いこと”って、誰が決めたんだろう」


その言葉に、朋子は小さく、目を閉じた。


この〝デートではない〟おでかけを毎週末重ね、

志音を元重に預けるたび、朋子は“罪と幸福”の間を漂っていた。


ひとつひとつの風景が、愛おしかった。

あたたかい手のぬくもり、笑い合う瞬間。

ふたりが並んで歩くだけで、心がやわらいでいくのを感じた。


けれど、調停は続いていた。



家庭裁判所。

書類が増え、瀧口側の主張は苛烈になっていく。


「志音の親権は“ぼく”が持つ。母親は情緒不安定で教育に不適格。

 家庭内トラブルの原因は、母親の精神状態にある」


朋子は耐えた。

泣かず、声を上げず、まっすぐに応えた。


「志音を、家畜のように扱ったのは、あなたです。

 “教育”の名のもとに、“強制”し、“閉じ込め”、“恐怖”で支配していた。

 わたしは、志音の母親です。たとえ、短大卒でも。

 たとえ、名前がまだ“瀧口”でも、

 “母であること”を奪われる筋合いはありません」


裁判官の表情は、動かなかった。

けれど、そのまなざしの中に、光があった。



その夜、中村からLINEが届いた。


《次の日曜、葛西臨海公園って、行ったことある?

 観覧車、でっかくてさ。ちょっと、景色、見たくて》


朋子はスマホを握りしめた。

翌週、判決が出る予定だった。

その前に、中村と――最後になるかもしれない一日を、過ごしたいと思った。


《行きたい。お願い》



 ● 第五節:名前の下にある決意


その日は、雨だった。

裁判所の屋根を叩く水の音が、緊張の鼓動をさらに煽っていた。


法廷には、朋子と柏木弁護士。

そして、瀧口と義母。

義母は深紅のスーツにパールのネックレス、

あたかも“勝者”のような風格で座っていた。


裁判官が、判決文を淡々と読み上げる。


「被告・瀧口学の教育方針は、児童に対する精神的虐待にあたると認定。

 原告・瀧口朋子に対し、離婚を認めるとともに、未成年子・志音の親権を付与する――」


その瞬間、朋子は息を呑んだ。

足元から崩れそうになる感覚。

でも、崩れなかった。中村の言葉が頭をよぎった。


「“名前”じゃなく、“気持ち”が自由を決めるんだって」



しかし、判決が読み終わるや否や、

瀧口が激昂した。


「なぜだ!中ランク大学卒の税理士の、あんな、短大卒の娘なんかに……!

 “ぼく”は東大だぞ!

 父も母も、学歴も家柄も、“ぼく”の方が上だろうがァァァ!!!

 こんな判決、狂ってる!! 世の中が間違ってる!!!」


警備員がすぐに駆け寄り、瀧口を押さえ込んだ。

義母が悲鳴を上げながら叫ぶ。


「うちの学ちゃんに恥をかかせてどうするのよ!

 あんな女の言うことを、裁判所が信じたっていうの!?」


朋子は、静かにバッグからスマホを取り出した。

そして、法廷の外で、指を震わせながらLINEを開いた。


《離婚、成立しました。

 志音の親権も、わたしが持つことに。

 ……ありがとう。中村さんのおかげです。

 自分の気持ち、言えないまま、ずっと来てしまったけど、

 今日だけは、わたし、自分のことを少しだけ赦せそうです。

 もし、時間があれば、日曜……葛西臨海公園、行きませんか?》


中村からの返事は、すぐに届いた。


《行こう。

 君が“朋子”という名前を取り戻した記念日に。

 観覧車、てっぺんまで行って、空を見よう》


朋子はスマホを胸に抱きしめた。


(やっと……やっと、ほんとうに、自由になれる)



 ● 第六節:愛と赦しの頂


日曜の午後、空は雲ひとつない淡い水色をしていた。


葛西臨海公園の観覧車は、海風に包まれながらゆっくりと回っていた。

下から見上げたその大きさに、朋子は思わず息をのんだ。


「……大丈夫? 高いとこ、苦手とかじゃ……」


中村が不安そうに聞くと、朋子は小さく首を振った。


「大丈夫。今日だけは……高い場所に登りたい気分」


切符を手にしたふたりがゴンドラに乗り込むと、

透明なアクリルの窓越しに、東京湾がゆっくりと広がっていった。


沈黙が、最初は少し気まずかった。

でも、少しずつ、静けさの質が変わっていった。


観覧車が中腹にさしかかるころ、

中村がそっとポケットから何かを取り出した。


「これ、渡そうと思ってた。今日、どうしても」


それは、小さなピンバッジだった。

シンプルな丸い形に、手彫りの“朋”の文字。


「自分で彫った。下手くそだけど、

 “ともこ”って名前、もう他人に縛られてないだろ?

 だから、“お前自身の名前”として、大事にしてほしいと思って」


朋子は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

涙が溢れそうになるのを、ぎりぎりで堪えた。


「……ありがとう。ほんとうに、ありがとう」



ゴンドラが、観覧車のてっぺんに届いたとき、

ふたりの間に、時間が止まったような感覚が流れた。


朋子は、中村の方を向き、ゆっくりと言った。


「今日から、わたしは“朋子”に戻った。

 誰の妻でもなく、誰の所有物でもなく。

 でも、あなたの前では、

 “守られたい女”で、いてもいい……?」


中村は、迷わず答えた。


「ずっと守りたい。言葉にできないときも、

 言葉じゃ届かないときも、そばにいたい」


朋子は、そっと目を閉じた。


ふたりの顔が近づき、

静かに、静かに、唇が触れた。


それは、

罪の終わりであり、

赦しの始まりであり、

“ふたり”という新しい物語の、最初の一章だった。


ゴンドラの外では、空がゆっくりと暮れていった。

観覧車の光が一つずつ灯りはじめ、東京湾に反射して、まるで星の海のようだった。



下に降りたとき、元重と志音がベンチに座っていて、

置いてあった紙袋からからクッキーを取り出し、朋子に差し出した。


「まま、たべる?」


「……うん。志音と、中村さんと、みんなで食べようね」



これが、“裁かれた恋”の結末だった。

だれのものでもない自分に還り、

誰かと共に生きることを、選びなおす物語。


そして、これは始まりでもあった。

“裁いたのは、世界じゃない。

赦したのは、自分自身だった”――



 《 第十章 神のまえで結ぶもの 》


白無垢の袖を整えながら、朋子は神社の鏡の前で静かに息を吸った。

真っ白な綿帽子に包まれた自分の顔が、

ようやく“だれのものでもない”顔をしていることに気づく。


元重の神社で結婚式を挙げたい――そう伝えたとき、

元重は即座に頷いてこう言った。


「この社にとっても、これ以上ない“祓いと結び”の儀だ」


中村は、黒紋付き袴。

手には志音の手を優しく包み込んでいた。


志音は白い小さな羽織に身を包み、

不思議そうに境内の緋毛氈を見つめている。


「まま、きょう、なにするの?」


「志音と中村さんと、家族になる日よ」


「かぞく?」


朋子は微笑み、志音の髪をそっと撫でた。



太鼓の音が一度、境内を震わせる。

神職の導きで、三人は拝殿へと向かう。


春の風が、社殿の階を吹き抜け、

白木の柱に吊られた紙垂しでがさやさやと鳴った。


やがて、元重が祝詞のりとを読み上げる声が、朗々と響き渡る。


> かしこみかしこみも申す

御親神の御前にて、朋子と秀樹、ここに心を交わし

まことの縁を結ばんことを願い奉る

この結びの縁、志音の命もまた取り巻きて

やわらぎと共に歩む道となりしこと

神前において、尊く、正しく、清く、結ばせ給え




朋子は目を閉じ、言葉のひとつひとつを胸の奥に沈めていった。

この祝詞は、父の葬儀のときとも、出産のときとも違う。

ただ、今、これから歩む人生を“神のまえで”選び取る言葉だった。



三々九度の盃。

朋子の手がわずかに震えると、

中村がその手をそっと支えた。


誓詞を読み上げる声に、志音がじっと耳を澄ませていた。

まだ“言葉の意味”はわからない。

けれど、その場の静けさと、

母と“なにか”が結ばれる気配を、確かに感じ取っていた。


式が終わり、拝殿から出ると、

空には澄みきった春の日差しが差していた。


「中村朋子……か」


朋子は、小さく呟いてみた。

その名前が、自分の中にすっと馴染んでいく。


「それ、似合うよ」

中村がそっと隣で言った。


志音は、ふたりを交互に見て、ぽつりとつぶやいた。


「まま、しろい。すき。」


「うん……ままも志音だーいすき。」


朋子は、涙がこぼれないように空を仰いだ。



■■■ 朋子・志音・秀樹 ■■■


 《 第十一章 誰かのために 》


 ● 第一節:47歳、春、私はまた学生になる


「学生証、できましたよ。3年次編入なので、単位認定の書類もこちらに」


福祉系大学のカウンターで、職員がにこやかに言った。

朋子は、それを受け取りながら、思わず小さく笑った。


47歳。

人生の半ばをとうに過ぎた年齢。

だが、その手の中には、まるで若葉のような光が宿っていた。



スターバックスの窓際の席。

朋子の推しのソイ・チャイティーラテを見て

にんまりしてから、MacBookを開き、慣れないパワーポイントで福祉心理学の課題に取り組んでいた。


「“エンパワメントの視点から見た支援者の役割”……うーん……」


眉間にしわを寄せたまま、横のテーブルにいた女子大生と目が合う。


「あっ……」

「……あ、ごめんなさい、めっちゃ集中してて……」


「いえ、私のほうこそ……アハハ」


女子大生のひとりが、笑いながら声をかけてきた。


「いつも、ここで課題してますよね? もしかして、同じ学部?」


「うん、社会福祉学部。編入で、3年から」


「すごーい……私、まだ2年ですけど、

 “課題こなすプロ”みたいな雰囲気ありますよ、先輩!」


「プロって……なんか恥ずかしいね、それ」



“学ぶ”ということが、朋子の体を、生き返らせていった。


学びは容赦なく、レポート、試験、実習、そして現場見学。

だけど、福祉を学ぶことのすべての始まりはが“志音ため”だった。

そして今は、それを超えて、“誰かのため”になっていきたいと心から思える。



夫・秀樹は、そんな朋子を静かに応援していた。


「最近の朋子、顔がキラッキラしてるな。

 もう、アイシャドウとか光ってるレベルじゃなくて、魂が発光してる」


「やめて、そういうの恥ずかしいってば」


志音は、隣でタブレットを操作しながら、ひとこと。


「まま、きらきら。……あした、テスト?」


「そう! 志音、応援してくれる?」


「……じゃあ、テストできたら、ままとマクドナルドいく」


「パパは行かないんかい!」秀樹が志音をくすぐる。


朋子は、少し泣きそうになってしまった。



 ● 第二節:合格の朝、三人の春


国家試験当日。

夜明け前のキッチンで、朋子は静かに白湯をすすっていた。


心は、意外なほど静かだった。

あれだけ勉強した。

泣きながらレポートを仕上げ、寝不足で通学し、

育児と課題を両立しながら、何度も「無理かも」と思った日々。


だけど、もう“挑むしかない”という腹は、とうに括れていた。


「まま、テスト?」


志音が、眠そうな顔でキッチンに入ってきた。

パジャマのまま、タブレットを抱えながら。


「うん、今日ね、すっごく大事な日なの。

 合格したらね、たくさん困ってる人、助けられるようになるの」


志音はしばらく考えるように黙ったあと、

ゆっくり、手を伸ばした。


「……がんばってね、まま。ハートかくから、」


志音は紙にいっぱい、「中村朋子♡中村朋子♡中村朋子♡」と何行もマジックで書いた紙を朋子に渡した。


「やだ、志音、のろいのお札みたいでこわいわ。」と朋子も秀樹も吹き出した。


一方で朋子は、一気に胸が熱くなった。


「とにかく、持つ知識よ全力で出てきて!」


試験は、都内の大学構内で行われた。

周囲は若い受験生たちで溢れていたが、朋子は臆さなかった。


(私は、“誰のためにこれを受けるのか”を、誰より知ってる)


問題は難しかった。

でも、ひとつひとつ、着実に、焦らず、読み解いた。


試験後、会場の前で秀樹が迎えてくれた。


「おつかれさま。これ、スタバの、、チャイチャイなんちゃら。疲れたときには糖分補給って、誰かが言ってた」

と、朋子のすきなチャイティーラテを差し出してくれた。


「うわー、嬉しすぎる!ありがとう!」と、朋子はティーを一口啜ったあと、ため息をついた。


「あーーー。なんか、まだ実感ないや。」


「その顔がね、すでに合格者の顔なんだよ、朋子さん」



数ヶ月後、結果発表。


社会福祉士試験のホームページを開いた瞬間――

朋子は、手が震えていた。


番号が、あった。

“私の番号”が、そこに、確かに、あった。



「合格したの……合格したの!!」


朋子はスマホを握りしめながら、中村と志音に叫んだ。


秀樹が、彼女を強く抱きしめる。


「やったな……おめでとう、朋子。

 お前は、誰かのために、ほんとうに立ち上がったんだよ」


志音は、ジャンプしながら言った。


「やった!まま、マックまたいけるよ!」


「志音。まま、マック行ったら、ダイエット中だけど、無礼講でビックマック食べるよ!

明日行く?」


「俺明日仕事、、」秀樹がしょんぼりしたふりをする。


「あしたマクドナルド行く。」と志音。


「こんのやろー」と志音をくすぐる秀樹。


朋子は2人を見てやれやれ、とした表情をするも、心の中では歓喜で叫び出したい気分だった。




 ● 第三節:神の手の中で、還る


社会福祉士試験に合格して間もないある日、

朋子のスマホが震えた。


《元重おじ、危篤。○○病院 集中治療室》


それは、従兄弟からの短いLINEだった。

朋子は、何も言わず荷物をまとめ、

秀樹に志音を託して、ひとりタクシーに飛び乗った。



病室に駆けつけると、

元重は白く光る機器の中に、静かに横たわっていた。

薄く開いた瞼。しぼんだ頬。

だが、その表情には、不思議な静謐さがあった。


ベッドサイドモニターには、まだ微弱ながら心拍が表示されている。


朋子は、枕元に座り、そっと手を握った。


「……元重おじちゃん。

 あたし、社会福祉士になれたよ。

 短大しか出てなかったわたしが、資格も取れた。

 たくさん学んで、たくさん間違えて、

 でも、あたしは人を“捨てない”側に立ちたくて……」


元重のまぶたが、わずかに震えた。

そのとき、朋子の頬に一筋の風が吹き抜けた。


「……おじちゃんの代わりに、

 わたし、ちがう形だけど、“困ってる人”を助けていく。

 神様のまえで、人の痛みと祈りを繋げていく。

 ……だから、見てて。あたし、もう大丈夫だから――」


その瞬間だった。

病室のカーテンが、

何者かの手で開かれたように、ぶわっと広がった。


午後の陽が、真っ白なシーツに差し込む。

心電図モニターの線が、緩やかな直線になり、

静かな“ピーーー”の音が部屋に広がった。


誰も、声を上げなかった。

医師が近づき、時刻を記録する。


朋子は、手を握ったまま、目を閉じた。


涙が流れていた。

だが、泣き叫ぶことはなかった。


彼は、“神に還った”。

この世でできることをすべて果たし、

ひとりの人間に“道”を渡して。



その日、朋子は、病室のベッドの傍らで、

もう一度だけ、頭を深く垂れた。


「おじちゃん、ありがとう。

 あなたの教えは、ちゃんと届いてたよ。

 神様じゃない。人間として、あなたの志を受け継いでいく。

 これからは、“地上の神職”として、困ってる人の隣に立つから――」



 ● 第四節:支援者として生きるということ


「はい、児童家庭支援センターです」


月曜の朝。朋子の声は穏やかだった。

白いブラウスに紺のパンツスーツ。

名札には、小さく「中村朋子(社会福祉士)」と刻まれていた。


子どもと家庭の問題を、現場で受け止める毎日。

泣き叫ぶ母親、黙り込む父親、怯えた目をした子ども――

そこにいるのは、かつての自分だった。



「……先生、わたし、もう子育て無理かもしれません……」

若い母親が、両腕を震わせながら話す。


朋子は静かに頷き、間を置いて、口を開いた。


「わかります。わたしも、

 “この子さえいなければ楽なのに”って思ったこと、あります」


母親は、泣きながら「ほんとに?」と訊いた。


「ほんとに。

 でも、“その思い”を人に話せただけで、

 その一歩が、母親として、じゃなくて“あなたとして”、

 生きてくれる最初の証になると思ってます」



ときには、DV加害者の父親と向き合うこともあった。


「僕は……家族のために厳しくしてるだけなんです。

 暴力なんて、してませんよ。ただ、少し声が大きかっただけで」


朋子は、じっとその父親の目を見る。


「“声が大きかっただけ”と、“威圧した”のは違います。

 でも、あなたの“家族のために”という言葉が、

 本気であるなら、支援は拒みません」


「……じゃあ、どうすれば……」


「いっしょに、“強くない優しさ”を育てていきましょう。

 子どもを恐れさせない強さを」


父親は、はじめて目を伏せた。



志音は今、中学の特別支援学級に通っている。

不器用だけれど、心のきれいな少年だった。

帰宅すると、朋子にこう言う。


「まま、きょう、だれか、たすけた?」


「うん、少しだけね。

 でも志音が、“いてくれた”から、ままはがんばれるの」


志音は照れくさそうに笑い、

キッチンからコップを持ってきて、水を注ぐ。


「まま、おつかれさま。のんで」



朋子は、手帳にそっとペンを走らせた。


《人を支えるということは、

 自分の“かつて”と何度も会うということ。

 でもそのたび、“今の私”が少しずつ、

 誰かの“明日”になっていく。》


 《 エピローグ 風が吹く方へ 》


春の午後。

神社の境内には、若草色の風が流れていた。


朋子は、参道に咲いた名もなき花を見つめていた。

もうすぐ五十を迎える。

けれど、不思議なことに――“これから始まる気がしている”。



志音は、あいかわらず口数は少ないが、

言葉を選びながら、ゆっくり話すようになっていた。


「まま、しおくん、きょう、学校でスノードーム作ったよ。キラキラしたのこぼしたら、先生、こらーーて。がおーーていった。」


朋子は笑った。


「先生、こらーーがおーーは言わないでしょ。」


志音は、少しだけニヤリとした。



秀樹は、今もデザインの仕事を続けながら、

週末には家族でキャンプや散歩に出かけていた。


「朋子、今日さ、“まま しあわせ”って、志音がノートに書いてたよ」


「え、それ……何のノート?」


「“せかいのなぞ”って書いてあった。

 オレ、ちょっと泣きそうになった」


「……うそ、それ、わたしも泣く」



夜。

風が音もなくカーテンを揺らしていた。


ベッドサイドで、朋子はノートを広げていた。

そこに、ペンで小さく綴る。


《“裁かれた恋”は、

 きっと、“赦される心”の旅だった。

 だれかを許すことも、

 自分を赦すことも、

 長くて深くて、だけど、光のある道だった》


志音が、布団の中から顔を出した。


「まま、きょうも“だれか”たすけた?」


「うん。志音が、“まま”でいてくれるから」



風が吹いた。

窓の外の木々がざわめき、月が澄んだ光を注ぐ。


朋子は静かに目を閉じる。

いくつもの名前を超えて、

いくつもの涙を抱えて、

それでも、“今”を歩いている。


――わたしは、

風が吹く方へ、

ひとの痛みが集まる方へ、

ひかりが届く、その先へ。






















この物語は、フィクションでありながら、

どこかで誰かが、本当に生きてきたかもしれない日々を描きました。


恋が、人を壊すこともある。

家族が、人を追い詰めることもある。

それでも――

人は愛されたいと願い、

だれかを守りたいと願い、

そして、また生きようとするのだと思います。


朋子は、完全なヒロインではありません。

弱さも、迷いも、怒りも、たくさん抱えています。

だからこそ、彼女が涙をこらえながら立ち上がるたびに、

わたしたちもまた、静かに立ち上がる勇気をもらえるのかもしれません。


この作品が、

あなた自身の記憶と交差し、

そっと心の奥をあたためることができたなら、

それが何よりの幸いです。


――中村 朋子

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