2-2 遭遇
屋敷は和風の平屋造りで、まわりを高い塀で囲まれている。表玄関に入る前にちらと見ると、左手は庭になっているようだ。土間の先は控えの間になっていて、その二間だけで、村で暮らした彼の家がすっぽり収まりそうだった。
白髪交じりの女中頭が屋敷を案内してくれた。
トメと名乗るその女中頭は、愛想はないがさっぱりとした物言いで、最初はおずおずと言葉を交わした暁臣も、次第に怖気づくことなく後を付いてまわった。
その日の夕食で、暁臣は富士家の面々と顔を合わせた。
屋敷の東南に位置する居間は、洋風の設えだ。天井にはガラス製の照明が吊り下げられ、壁一面に木板のパネルが張られている。中央の大きなテーブルとあわせて、重厚な雰囲気を醸しだしていた。
四つ並んだ椅子のうち、庭が見える南向きの縁側に面した側には、父親と女性が座っている。父親は襟付きシャツとベストを身に着け、女性も洋装で髪を結い上げた瀟洒な出で立ちだ。女性の隣には、暁臣よりやや年上に見える少女がいる。長い髪は下ろしたままで、やはり洋装姿がよく似合っている。暁臣はトメにうながされ、手前の空いた席に座った。
テーブルについた他の三人が、一斉に彼を見る。
暁臣は背すじがひやりと冷たくなった。
――ああ、そうか。僕は歓迎されていないんだ。
父親はあいかわらず、何を考えているのか分からない目をしている。父親の前に座る女性――おそらく父親の正妻は、憎しみを隠そうともしなかった。その隣の――彼の異母姉らしき少女は、冷ややかな視線を彼にむけた。
「……つまり、妻の三千子との間には、この葵しか子どもがいない。葵は今年で十二歳になる。おまえより二つ年上だ。今後はおまえを富士家の跡取り息子として扱うものとする。おまえも我が家に相応しくあるよう努力をしなさい」
「はい…………父さま」
最後のひと言を口に出すと、心臓が飛び出そうになった。場はしんと静まって、箸を動かす音だけが聞こえる。後悔に襲われながら、暁臣は隣に座る父親を見た。歓迎していない息子から「父さま」などと呼ばれて、不愉快にさせてしまっただろうか。しかし目が合うと、父親は黙ってうなずいた。
暁臣はほっと息を吐いた。
(よかった……少なくとも、父さまは僕を嫌ってはいないみたいだ)
張りつめていた全身がゆるんだ瞬間、がた、と椅子が激しく鳴った。驚いて音の出所を見れば、斜め前の妻が席を立っている。
「気分が優れないから、わたくしはこれで失礼しますわ」
「三千子、大事にしなさい」
恨みがましい目を夫にむけて、妻の三千子――暁臣の義母は部屋を出ていった。残された父親と義姉は黙って食事を続けたので、暁臣もそれにならった。
◆
暁臣に用意された部屋は、屋敷の南西にあった。
十畳ほどの和室で、西向きの縁側に面している。箪笥や文机といった調度は品がよく、若い女中が敷いてくれた布団も、厚くてふかふかだった。だがその中に潜りこんでも、母親の冷えた足はない。凍えたつま先をこすり合わせながら、暁臣は天井を見上げる。
しんと静かな夜だ。
村ではいつも母親と眠りについていた。母親が夜更けまで内職をしていても、針を動かす音を聞けば安心して寝ることができた。この屋敷はひろすぎて、自分の呼吸以外に生きているものの音がしない。掛け時計の秒針だけがやけに耳に響く。
眠るどころか、頭だけが妙に冴えていた。正体の分からない不安が秒針が鳴る度に増殖していく。どうしよう。夜明けまであと五、六時間はある。このまま眠られなかったら、この部屋にひとりきりで耐えられるだろうか。誰かに会いたい。母さまに会いたい。
暁臣は布団から抜けだして、縁側に出た。
縁側には雨戸が嵌められている。その内の一枚を開けると、燦燦と昼間のようなまぶしい光を浴びた。満月だ。暁臣は南側の庭に歩いていった。
池の水面も古木も黄金色にかがやいている。
――帰りたい。
美しく照らされた夜の庭を眺めながら、暁臣はぼんやりと思う。今すぐに母さまに会いたい。優しく歌う声を聞きたい。柔らかな手を握りたい。
――絶対に、帰られない。
暁臣の胸がぎゅうと痛む。この屋敷の跡取りになることを、あんなに喜んでいたのだ。母さまの笑顔を曇らせることなど、絶対にできない。暁臣は庭の片隅にうずくまる。
(……これから先、どうしたらいいんだろう)
物心ついたときから、自分の立場は薄々分かっていた。村で口さがなく言う者はいなかったが、大人たちの様子から、それとなく不義の子であると理解していた。しかし今日、義母や義姉に会うまで、暁臣はそのことを重く考えていなかった。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなってくる。
暁臣は立ち上がり、池の縁石に沿って庭をぐるりとまわった。やがて表玄関の前に出ると、そのまま横ぎって北門の通用口に向かう。春とはいえ、夜はまだ寒い。冷えきった手で閂を外す。
木戸を開けると、小道は白く浮かび上がっていた。
遠くで野犬の遠吠えが聞こえる。
黒光りする瓦を連ねた屋敷はどこも、眠っているかのように静かだ。
ふいに強い視線を感じて、暁臣はあたりを見まわした。ひゅっと心臓が収縮する。東の通りと交わる小道の角に、人影がある。
目を凝らせば一人の青年が立っていた。
西洋人だ。月明かりを溶かしたような黄金色の髪。真っ黒な長い外套が全身を覆っている。ずいぶんと背が高い。村長よりも、父親よりも、これまでに会った誰よりもすらりとした姿だった。西洋人を見るのは初めてだ。暁臣は逃げもせずに青年を見つめた。こんな夜更けになぜ屋敷町にひとり佇んでいるのかと、疑問に思うことさえしなかった。距離が縮まるにつれ、青年の面立ちが露わになる。
きれいなひとだった。
暁臣を見下ろす双眸は、薄氷の張った水面のような青だ。春の夜だというのに、凍てつくような冬の空気を思い出し、暁臣はぶるりと震えた。
そんな暁臣を見て、温めようと思ったのか――青年の両手が彼の首すじを包みこむ。
冷たい手だ。しかし触れられた箇所はじんわりと温まる心地がした。まるで母親の冷えた足先のように――。
暁臣の目が熱くなる。
胸にどろどろの溶岩がせり上がってくるようで、ひっ、としゃくり上げる。必死で堪えようとしたが、一度溢れたものは止まらない。ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてくる。
青年は驚いたように目を丸くして、彼の前に膝をついた。
「……ごめんね」
暁臣はしゃくり上げながら首を横にふる。恥ずかしくて、情けなくて、すぐにでも泣き止みたいのに自分でもどうしようもなかった。
「僕はっ……僕は……だめなんです。こんなふうに泣いたら……母さまが心配……父さまにも嫌われてしまう……のに……」
それ以上言葉にならず、暁臣はまたしゃくり上げた。記憶の限り、誰の前でも一度も泣いたことがない。それなのに、よりによって見知らぬひとの前で赤子のように泣きじゃくるとは。それにもし、このような醜態を父親や義母たちに見られたら――。ぞっとして顔を上げると、青年と目が合った。
暁臣は驚きに言葉を忘れる。
彼のからだは、青年の大きな腕の中にすっぽりと包みこまれた。
外套は羊毛製で暖かく、青年の腕はがっしりとして居心地がよく、ふんわりと樹木のような落ち着く香りがした。青年は微笑をたたえて言う。
「ゆっくりと深呼吸なさい。落ち着いて」
言われたとおり、吸って吐いてを繰り返すうちに、次第に平常心を取り戻した。
「……すみません。僕、あの……」
「大丈夫ですよ、暁臣くん」
暁臣は目を見開いた。なぜ、と問う前に青年は彼の頭を撫でて笑う。
「ここから北に少し離れた高台に教会があります。私はその教会の司祭です。地域の事柄は自然と耳に入ってくるんですよ。例えば、富士家のご長男が屋敷に引き取られた、などということも」
暁臣は羞恥に顔を熱くする。
では、もしも富士家の長男が引き取られた夜に道で泣きじゃくっていたら――。
彼の唇に、ぴた、と青年の指があてられる。
「安心してください。もちろん、今夜のことは誰にも言いません」
青年の言葉に胸がすとんと軽くなる。暁臣の表情の変化に気づいたように、青年は茶目っ気まじりの笑みを見せた。
「私はレナート・ドーン。みなさんはドーン神父と呼んでくださいます。主に誓って、あなたの秘密は守られますよ」
「……ドーン神父」
「ええ。あなたの名前とお揃いですね、暁臣くん」
意味が分からず首をかしげると、神父が目を細める。どこか遠くを見るような、それでいて暁臣を慈しむような、不思議なまなざしだった。
「ドーンは英語で『夜明け』という意味です。あなたの暁も同じです。いいですか、暁臣くん。今は真夜中ですが、あと数時間もすれば夜が明けます。どんな夜にも必ず朝はきます。今が辛くても、きみのその辛さはずっとは続きません。いずれ時が解決してくれます」
神父の真摯なまなざしから目が離せない。
ただ一心に、暁臣はその青い目を見つめた。
「ですが、辛い時間をあなたひとりで耐える必要はありません。教会はいつでも、誰のためにも開かれています。あなたが夜明けを迎えるまで、いつでも力になりましょう。あなたが来たい時にいらっしゃい。子どもには美味しいおやつも用意してありますよ」
温かく力がみなぎるのを感じながらも、最後のひと言にだけちくりと棘が刺さった。あんなふうに泣きじゃくる男子など、神父から見れば子ども同然なのだろう。しかしつい、声に出してしまう。
「ドーン神父、僕はもう十歳です! 子どもではありません!」
「……そうですね、失礼しました。では美味しい紅茶を差し上げましょう」
笑いをこらえるような神父を前にして、暁臣は気恥ずかしくてたまらない。ぺこと頭を下げると、身をひるがえして木戸を開けた。だがこれでは失礼ではないか、と思い返して、もう一度背後を振りかえると――。
月光を浴びた神父はあまりに美しく、人ならざる者のようだった。
暁臣は挨拶も忘れて立ちつくした。
神父もただそこに立ち、こちらを見ている。
やがて、ゆっくりと踵をかえし、黒い背中は通りへと消えていった。
■次回1/24(金)更新予定■




