2-1 出立
両手の指の隙間から光がこぼれる。
万華鏡のような瞬きを楽しんでいると、土手の向こうから賑やかな声が聞こえてくる。
「暁ちゃーん、そんなとこで寝転がってなにしてんだ?」
村の子どもたちが数人固まって手に手に細長い竹を持っている。自分たちで手作りした簡素な釣り竿だ。暁臣は草むらから起き上がる。土手の桜並木は風が吹かずとも花弁を散らし、彼は頭についた薄紅色を手で払った。
「日差しが気持ちよくて横になってたんだ」
「釣りに行こうぜ! 今日こそイワナが釣れるかもしれねえぞ」
少年のひとりが釣り竿を手渡してくれる。暁臣は「ありがとう」と笑って受け取った。上手くいけば、今夜は母さまと焼き魚を食べられるかもしれない。そう思えば、俄然駆ける足に力が入った。
暁臣が幼少時代を過ごしたのは、東京府の郊外にある小さな村であった。母親とのふたり暮らしで、父親は顔を見たことさえない。しかし、母親は毎晩彼の髪を撫でながら「お父さまは立派な方ですよ」と口癖のように話していたので、まだ見ぬ父親ながら暁臣も慕う気持ちを抱いていた。生活は貧しく、母親の内職や、村人たちの差し入れで日々をまかなっていた。質素な暮らしぶりではあったが、母親は彼に優しく、村の人びとも親切で暁臣に不満は一切なかった。
早く大人になって、母さまに楽をさせてあげるんだ!
それが彼の唯一の望みであった。
昭和の初め、暁臣が十歳になる年のことだ。暖かな春だった。村のそこかしこで山桜が満開であった。川の薄氷が溶けるや否や、子どもたちは、我先にと競って駆けていった。その帰り道のことだ。みんなでバケツを手にあぜ道を歩いていると、一台の車が遠くに見えた。こんな辺鄙な村で車が通るなど、年に数回もないことだ。子どもたちが口々に囃し立てながら、車の後についていく。暁臣も興味津々で走りだした。
(一体、どこに行くんだろう? 村長さんの家かな?)
ところが――車が停まったのはなんと、暁臣の家の前だった。
みんなの視線が一斉に集まり、暁臣は「知らない」という意味で首を横にふる。子どもたちの集団から離れ、彼は玄関の引き戸を開けた。土間から様子をうかがっていると「お入りなさい」と母親の声がする。普段とは違う、張りつめたような声だった。
おそるおそる障子戸を開けると、母親と初老の男が座っていた。男は遠慮のそぶりもなく、値踏みするように暁臣を上から下まで見て、満足げにうなずいた。
「こちらが暁臣様ですか。ふむ、よろしい。身なりはみすぼらしいが、利発そうな様子でいらっしゃる」
「ありがとうございます。母に似ず、できた息子です。きっと富士様のお血筋なのでしょう。小学校では一番の成績です。かならず富士家のお役に立てると存じます」
「いいでしょう。では一週間後にうかがいます」
男はさっと立ち上がり、中折れ帽をかぶって部屋を出ていく。母親は玄関まで見送ると、車が走り去る間ずっと頭を下げていた。暁臣も母親の真似をした。
緊張しながら母親を見上げると、もういつもの柔和な表情に戻っている。暁臣はほっとして、母親とふたりで家に入った。
しかし夕食の卓袱台をかこみ、母親から話を聞くうちに、次第に心が重くなる。
「……僕だけが、父さまの家で暮らすんですか? 母さまは一緒ではなくて?」
「あなたは富士家の跡継ぎになるんですよ、暁臣。立派な大人になったら、その姿を母さまに見せてちょうだい」
「……はい、母さま」
日頃から母親のしあわせを願っていた暁臣である。母親の望みとあらば、異を唱えられるはずもない。まして、このような――嬉しげな顔を見せられたら、なおさらだ。
一週間、暁臣は動きっぱなしだった。
空白の時間ができれば、すぐさま胸いっぱいに淋しさや心細さが押し寄せてしまう。だから空白を埋めようと、小学校から帰れば村長の家の雑事を手伝い、また母親の家事や内職を助けながら、その合間をぬって友人たちと春の野山を駆けめぐった。夜が更けても母親は針の手を止めないので、いつも暁臣は先に眠っていた。だが、この一週間は寝たふりをして、母親が彼の布団に潜りこむのを待っていた。母親がそっと薄い掛け布団をめくり、暁臣の髪をひと撫でして床に就くと、暁臣は寝返りを打つ素振りをして、母親の冷えきった足に自分の足先をくっつける。この貧しくも温かな母親との暮らしをずっと続けたかった。
ほんとうはどこにも行きたくない。
しかしそんな本音は、誰にも打ち明けなかった。
◆
出立の早朝、以前よりも立派な車が迎えにきた。
運転手が黒塗りの扉を開ける。降りてきたのは、中年の男だった。背広姿に山高帽をかぶった男は、まるで外国の児童文学の挿絵から現われたようだ。この堂々とした佇まいの男が自分の父親なのだと思うと、暁臣は誇らしい気持ちになった。
(母さまの仰るとおりだ! こんな紳士が僕の父さまだなんて!)
男はちらと彼を見下ろすと、声を掛けるでもなく、母親と玄関に消えていく。暁臣は追いかけたい気持ちをおさえ、軒先でひとり立っていた。しばらくの間の後、ふたりが家から出てきた。どんな話が交わされたのかは分からない。母親は、彼の知る普段の母親とはどこか違う雰囲気だった。
男は横目を彼に遣り、硬い顔のまま言う。
「来なさい」
「はい」
声の震えを必死で悟られまいとした。父親も自身と同様に、堂々と振る舞う息子を望んでいる気がしたからだ。暁臣は母親の手元を見る。紺の風呂敷包は、母親が縫ってくれた彼の着物や勉強道具と、わずかな身の回り品をまとめてくれたものだ。だが、脇からぴしゃりと声が飛んだ。
「必要ない」
暁臣は空中で手を止めた。彼の目の前で、母親は首を横にふる。どうすることもできず、彼は両手を体側につけ、背すじをぴんと伸ばして母親に礼をした。
母親は笑っていた。
毎朝、小学校に送りだすときと同じ顔だったので、暁臣はほっとして車に乗りこんだ。また、いつでも会えると思っていた。
――それを露ほども疑っていなかった。
◆
運転手が後部座席の扉を開ける。男に続いて暁臣も乗りこんだ。自動車に乗るなど初めてのことで、慣れない革の匂いと滑らかなシートにわくわくしたが、顔に出さないよう気をつけた。落ち着きのない子どもだと思われたくはない。それでも、ひと目母親の姿を見たくて窓を開けようとした。見送りに出ているのは母親だけだ。友人たちは今日の出立を知らない。別れを惜しまれながら過ごすよりも、残された一週間という時間を、普段どおりに楽しく付き合いたかった。
「行儀が悪い」
隣から男の低い声がする。窓から身を乗りだそうとした暁臣だが、慌てて席に上体を引き戻した。窓に映る見慣れた景色がみるみる後ろに流れていく。空が白み、朝焼けが田んぼを美しく染め上げる。
暁臣の目じりに涙が浮かんだ。
男に気づかれたくなくて、こっそりと片手で拭きとった。
数時間の道中、男は終始無言だった。
自分の父親とはいえ、全くの初対面の相手である。こちらから話しかけるのも躊躇われ、暁臣も黙って座っていた。「父さま」と呼んでみたいが、とても口に出せる雰囲気ではなかった。
やがて景色は瓦屋根と長い塀が並ぶ一帯に変わる。
(……豪華なお屋敷ばっかりだ。ほんとうに僕もここで暮らすのかな)
大きな屋敷の車寄せの前で、車が止まった。運転手が扉を開けると、男は足を下ろして――ふいに背後の暁臣を振りかえる。
「暁臣」
「……っ、はい!」
「よい名前だ」
そっけなく言うと、男は返事も待たずに歩いていく。一方の暁臣は後部座席から動けなかった。じわじわと胸に広がる温かさの正体が喜びだと気づいたとき、夢からさめるかのように「降りてください、坊ちゃん」と運転手の声が聞こえる。
この瞬間から、男は彼の「父親」になった。
今回から第二章が始まります。大正・昭和初期編です。少しでもお楽しみいただけましたら幸いです。




