1-4 邂逅 3
人混みを避けて歩くうちに、あたりは繁華街から住宅街になっていた。高架下を潜ってしばらく進むと、暁臣はふいに足を止める。民家が途切れた右手の脇道は、傾斜がついて上がり坂となっていた。両側には木が生い茂り、道の先は雑木林となっているようだ。どこか見覚えのある景色だった。妙に心を惹かれて、暁臣は脇道へと逸れる。しかし数分もしないうちに、呆然としてまわりを見まわした。
見覚えがあるのも当然だ。
この坂は――あの教会に続く道じゃないか!
激しい動悸に襲われながら、暁臣は憑りつかれたように走りだす。目の前に石段が見えた。数段飛ばして駆け上がると、まもなく、黒塗りの門があらわれる。
「…………っ!」
声にならない悲鳴を上げ、暁臣は建物をあおいだ。街灯はまばらであるが、夜目に慣れた彼には仔細が見てとれた。
明治の終わりに建てられた教会は、バシリカ様式を基としている。しかし南側には居住棟があり、建物は長方形ではなくL字型となっていた。門の先には石畳が敷かれ、教会の入り口へと続いている。小道の両脇には、イチイの古木が黒々とそびえている。
暁臣はめまいがした。
東京の街は様変わりして、彼の屋敷は塀すらも残っていない。それなのに――この場所はまるで、時を止めたかのようだ。薄闇のなかに佇む教会は、幼い頃から彼が見慣れた姿そのままであった。
震える指先で鉄製の門に触れる。
ひんやりと冷たい。
昭和の初め、教会の門はいつでも住民のために開かれていた。しかし今、彼の前にある門は固く閉ざされている。暁臣は門を見つめると、数歩後ろに下がった。勢いよく地面を蹴って、宙に身を躍らせる。たやすく門を乗りこえて、暁臣は入り口へとむかった。
◆
教会の扉は施錠されていなかった。ポーチに踏みこむと、暁臣は内部の様子をうかがった。身廊には会衆席が左右に並び、その奥には神父の定位置の内陣がある。背面の壁には大きなアーチ型の窓があった。
てっきり廃墟のような有り様かと思ったが、意外にも、内部はきれいに保たれていた。どうやら誰かが管理をしているらしい。内陣に設えられた祭壇には、両側に燭台が置かれている。ろうそくには火が灯されていた。光に吸い寄せられる羽虫のように、暁臣は祭壇に近づいた。祭壇のまんなかには十字架が掲げられている。
その十字架を彼はよく知っていた。
手を伸ばし、剣の柄にも似た先端に触れ――。
「なにしてるの?」
突然、後ろから声が飛んできた。
ぎょっとして振りかえると、暁臣の背後に青年がひとり立っている。どくん、と心臓が脈打つ。驚きすぎて声が出てこない。そんな彼を知ってか知らずか、青年は軽い足取りでやってくる。
「触っちゃだめだよ」
子どもに言い含めるように、青年が暁臣の手をつかむ。そっと十字架から引き離すと、彼の手を解放した。有無を言わせないが、思い遣りを感じられる仕草であった。
青年は彼よりも背が高いため、暁臣は見下ろされる格好となる。フードを目深にかぶり、黒縁の眼鏡が顔半分を占めている。それでもなお、この男の稀有な美しさは隠しきれていなかった。
忘れたことなど、一度もない。
優美で残酷な――吸血鬼。
「うわっ! なにするのさ?!」
掴みかかろうとした暁臣をよけ、青年は両手を上げて後退する。だが、暁臣にあきらめる様子がないと分かると、素早く両腕を捕らえ、いともたやすく祭壇に押し倒した。暁臣の頭は燃えるように熱く、割れそうなほど痛かった。もはや彼をのぞきこむ青年の顔しか見えていない。震える声を必死で絞りだす。
「ドーン神父! あなたは……やっぱり生きてっ……んぐっ!」
突然、唇にやわらかな感触が押しあてられる。それが青年の唇だと気づいても、暁臣にはどうすることもできなかった。次第に意識がもうろうとし、全身の力が抜けていく。暁臣が大人しくなると、ようやく青年は唇を離した。
「……ドーン神父は父方のご先祖だよ。俺はここの管理を任されてる」
吐き捨てるように言うと、青年は長い睫毛を伏せた。ろうそくの炎が気まぐれに青年の姿を浮かび上がらせる。フードからこぼれる金髪は、櫛を通していないのかあちこちが跳ねている。穴の開いたズボンに履き古した靴。そしてなにより、甘えるような軽い口調は――どう考えても、彼の知るドーン神父とは別人である。
冷静に結論を下した後、暁臣は別の意味で冷静さが吹き飛んだ。
「すみません! 僕は勘違いを……きみを別人と間違えて……その上、勝手に私有地に入りこんでしまって……申し訳ない!」
「なんであんたが謝るの?」
青年の指が暁臣の唇をなぞる。
「俺こそごめんね。どうやって黙らせたらいいのか分からなくて」
感情の揺れ幅が大きすぎて、先ほどの口づけは暁臣の頭から抜け落ちていた。しかし改めて言われると、まざまざと唇の感触が思い出されてくる。顔から火を噴きそうだった。青年の目が見られない。
「いい! いいんだ! 別に……大したことじゃ」
「大したことじゃ?」
どういうわけか、青年の声が暗く低くなる。なにか失礼なことを言ったかと暁臣が顔を上げた途端――。
内陣も、会衆席も、そして目の前の青年も――。
すべてが金色に染まった。
暁臣は考える間もなく背後を振りむく。
満月だ。内陣の壁半分を占める窓から光が射しこんでいる。雲の切れ間に煌々とまるい月がのぞいている。
(しまった! 人間を避けるために繁華街から離れたのに!)
目の前には青年が立っている。よりによって、あの男にそっくりな――。
「帰ります!」
青年を押しのけると、暁臣はもつれる足を踏みだした。しかし数歩も進まないうちに、肘を引っ張られて転びそうになる。そんな暁臣を片腕で支えながら、青年は静かに言った。
「どこに帰るの?」
「いいから……放してくれ!」
無理やり逃れようと力まかせに足を動かすと、ふわりと身体が浮く。暁臣は数秒の間、なにが起こったのか理解できなかった。会衆席に規則正しく並んだ椅子も、ポーチの重厚な扉も、なぜか横向きになっている。背中と膝はしっかりとホールドされて――。
「ちょっときみ?! なにをして……っ!」
「車で送るよ」
抵抗しようにも、こうがっちり掴まれていれば逃げようがない。青年に抱きかかえられたまま、暁臣は身廊を通りぬけて教会の扉をくぐった。
彼の記憶のとおり、駐車場は教会を出て左手にあった。すでに月は雲に隠れ、あたりは薄暗い。だが遠目にも、外灯の下に一台の乗用車が停められていると分かった。
「降ろしてくれ! 自分で帰られるからっ……」
「冷たすぎる」
ひとりごとのように言い、青年は助手席の扉を開けて暁臣を押しこんだ。青年が反対側にまわりこみ、扉を閉めてハンドルを握る姿を、暁臣はひな鳥のごとく目で追いかける。
「……慌てて家を飛び出して、外套を忘れたんです」
「十一月の格好じゃないね、着流しなんて。家はどこ?」
暁臣が駅名を告げると、青年はエンジンをかけた。イチイの並木道がヘッドライトで照らされる。青年の横顔はあいかわらず、フードと眼鏡で半分覆い隠されている。払いのけたい衝動をこらえ、暁臣は口を開く。
「…………ご迷惑をお掛けしてすみません」
「迷惑なんかじゃない。無事でよかった」
タイヤが砂利道を滑る音がする。閉じようとするまぶたに抗っていたが、暁臣はとうとう目を閉じた。からだがひどく重たい。疲れきっていた。吸血鬼が過労で死ぬことはないが、疲労で倒れることはある。なりゆきに任せると決めると、暁臣は眠りに身をゆだねた。




