1-3 邂逅 2
玄関の戸が閉まる音を確認すると、暁臣は廊下に身を躍らせた。
人の気配はない。廊下はうなぎの寝床のように細長く、前方には玄関が、奥は突き当たりになっていた。この和室の真正面にはガラス戸がある。室内にはずらりと本棚が並んでおり、どうやら書斎のようだ。暁臣はガラス戸を開けた。
(……ほんとに、あれから半世紀以上経ったのか?)
自称・四代目三好のひとを食ったような言動を思い出す。ひょっとすると、彼が眠っていたのはほんの数年で、担がれているだけではないのだろうか。一度生まれた考えはむくむくと広がり、暁臣はすがりつくように書斎を見まわす。なにか証拠はないか? ここが21世紀だと――いや、むしろ昭和だと確信できるなにかが。壁一面に配された本棚は、和書や洋書が混ざっている。部屋の奥には上げ下げ窓が、その前には机が置かれている。
暁臣は天板をひと撫でする。滑らかな紅褐色の一枚板は、おそらくマホガニー製だろう。これと似た物を一族の屋敷で見たことがある。イギリスから輸入した物だろうか――ふと、手が止まる。机の片隅に小型の卓上カレンダーがある。今は十一月。西暦は――。
どくん、と心臓がはねる。
四桁の数字を凝視しながら、暁臣は自分に言い聞かせる。
(いや、あの三好くんのジョークかもしれない)
その可能性は限りなくゼロに近いと、腹の底では分かっていた。いつ目覚めるともしれない彼のために、そんな労力を使うわけがない。そもそも、四代目三好が嘘をつく理由もない。
暁臣は書斎を飛び出して、便所で何度か吐いた。半世紀以上眠っていた彼の胃は空っぽで、吐きだされたのは緑茶と胃液だけだった。洗面所で口をすすいで、ついでに顔も洗う。鏡に映る自分は、半世紀の時を感じさせない。母親譲りの細面の顔立ち。まっすぐな黒髪は耳にかかる長さで、額の両側に前髪が垂れている。彼の十八歳の姿そのままだ。
便所は玄関のそばにある。暁臣は衝動的に土間に下り、目についたサンダルを履いた。ガラリと格子戸を開ける。門の左右は竹林におおわれて、さわさわと乾いた葉擦れの音がする。玄関から門まで伸びた敷石に、暁臣は足を踏みだした。
◆
屋敷は坂の上に立っていた。門の外には長い石段が連なり、暁臣は駆けるように下っていく。歩道に出てもなお、彼は望みを捨てられなかった。日本家屋が並ぶ路地には道行く人もいない。あてどもなく歩きながら「あのカレンダーは偽物だったのかも」と思い始めた矢先、暁臣は角を曲がった。
どうやら大通りらしい。
二車線の道路にはひっきりなしに車が走っている。車である。車ばかりが何台も何台も、彼の前を横ぎっていく。俥も馬車もまったく見当たらない。通りの両側には、背の高いビルが立ち並んでいる。まるで東京駅前の丸ビルが何棟も集まったかのようだ。その上、色とりどりの看板が所狭しと掲げられている。だが、問題はそこではない。
歩道には人が歩いている。
老人もいれば若者も、男もいれば女もいる。
スーツを着た男たちは、きっと会社員だろう。彼らの洋装は見慣れている。しかし、犬を散歩させている初老の男までもが、ポロシャツにズボンと洋装姿である。そればかりではない。今、自分の横を通りすぎた青年は、穴の空いたジーンズを履いて唇と鼻にピアスを付けていた。そして前方からくる少女はあろうことか、太ももまで露わにしたスカートをまとい、三好が持っていたような板を耳に当てて喋っている。
暁臣は空を見上げた。
灰色の重たい雲がたちこめている。
――ここは本当に、21世紀の日本なのだ。
「あの、すみません」
信号を渡ってきた、会社員らしき男に声をかける。駅までの道を尋ねると、暁臣はその方角を目指して駆けだした。
動いていなければ、気がおかしくなりそうだ。
◆
どこをどれだけ走ったか。気づけば、目の前には駅があった。暁臣は顔を上げて全体を見まわす。上部は半円形で吹きぬけの構造になっている。駅名には覚えがあったが、彼の記憶では桜の季節に賑わうような小ぶりな駅だったはずだ。それがどうだ。今では上野や新宿のように立派な駅舎となっている。
きょろきょろと首をまわしながら、ようやく券売機を見つけた。しかし帯に手をやって、ふと、財布もなにも持っていないことに気づく。彼が身に着けているのは、灰色に白の双子織の浴衣であった。両袖を探ったが、当然ながら空っぽである。三好と別れたあと、着の身着のまま家を飛び出してきたのだ。
(……なにをやってるんだ、僕は)
自分に呆れながら、他の客に場所を譲って数歩となりに避ける。運賃表を見上げていると、駅員から声をかけられた。
「お客様、なにかお困りですか?」
「……いえ。財布がないと気づいたもので」
「盗難ですか? それとも紛失を? 駅前の交番に行けば、自宅までの交通費なら貸してくれますよ」
暁臣は曖昧にうなずいてみせる。自宅からは今、出てきたばかりだし、そもそも自宅に彼の財布があるのかも分からない。
「大丈夫です、歩いていきますから」
「歩いて……ってどちらまで?」
目的地を告げると、駅員がひぇっと声を上げる。「四、五時間はかかりますよ?!」と、おろおろと手を動かす彼に頭を下げる。吸血鬼のからだも人間と同様に疲れはする。だが、人間と違って過労で死ぬことはない。家に戻って夜まで三好を待つよりも、何かしていたかった。
◆
線路伝いに歩いていると、次第に両脇のビルは高くなり、交通量も通行人も増えてきた。
あたりが薄暗くなってきた頃、暁臣は急いていた足どりをゆるめる。住居表示によれば、彼のかつての屋敷はこの地域にあるはずだ。暁臣は一心に目を凝らす。通りはにぎやかで、店先では男や女たちが呼びこみをしている。日も暮れてきたというのに、街はますます活気づいていくようだ。
どん、と酔っ払いの会社員がぶつかってきて「すんませーん」と笑いながら去っていく。暁臣は通りを見わたした。あちこちに連なる看板に、酒の匂い、頭が割れるような音楽に、人のざわめき。華族の屋敷が軒を連ねていたあの町並みは――影もかたちもない。暁臣は界隈を行きつ戻りつ、数往復した。やはり自分の屋敷はどこにもない。
足が鉛のように重くなり、次第に動かなくなる。
分かっていたことだ。
これだけ世界が様変わりしたのだ。あの屋敷だけがそのまま残っているわけがない。暁臣の知る三好は死んだ。富士家の父母も死んだ。弟の太一は老いてしまった。そして、彼を吸血鬼に変えた男も――もういない。
一度立ち止まると、もはや一歩も動けなくなった。暁臣は通りの端に身を寄せて、ビルとビルの隙間にうずくまる。酒と汚物が混ざったような饐えた臭いがする。野良猫が横腹を彼の足にこすりつけ、にゃあと一鳴きして去っていく。この汚れた狭い通路と自分とが一体化した気分だった。このままここに座り続けて、幾日も太陽の光を浴びていれば、いつかは自分も――。
からん、と足元に空き缶が転がった。
暁臣は眉をひそめる。頭上から降ってきたようだ。両側のビルを見上げたが、窓にも屋上にも人影はない。首をかしげて缶を手に取る。なんの変哲もないビールの空き缶だ。にわかに心臓が騒ぎだす。今、見た景色のどこかに違和感があった。
暁臣は頭上をあおいだ。
夜になっても、あいかわらずの曇天だ。
しかし薄墨の夜空には、朧げにまるい光が滲んでいる。
(今夜は……満月なのか?)
意識にのぼった瞬間、腹の底で渇きがうずいた。暁臣はぞわりとする。こんな人間の多い場所にいてはいけない。自分が何をしでかすか分からない! ふらつきながら立ち上がり、暁臣は通りから離れていった。




