2-14 嫉妬
夏の盛りの庭は、草木が争うように葉を広げている。
暁臣は団扇で顔をあおぎながら、おもむろに立ち上がった。空には茜の雲がたなびいている。八月の初めはまだ陽も長い。常なら夕暮れを待って散策に出掛けていたが、今日は根を詰めて翻訳をしていたため、少しあたりを歩きたかった。
首をこきりと鳴らして、暁臣は縁側から庭先に下りた。夏期休暇中といえども、課題は山のようにある。たとえ課題をこなし、無事に帝大に進んだとしても、その後の自分はどうなるのか。
(ドーン神父は、吸血鬼は年を取らないと言っていた)
これまで神父が年長だと疑いもしなかったが、あるいは、暁臣とさして歳が変わらない可能性さえもある。髪型や装いである程度のごまかしはできるだろう。しかし、今はよくても二十年後、三十年後はどうなる? 青年と中年の境は曖昧でも、青年と老年の差異はごまかしようがない。
(……いずれドーン神父も僕も、この街を離れることになるんだろうか)
課題に取り組みながらも、暁臣の胸からは寂莫とした思いが拭えなかった。どんなに熱心に学んだとしても、たとえ官職についたとしても、いずれ馴染んだひとたちの元を去るのなら――一体なにを目的として生きればよいのだろうか。
(……ドーン神父はどうやって折り合いをつけてるんだろう)
神父の青い目を脳裏に浮かべ、暁臣は池のまわりを歩いていた。てっきり、そのせいで幻を見たのだと思いこみかけた――なんと、南の縁側に神父そのひとの姿があったのだ。
人影は一つではなかった。神父を先導するのは暁臣の父親である。どうやら、二人は書斎から玄関へとむかう途中のようだ。夕陽がまぶしくて表情はよく見えない。
暁臣は意外な組み合わせに驚きを隠せなかった。彼と姉が礼拝に行くことは許可していたが、父親自らが教会を訪れたことはなかった。義母の実家があまりいい顔をしないためだ、と姉から遠回しに聞いたことがある。応接間ではなく書斎に通されるとは、公ではない用件なのかもしれない。どこか落ち着かない気持ちで、暁臣は表玄関へとまわりこんだ。
すでに車は走り去り、玄関に神父の姿はない。
式台に上がる父親を呼び止めると、ゆっくりと暁臣に顔をむけた。
「どうした、暁臣。出かけるのか?」
「いえ。ドーン神父をお見かけしたので……ご挨拶しようかと」
「……必要ない。もう帰られた」
暁臣は声も出せずに車寄せに立ちつくした。父親の顔は今朝とは違い、たった半日で十も二十も老けたようであった。うつろな目を暁臣から離し、父親は重たげな足取りで消えていく。胸騒ぎがおさまらず、暁臣は頭を冷やそうと庭にむかった。西の彼方に沈む夕陽が、街を焦げつかせるように赤々と燃えていた。
◆
翌週の土曜日は、ほどよく薄曇りであった。
車を降りた太一が、教会を見上げて歓声を上げる。暁臣は姉に肩を貸して、ゆっくりと太一の後ろを歩いていった。普段よりも歩幅は狭くしている。彼を見上げた姉は茶化すように「ふふ」と八重歯を見せた。
「暁臣もずいぶん背が伸びたから、丁度いいわね」
「姉さんの杖になるために伸びたんだ」
軽口で返すと、隣で楽しげな笑い声が上がる。まるで子ども時代に戻ったようで、暁臣は胸がいっぱいになった。こうして姉や弟と教会を訪れる日が来ようとは、予想だにしなかった。そのうえ、今日は――神父の手料理が食べられるのだ。
食堂の丸いテーブルには、湯気が立つ皿が並べられている。
太一は鼻をくんくんさせて目をかがやかせた。
「うわあ! すっごくいい匂いですね、神父様!」
白い磁器の深皿には真っ赤なスープが盛られている。ひと口大の野菜やベーコンがたっぷりと入っており、見るからに美味しそうだ。スープの他にも、ふんわりと焦げ目がついた四角いパンや新鮮そうなサラダ、チーズやハムが載る皿もある。たとえ吸血鬼には食事が不要だとしても、暁臣は眺めるだけでのどが鳴った。
白いテーブルクロスの上に、ナプキンが四つ並んでいた。各々が席に着くと、神父は姉と太一にオレンジジュースを、暁臣とおのれのグラスには炭酸水を注いでまわる。ぱちぱちと気泡が弾けるさまを暁臣はものめずらしく見つめた。
「それでは、いただきましょう」
ナイフを手にする神父を見て、暁臣はわずかに方眉を上げる。神父とともに食事をするのは初めてだったが、キリスト教徒は食前の祈りを捧げるはずだ。ひょっとすると、洗礼を受けていない暁臣たちに遠慮しているのだろうか。
「ドーン神父、主の祈りはよいのですか?」
隣に座る暁臣を見て、神父が唇を上げる。ただの微笑のはずなのに、暁臣はどこか薄ら寒いものを感じた。
「主の祈りとはなんですか、神父様?」
明るく尋ねる太一に向かい、神父がにっこりと笑う。
「私たちの神様が教えてくださったお祈りです。太一さんも祈られますか?」
「はい、教えてください!」
神父が祈りの言葉を唱えると、太一も見よう見まねで口を動かす。物怖じしない弟の様子が微笑ましくて、暁臣と姉は顔を見合わせた。二人もあとに続いて祈りを唱える。十字を切りながら、暁臣は内心で安堵した。
(やっぱり、ドーン神父は僕たちに遠慮していただけなんだ。さっきの表情も僕の思い過ごしだろう)
食事が始まると、暁臣はまっさきにミネストローネを口にした。無言で飲みこむ彼の隣で、神父が低くどんよりした声を出す。
「……微妙ですか? もしかしてバジルが強すぎましたか? それともパルメザンチーズが手に入らなくて、代わりにゴルゴンゾーラを使ったのがまずかったでしょうか?」
隣で念仏のように呟く神父に、暁臣はぶんぶんと首を横にふって叫ぶ。
「美味いですっ!!!」
「本当にすごく美味しい。神父様、お料理もお上手なのですね」
尊敬のまなざしをむける姉を見て、神父はいつもの穏やかな顔に戻った。
「ミネストローネはイタリアの家庭料理なんです。私の母はイタリア人なので、子どもの頃によく食べていたんですよ」
「そうでしたか。お母様は今もあちらに?」
「いえ、だいぶ前に亡くなりました」
姉は手を止めて「……それは残念です」と慰めの顔を浮かべる。暁臣も初耳であった。神父が日本に来るまでの経緯を、自分は何一つ知らない。吸血鬼一族の村でどのように暮らしていたのか、残してきたひとはいないのか、まだ尋ねたことはなかった。それを聞けば、妹の死も思い起こさせるのではないか――と思うと、安易に話題にはできなかった。
いずれにせよ、神父の言葉を借りれば、暁臣は一生このひとの傍でともに過ごすのである。急がなくても、時間をかけて相手のことを知っていけばよい。暁臣はそう結論づけた。そのような考えは、まるで伴侶に対するものではないかと気づき、夜中にひとりで頬を熱くしたりもした。
「では……お父様は?」
「父も子どもの頃に亡くなりました」
神父の隣に座る太一が、ぎゅうっと眉を下げた。
「それではお淋しくないですか?」
「大丈夫ですよ、太一さん。私にはあなた方も、それに信者のみなさまも、いらっしゃいますからね」
優しく諭すような声にうなずくと、太一はテーブルを見まわした。父親譲りの目をぱあっとかがやかせて、満面の笑みになる。
「神父様! 姉様とご結婚されてはいかがですか!」
暁臣はスプーンを落としかけた。彼の左右では、神父と姉がともにくすくすと笑っている。
「葵さんのような気立てがよい方と、未熟な司祭の私とでは釣り合いませんよ」
「人格者の神父様と、わたしのような浅慮な女では釣り合わないわ」
「ほら! お二人とも、息がぴったりではないですか!」
嬉しそうに声を上げ、太一は正面に座る暁臣へと身を乗りだす。
「兄様! 兄様もそう思いませんか?」
「ああ……太一。ふたりは似合いの夫婦になるだろうね」
「やっぱり! ほら、お二人とも、兄様も賛成してくれましたよ!」
太一の得意そうな声が遠くから聞こえてくる。姉や神父の笑い声もそこかしこで響いている。暁臣も微笑したまま、機械人形のごとく手を動かした。スプーンを口に運び、パンをちぎり、太一たちに相づちを打ちながらも、その実、なにひとつ味も言葉も頭に入ってはこなかった。
姉は気立てがよく、きれいで賢いひとだ。
神父も人柄がよく、美しくて聡明なひとだ。
伊集院と比べるまでもなく、このふたりなら間違いなく似合いの夫婦となるに違いない――そう思い至ると、暁臣の胸に暗雲が広がっていく。
(……ドーン神父は僕ではなくて、姉さんを伴侶に選べばよかったのでは?)
こっそりと盗み見れば、まるで通じ合うかのような目で、姉と神父は互いに視線を交わしていた。
来週末の更新(残り2話)で第二章が終わります。




