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2-13 牽制

 夕食の時間の前に、暁臣は寮に戻った。

 食事を終えて自室に入ると、見計らったようにノックの音がする。訝しみながら扉を開ければ、目の前に伊集院が立っていた。暁臣の後をつけてきたのかもしれない。


「……なんだ、きみか。こんな夜にどうした?」

「なに、おまえの容態が気になってな。見たところどこも悪くないようだな。うん? 手当てしたのか?」


 神父が包帯を巻いてくれた手首を見て、伊集院は舌なめずりした。暁臣が止める間もなく、その爪の伸びた十本の指が包帯を引きはがす。

「おい! なにをするんだ?!」

「なんということだ、富士! おまえの傷あとがないぞ!」

 伊集院は喜色を隠さない声を上げ、手を叩かんばかりの様子であった。


「ふざけるな! 勝手にこんなことをしてただで済むと思うな」

 脅しのつもりではなかった。伊集院の言動は度が過ぎている。父親からは華族と問題を起こすなと釘を刺されていたが、今朝の下級生しかり、このままでは他の学生にも被害者が出かねない。

「そうかっかするな。包帯が解けかけていたから、巻き直してやろうとしただけさ」


 暁臣は殴りつけたい衝動を必死でこらえた。暴力沙汰は好まないし、腕力に物を言わせる人間も軽蔑していたが、今このときばかりは我慢がならなかった。

(せっかくドーン神父が手当てしてくれた包帯を!)

 怒りを露わにする暁臣に構わず、伊集院はにやにやと笑うばかりだ。


「余計なお世話だ」

「まあそう言うなよ。なあ、富士。俺は人体の神秘に興味があるんだが……これは一体どういうことだ? なぜおまえの傷は跡形もなく消えている?」

「ふん、なにを言う。あれはただのシマヘビの変異種だ。噛まれたところで大した傷じゃない。都会育ちのきみは知らないだろうが、あんなもの半日もすれば治るんだ」


 騒ぎを聞きつけたのか、隣室の級友が顔をのぞかせた。「加勢するか?」と目配せする級友に首を横にふり、暁臣はなおも伊集院をにらみつける。形勢が悪いと思ったのか、伊集院は軽く咳払いして後ろに下がった。

「いいだろう、今夜はおまえの顔を立ててやる。だがな、富士。これで終わりじゃないぞ。おまえとは……これからも長い付き合いになるだろうからな」


 意味深げな言葉を残し、伊集院は廊下を遠ざかっていく。

 暁臣は妙な胸騒ぎがぬぐえなかった。



 それから二週間が過ぎた。


 教室や談話室ですれ違っても、伊集院は薄笑いを浮かべるだけで、暁臣に絡んでくることはない。よもや取り越し苦労だったかと、警戒を緩めた七月の終わりのことである。

 窓の外の曇天は、今にも雨が降りそうだった。

 暁臣が教科書を片づけていると、机に陰ができる。顔を上げれば、正面に伊集院が立っていた。


「なにか用事か、伊集院?」

「富士、おまえの姉上はどんな方だ?」

「……なぜそんなことを聞く?」

「おまえの父上とお祖父様から縁談が出ているそうだ。どうやら俺の父のところで話が止まっていたらしくてな。おまえの姉上ならかなりの美人だろう? ぜひ話を進めてもらおうと思っているのさ」


 衝撃のあまり、暁臣は二の句が継げなかった。姉の縁談はもちろん、相手が伊集院であることも寝耳に水である。よりによって伊集院とは――と愕然としながらも、はっと頭のなかで点と点とがつながった。春先の姉や義母の言動を思い返せば心当たりはある。あの話はこの縁談のことだったのだ!


「姉はきれいなひとだ。だが見た目だけじゃない。優しくて思い遣りがあって、それに賢いんだ」

「はっ、女の賢さなんてたかが知れている」


 鼻で笑う伊集院を見上げ、暁臣はさあっと目を細くする。どうあがいても、この男が姉と似合いの夫婦になるとは思えない。あからさまな軽蔑の目を向けられて、伊集院は不満げに唇をゆがめる。

「おい、その顔はなんだ。俺が頼んだわけじゃない、そっちが頼んできたんだぞ。伊集院の名を借りて、あわよくば叙爵の機会をと狙ってるんだろう。まあいい。おまえの母方のお祖父様は水野伯爵だそうじゃないか。だったら、まあ俺とも釣り合うだろうさ」


 言うだけ言うと、伊集院は自席に戻っていった。はなから暁臣の意見はどうでもよく、目的は牽制であったらしい。薄暗かった窓の外がぱっと明るく光る。少しの間のあと雷鳴が響き、雨しぶきが窓を打ちはじめた。


 暗い夜道を歩きながら、暁臣はため息をつく。


 授業が終わるや否や、すぐさま屋敷に戻り、姉に事の真偽を確かめてみた。しかし布団から上体を起こした姉は、つぶらな目できょとんと彼を見上げるばかりであった。


「あら、伊集院さまと結婚なんてしないわよ」


 きっぱりと言い切る姉の顔に嘘は見当たらない。昼間の伊集院の言動も吹き飛ぶような姉の態度に、暁臣は首をかしげる。どこかで話が食い違っているのだろうか? 伊集院の独り合点ならよいのだが――。

 傘を差していても、もはや役には立たなかった。暁臣は諦めて傘を閉じ、荒れ狂う雨のなかをずぶ濡れのまま駆けだした。


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― 新着の感想 ―
蛇は伊集院が暁臣の傷を見つける展開だったんですね!それより、結婚話が本当になりそうで怖い!!
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