2-12 白昼
神父は約束を違えなかった。
【血の儀式】の次の週――7月の初めに、暁臣は礼拝の後に呼びだされた。彼を応接室のソファに座らせると、神父は儀式の翌朝と同様に、書斎机に腰を下ろした。
「最初に注意すべき点を話しておきましょう。以前に、吸血鬼は永遠に生きると言いましたが、永遠に近いと言うほうが正確です。私たちにも死の条件があります」
心臓を貫かれたり、頭部を切断されたりすれば確実に死ぬ。太陽の光を浴び続けたり、人間の血を摂取しなかったりしても、いずれは死ぬのだという。また吸血鬼の死には遺体はなく、灰だけが残るらしい。まるでドラキュラ伯爵のようだ――という思いが暁臣の顔に表われていたのか、神父は軽く笑った。
「あの小説も映画も、実際、真実は含まれているんです。ストーカー氏もムルナウ監督も、見聞きした伝承から着想を得たのかもしれませんね」
神父によると、吸血鬼の一族の村が英国にあるという。村とはいえ人口は百名足らずで、暁臣の郷里の村よりも小さい。スコットランド貴族の領地でひっそりと暮らしているそうだ。村人には吸血鬼だけではなく、人間もいるらしい。吸血鬼の血縁の者や、当主の屋敷の使用人たちであるという。
「その人たちも……あんなふうに血を吸われるのですか?」
神父は苦い顔で首を横にふった。
「いいえ……違います。あの夜に話したとおり、私たちには人間の血が不可欠です。しかし吸血鬼が直接人間の血を吸えば、強烈な快楽がともないます」
羞恥に目を伏せる暁臣に構わず、神父は説明を続けた。あのような快楽を一度味わえば、その人間は中毒となり、いずれ血がつきて死ぬ可能性もあるという。そのため、一族の村では、定期的に小瓶に詰められた血液が配布される。事前に集めておいた人間の血を、各々の吸血鬼の必要に応じて与えるのだという。
「必要に応じて? みんな同じではないのですか?」
「吸血鬼には個体差があるんです。最も強い個体は一族の始祖で、彼は年中日光を浴びても、長く血を飲まなくても死にません。始祖の血が濃いほど強くなります。長……今は亡き一族の当主や、その奥方のばば様は強い個体です。残念ながら私は違いますので、暁臣くん、あなたもよく気をつけて生活なさい。無防備に太陽の下を歩かず、血液も週に一度は摂取するように」
暁臣は素直にうなずきながらも、内心で首をかしげた。
(ドーン神父は日中も礼拝をしたり、石畳を掃いていたけれど……あの程度なら問題がないんだろうか?)
愚問と知りながらも、暁臣は「食事ではだめなのですか? その……普通の食事です、人間の」と食い下がってみる。神父は取りつく島もなく、あっさり否定した。
「だめです。食事も水も生命維持には必要ありません。ですが人間の血を飲まなければ、確実に死にます」
「ではどうするのですか? ドーン神父、あなたはどうやって血液を手に入れているんですか?」
一族の村から離れて、という言葉を暁臣は飲みこんだ。本来であれば――神父も英国のその村で暮らしていたはずだ。ひとりで遠い異国の地にやって来たのは、妹の死となにか関係があるのかもしれない。
「血液を届けてくれる者がいます。外務省の役人で……まあとにかく、きみの手を煩わせはしません。毎週、礼拝の後でここに立ち寄りなさい」
話を終えるように、神父は引き出しから小瓶を取りだした。手渡されたそれは、50mlほどの褐色瓶で中身は液体で満たされている――人間の血液に違いない。他にも聞きたいことは山ほどあったが、暁臣はおとなしく瓶の蓋を開ける。おそるおそる口に含めば、夏の盛りの冷水のごとく全身が満たされる心地がした。だがそのような自分を認めたくなくて、一気にのど奥へと流しこむ。
「そんなに渇いてたんですか? もう一本差し上げましょうか?」
「……要りません」
暁臣はちらと神父を見て、後ろめたさに目をそらした。彼が飢えているのは――あの夜に味わった神父の血である。そんな本音を言えるわけもなく、暁臣は黙って空き瓶を返した。
◆
タクシーはものの数分で目的地に着いた。
まぶしい陽光に目を細め、暁臣は足早に教会の石畳を歩く。
今月の――七月の初めに説明を受けて以来、暁臣は礼拝の度に神父の応接室を訪れていた。今週も、つい数日前に顔を合わせたばかりである。だというのに、気づけばタクシーの運転手に行き先として、この場所を告げてしまっていた。
すでに吸血鬼となった暁臣が神父の「食事」となることはない。神父によれば、吸血鬼が他の吸血鬼に血を吸われても、あのような快楽を感じることはないという。
あの気が狂うような夜は――最初で最後の一度きりだったのだ。
暁臣は聖堂をまっすぐに進み、居住棟に続く扉に鍵を差しこんだ。礼拝時以外、扉は施錠されている。用事のある者は、扉の脇のボタンで来訪を知らせる仕組みだった。今月の初めに合鍵を渡されたものの、使うのは今回が初めてのことだ。
応接室をノックすると、少しの間のあと返事があった。
扉を開けた暁臣は、そのままの姿勢で立ち止まる。部屋には先客がいた。書斎机の横に立ち、神父とともに暁臣を見つめている。
彼より年長の、二十代後半ほどの男であった。仕立てのよい灰色のスーツを着て、黒髪をきれいに耳の横で揃えている。黒目がちで風貌の整った男であるが、どこか冷めた、人を小ばかにしたような印象の方が強かった。暁臣は一歩後ろに下がる。
「来客中に失礼しました、出直してきます」
「構いませんよ、暁臣くん。彼はもう帰りますから」
神父に視線を送られた男は、ちら、と冷ややかな目を暁臣に向けた。否定とも肯定ともつかない様子で首を振り、トントンと人差し指で机上をたたく。
「では、頼まれた物は来月には送ります」
「ありがとう、三好さん。よろしくお願いします」
「……ドーン神父。あまり勝手はなさらぬよう」
静かだが威圧的な声で言い、男は暁臣の立つ扉にやってくる。暁臣が半歩廊下によけると、その間をぬうようにすれ違い――憐れむような目つきで去っていった。
「暁臣くん、どうしました? 体調が悪いんですか?」
労わるように神父から尋ねられ、暁臣は慌てて片手を振る。ところがそんな彼を見た途端、神父は勢いよく椅子から立ち上がった。ぐいと彼の手をつかむと、食い入るように凝視する。
「これは何です?!」
「あ……ええと……蛇に噛まれて……」
暁臣の手首にはべっとりと血がこびりついていた。どうせそのうち治ると思い、洗うことさえ忘れていたのだ。
「蛇?! きみの寮も学校も街なかでしょう! 故郷の村じゃあるまいし、どうやったら蛇に遭うんですか!」
早口でまくし立てながら、神父は棚から薬箱を取りだした。ピンセットで綿花をつかみ、消毒液に浸すと暁臣の手首につけていく。
「あっ……ドーン神父、痛い! 痛いです!」
「これぐらい我慢なさい! まったくもう……先日会ったばかりなのに、少し離れた間になんでこんなことに……」
「これぐらい平気です、どうせ死なないんですから!」
暁臣の放った言葉に神父は黙りこくる。しまった、と暁臣は唇を引き結んだ。神父の傍にいることを選んだのは自分である。その代償がどれほどのものであっても――こうして吸血鬼になったとしても、神父を責めるつもりはない。しかし、暁臣の内心で言いようのない思いが渦巻いているのも事実であった。つい、それを露わにしてしまった。
「……そうですか」
低くつぶやくと、神父はピンセットを机に置いた。腰をかがめたかと思うと――暁臣の手首にちく、とかすかな痛みが走る。
「ドーン神父?!」
手首を見れば、凝固した赤い塊の上に新たな血がうっすらと滲んでいた。今、神父が歯を立てた痕だ。神父は上目遣いでちらと彼を見ると、黙って血をすすった。
「……なっ、なにをっ……」
「痛かったでしょう?」
「えっ……?」
「死にはしなくても、蛇に噛まれた痛みは感じたでしょう? 自暴自棄にならず、これまでどおり気をつけて過ごしなさい」
返事をしながらも、暁臣はうわの空であった。あの夜のような恍惚とした感覚はないものの、自分の肌に神父の唇が触れて、その血を吸われている感触だけで、呼吸が止まりそうだった。
「……僕の血は……どんな味ですか?」
思わず言葉を漏らしたが、恥ずかしさに顔が熱くなる。すぐさま打ち消そうとした暁臣に、神父はどうとでもない様子で言う。
「蜂蜜酒のようです」
「そ……それは……美味しいんですか?」
「美味しいですよ、とっても」
暁臣は自分の目を疑った。彼の前でかがみこむ神父の耳が、わずかばかり薄紅色に染まっているように見えたのだ。
(……ドーン神父が照れてる?)
じっと見つめる暁臣の視線を振りきるかのように、神父はぱっと顔を上げると、光のような速さで彼の手首に包帯を巻きはじめる。すでに血は止まり、蛇に噛まれた傷あとも薄くなっている様子だった。
このように怪我の手当てをされるのは、幼い頃以来である。谷間の石で転んだり、野山の枝で切ったりした暁臣の手や足を、母親は優しく手当てしてくれた。しかし富士家に引き取られた後は、誰にも気づかれぬように一人で処理していた。
手首に包帯を巻いてくれる神父を見ていると、心がじんわりと温かくなる。その温かさのせいか、いつもは遠慮している雑談が暁臣の口をついた。
「ドーン神父は、ミネストローネを召し上がったことはありますか?」
「……ミネストローネ、ですか?」
ぽかんと目を丸くする神父に、暁臣は事の次第を説明する。
「つまり、太一さんが食べてみたいと?」
「はい。友人のご親戚が欧州に留学中で、イタリアを訪問した折に召し上がったそうです。先日の夕食で話題になったのですが、うちの家政婦にはどんなスープか見当がつきませんし、市内の洋食屋にもありませんし……」
「なるほど……」
神父は考えこむように口元に手を当てた。気を煩わせてしまったかと心配するほどの沈黙の後、ようやく青い目が暁臣へと戻る。なにかを決意したような目つきだった。
「だったら……私が作りましょうか?」
今度は暁臣がぽかんと口を開ける。
「……あなたが、ですか?」
「ええ、ミネストローネは昔よく食べてたんです。レシピを思い出すので、少し時間をもらえますか? たぶん、お腹を下すような代物にはならないと思いますが……」
「ドーン神父、あなたは料理も作られるんですか?」
「まあ、独り身ですし。下男はいても家政婦はいませんから」
神父は肩をすくめて言うと、薬箱を片づけはじめる。いつの間にか、暁臣の手首にはぴっちりと包帯が巻かれていた。