2-11 口論
夏の暑さも曇天であれば、いくぶん気が楽になる。
窓の外には灰色の雲が垂れこめていた。教師の声を気持ち半分で聞きながら、暁臣は視線を窓から教室へと移す。斜め前方の席では、男子生徒が教科書を盾に洋書を読んでいる。伊集院伯爵の三男だ。
伊集院の痩せた背中をながめ、暁臣は眉をひそめた。伊集院とはこれまでほとんど接点がなかった。暁臣には華族の友人たちもいるが、彼らは伊集院と距離を置いているため、交友関係が重なることもない。
初めてまともに言葉を交わしたのは、二週間前――七月の中頃のことだ。
◆
先月の【血の儀式】以来、暁臣は晴天の日は登校を避けていた。寮母が心配してあれこれと薬を持ってきてくれたが、のらりくらりとかわす日々である。その日の朝もまぶしいほどの上天気で、暁臣は自室のベッドで教科書を読んでいた。
そろそろ休憩しようかと、冷めた茶をひと口飲んで、教科書を閉じたときである。窓の外から小さな悲鳴のような声がした。暁臣は二階の窓から裏庭を見下ろした。一人の青年と少年が口論をしているようだ。
「そこで何をしている?」
第三者が割りこめば、すぐに止むだろうと思っていた。だが予想に反して、青年はちらとこちらを見上げただけで、またすぐに少年へ向き直った。どうやら少年のほうが劣勢らしい。裏庭は玄関から遠く、寮母も舎監も気づきはしないだろう。暁臣は束の間逡巡すると、窓から身を乗りだして傍の枝に飛び移る。木の枝から幹へとつたい、滑るように降りていった。
「なんだ、富士じゃないか。おまえがそんなに身軽だったとはな」
「伊集院、学校はどうした? 今は授業中だろう?」
暁臣はふたりの前に立った。伊集院はにやにやと笑い、少年は青い顔をしている。まだ幼さが残る中等科の学生だった。なぜこんな所に、と首をかしげる暁臣だったが、伊集院が手にするものを見て冷や汗がにじむ。
「おい、きみは何を手にしているんだ!」
「ああこれか? 可愛いだろう?」
手の中でくねくねと動くもの――生き物は真っ黒な蛇であった。長さは一mほどで、伊集院につかまれた体躯を怒ったようにくねらせている。
「学校に持っていくつもりが忘れてしまってな。こうして取りに戻ったのさ」
「この子はどうしたんだ?」
「なあに、そいつは泥棒だぜ。だからこれで罰を与えてやろうと思ってな」
「違う! 違います! ごめんなさい、もうしませんから……」
しどろもどろで説明する少年によれば、こういう話であった。級友たちと「夏期休暇に入る前に度胸試しをしよう」と盛り上がったという。くじ引きで負けたこの少年が代表となり、高等科の寮で記念品を持ち帰ることになったそうだ。
「寮生から盗むんじゃありません! 食堂からナプキンを拝借したり、風呂場から石鹸を頂いたりしようと……思ってただけで……」
呆れ顔になる暁臣を見て、少年の声はかき消えた。はあ、とため息を吐いてから、暁臣は伊集院に顔をむける。
「ただの下級生のいたずらだ、許してやろう。もう今後はしないだろうし」
ぶんぶんとうなずく少年に、伊集院は酷薄な目をむける。
「富士、知っているか? こいつは平民なんだ。この寮に忍びこんだのは、華族を見くびっているからだろう。こういう輩は一度痛めつけないと分からないんだ。なんだ富士、その顔は? ああ……おまえも同じ平民だからこいつに肩持ちするのか?」
暁臣は黙って相手をにらみつけた。華族の友人たちが伊集院を避けている理由の一つも、この言動である。伊集院は平民への侮蔑を隠そうともしない。もちろん、友人たちにも無意識の差別感情は見え隠れしていた。だが彼らが持っている分別や「特権階級の矜持」というものが、伊集院には一切見当たらない。
「伊集院……きみが華族ならなおのこと、自分より弱い者には慈悲を持つべきだろう。僕たちは上級生なんだ。僕が肩持ちするとすれば、この子が平民だからじゃない。年少者だからだ」
「へええ、富士……おまえは平民のわりに、なかなかの人格者じゃないか」
伊集院は獲物を見つけたような、嫌な笑い方をした。少年は暁臣と伊集院とを見比べて、おろおろと成り行きを見守るばかりである。
「伊集院、僕に同意するんだな? ほら、きみも聞いたね? だったら早く行きなさい」
「おい待て! 俺はまだおまえを許しちゃいないぞ」
ほっと安堵を浮かべた少年は、伊集院に呼ばれて再び顔を青くする。
「いいか、おまえは罰を受けなきゃならない。でもな、ここにいるおまえの先輩が身代わりになるというのなら、それで許してやろう」
少年は泣きそうな顔で目をまるくした。暁臣はずきずきと頭が痛くなる。見上げれば、燦々と陽が頭上に降り注いでいる。長く戸外にいすぎた。もういいかげん、事態を収束して屋内に戻らなければ。
「……いいだろう。だからもう、きみは早く学校に行きなさい。午後の授業には出られるだろう?」
「で、ですが先輩は……」
「それとも今すぐ舎監室に行って、先生に洗いざらい話す方がいいかい?」
暁臣が厳しく言うと、少年は涙目になって首を横にふる。伊集院にこの少年を罰する資格はないが、舎監なら処罰を決める権限はある。しかし平民で仮に大きな後ろ盾もなければ、最悪の場合は退学もあり得るだろう。ほんの出来心で人生を棒にふるのは、いささか不憫であった。
少年は自分の進退と暁臣を天秤にかけ、前者を取ると決めたらしい。深々と頭を下げると、飛ぶように逃げていった。
「ふん、おまえと違って気概のないやつだ。腰抜けを罰するよりもおまえのような気位の高い男のほうが、よほど罰しがいがある。禍を転じてなんとやらだな」
「いいから早くしろ。その蛇をどうするつもりだ?」
形だけ尋ねてみたものの、どうせろくでもないことだろう。暁臣の確信どおり、伊集院は蛇を持ち上げて恐怖を煽るように言う。
「なに、大したことじゃない。ただの実験さ。黒蛇に噛まれた人間が、どんな変化を起こすのか知りたくてな」
暁臣は眉をひそめた。西洋の魔術に傾倒しているという噂は本当らしい。黒蛇といっても要は烏蛇である。ただの変異種だろうが、もとの種によっては有毒なものもある。幸い、暁臣は農村の生まれなので、アオダイショウやシマヘビは見慣れている。伊集院の手にする蛇もおそらくシマヘビの変異種だ。しかし、これがヤマガカシやマムシであれば、場合によっては命に関わる。
(あの子じゃなくてよかった。僕なら……死なないのだし)
いささか皮肉な心持ちで、暁臣は腕を突きだす。
「なら試すといい」
「はははっ……富士、気に入ったぞ。おまえとはもっと早く話してみるべきだった」
伊集院は異常なほど目をかがやかせて、身をよじらせる蛇を振りかざす。蛇は半狂乱といった様子で暁臣の手首に噛みついた。じくり、と鈍い痛みが走る。暁臣がじっと耐えていると、やがて蛇はおとなしくなった。
「……なんだ? これで終わりか? おい、もっと嚙みつけよ、おい!」
「もういいだろう。僕はきみの言うとおりにした。約束は守ってもらうぞ」
血が滴り落ちる手首をおさえ、暁臣は口早に言った。この程度の傷など、今の自分なら数時間で治ってしまう。しかし日光を浴び続けているせいで、気分が悪かった。
踵をかえした暁臣の背中に不満げな声がかかる。
「おい、医務室に行かないのか? 俺が手当てしてやるぞ、なあ富士!」
暁臣は無視を決めこんで、自室には戻らず寮を出ていった。
流しのタクシーをつかまえて、行き先を告げる。
わざわざ乗るほどの距離でもなかったが、この陽射しの下を歩くのも憂うつだった。往来ではカンカン帽をかぶった男や、日傘を持った女たちが気持ちよさげに闊歩している。平穏な光景をまぶしい気持ちで見渡して、暁臣は静かにまぶたを閉じた。もう――自分はこの景色の中にいられる人間ではないのだ。そう思うと、ちくりと胸が痛んだ。