2-10 儀式
居住棟の廊下は薄暗く、天井には簡素な電球が吊り下がるばかりだ。
神父は重い足取りで廊下を進み、三つ目の扉を開けた。十二畳ほどの広さの洋間で、東向きの窓が一つと、北向きの壁にベッドが設えられている。神父の寝室なのだろう。そう気づいた途端、暁臣は全身がかあっと熱くなった。カーテンは黒くて厚い織地の物で、シーツも真っ黒である。神父の趣味を意外に思っていると、卓上のランプが灯った。
室内がぼんやりと薄明かりに照らされる。
「座ってください」
神父が指し示したのは、あの黒いシーツに覆われたベッドだ。暁臣は首を横にふる。
「僕はずぶ濡れです。シーツを汚してしまいます」
「構いません。汚れてもいいようにあの色なので」
言葉に不穏な響きを感じながらも、暁臣は素直にしたがった。ベッドは大人二人で寝ても余裕がありそうなサイズである。一人暮らしの神父には大きすぎるのではないか――と思う暁臣の頭に、先月すれ違った野性的な西洋人の男が浮かぶ。胸がずきりと痛んだが、暁臣は自分の想像をすぐさま蹴散らした。
(思い過ごしだ! それに……仮にそうだとしても、僕はなにか言える立場じゃない)
ぽたぽたと床に水滴をこぼしながら、神父が近づいてくる。祭服は椅子の背にかけられて、彼と同様にシャツとズボン姿であった。暁臣と並んで座ると、ぎし、とマットが鳴った。
「横になった方が楽だと思いますよ」
当然のように神父に言われ、暁臣は狼狽する。道連れになる、という言葉は比喩であると思っていた。妹の死の仔細や神父の生い立ちを聞くことで、辛さを分かち合うつもりでいたのだ。いや――暁臣も今年で十八歳になる。正直なところ、それだけで済むとは思っていない。寝室に連れてこられた時から、覚悟はできていた。自分への神父の声音やまなざしは、どこか獲物に対するそれを思わせた。まさにその行為こそが暁臣の望みでもあった。高等科に進学してから、級友の誘いで芸妓と同座したこともある。しかし友人たちとは違い、全くその気は起こらなかった。男色の噂がある同級生もいるが、自分がそうであるかは分からない。ただ目の前の、このひとだけが――暁臣の欲望を駆り立てる存在であった。
暁臣はためらいを捨てて、言われるまま仰向けになった。
ぽたり、と額に水滴が落ちてくる。彼に覆いかぶさる体勢で、神父は両手をマットについた。暁臣は深く息を吸う。もうとっくにからだは反応を示していた。初めてのことで加減が分からない。暴走しないようにしなければ――と自分を戒めていると、鼻先に神父の息がかかった。
「……暁臣くん、最後の忠告です。これから行うことを事前には教えられません。フェアではないと分かっていますが、私の身の安全のためです。今ならまだ引き返せます。このまま私を押しのけて、ベッドから起き上がりなさい」
不穏な光がちらついているが、神父の目には慈悲もあった。十歳になる年から慕ってきたまなざしだ。押しのけるなど出来やしない。
「嫌です」
「…………後悔しますよ」
「このまま帰るぐらいなら、後悔する方を選びます」
「……………………ばかな子だな」
ぎゅうっと全身が押し潰されそうになる。暁臣に体重をあずけると、神父は彼の首すじに顔をうずめた。生温い感触をおぼえ、それが神父の唇であると気づいた瞬間――暁臣は絶叫した。
「あああああああ!」
両手で神父の肩をつかみ、力づくで押しのけようとする。しかし重たいからだはびくりとも動かない。海老のように身をくねらせる暁臣に目もくれず、神父は思いきり首すじを吸い上げた。暁臣はたまらず必死で懇願する。
「……っ神父……やめっ……」
「私は何度も確認しました。もう遅いんですよ、暁臣くん」
神父の唇は真っ赤に染まっている。暁臣の血だ。その唇をおのれの手首で拭い――神父はあろうことか、自らの手首に鋭い歯を立てた!
「ドーン神父?! なんてことをっ!」
噛みちぎられた神父の手首から鮮血が溢れだす。暁臣は無我夢中で止血しようと両手を伸ばした。だが両手はあっけなく神父につかまれて、頭の上に持ち上げられる。
「飲んで」
口元に神父の手首が押しあてられる。拒むつもりで唇を引き結んでいたが、堪えられずに暁臣が口を開くと、どっと熱い液体が流れこんできた。想像したのは錆びた鉄の味である。しかし舌にひろがる神父の血は清らかな美酒のように甘く、暁臣は目をみはった。
「焦らずにゆっくりお飲みなさい。まだ夜はこれからですから」
「これは……一体……」
「血の交換です。一族の者たちは【血の儀式】と大仰に呼んでいますが、要は互いの血液を混ぜ合うだけですよ」
「一族? あなたは……」
「私は人間ではありません」
鋭い歯が彼の首すじを貫いた瞬間から、暁臣はその答えを悟っていた。だけど認めたくはなかった。このような怪異は物語の中だけだと思っていた。まさか自分が血を吸われるなどと――一体どうして信じられるだろうか!
「……ドーン神父。では、あなたは何者ですか?」
「吸血鬼。古来から、血を求める種族はさまざまな名前で呼ばれてきました。だけど今ではこう呼ぶのが一番分かりやすいでしょう」
「ドラキュラ伯爵の?」
「ええ。私たちの国ではすっかり彼のイメージが定着しています。喜ばしいことです。誰も彼もが、吸血鬼とは小説の中の怪物だと信じて疑わない」
「ドーン神父、あなたは……吸血鬼なのですか?」
「そうです」
神父は皮肉めいた笑みを見せて、暁臣の首すじに唇を這わせた。全身に力をこめて身構えてみたが、露ほども役に立たない。おのれの下で身悶えする暁臣に、場違いなほど優しい声で神父が尋ねる。
「ねえ、暁臣くん? 食事も睡眠も排泄も生殖も、すべて快楽が伴う行為です。その理由が分かりますか?」
「……生きる……ために必要……だから」
「そのとおりです。だったら分かるでしょう? あなたが今感じている快楽の意味が」
「……わ、分かり……ません」
「吸血鬼は人間の血がなければ生きていけません。もしこの行為に苦痛が伴えば、人間は拒絶するはずです。だから、あなたの今の感覚はいわば……我々の種族が生き残るための戦略なのでしょう」
暁臣はもはや冷静に考える余裕がなかったが、ぼんやりとスズメに食べられる蜘蛛や、クマに食べられる鮭を思い浮かべた。蜘蛛や鮭はエサになるとき、このような快楽を味わうのだろうか。ただ苦しいばかりではないのか。それとも――自分もいずれは血を吸いつくされて、苦しみながら果てるのだろうか?
「あなたの道連れになるとは……食事になる……ということですか?」
「…………いいえ。違います」
暁臣の唇を塞ぐように手首が強く押しあてられる。半ば無理やりこじ開けられるように口を開くと、生温い血液が口いっぱいに広がった。
「暁臣くん、私の血は美味しいですか?」
むせた拍子に目尻から涙がこぼれた。神父に頬をぬぐわれるだけで、ぞくぞくと背すじが浮き上がりそうになる。
「……せ……西洋のぶどう酒のようです」
「それは美味しいということかな?」
「美味しい……です」
やけに気恥ずかしく感じて、声が尻すぼみになる。なぜ神父はそのようなことを聞くのだろうか? 暁臣は神父の目をのぞきこみ、思わず息を呑んだ。こんな状況でありながらも、神父は彼の見知った柔らかなまなざしを浮かべている。
「よかった」
なにがよかったのか――と思いを巡らせる間もなく、暁臣の自我は恍惚に奪われていく。鋭い歯に肌を突き立てられる度に暁臣はむせび泣いた。どれほど狂おしく喘いでも、神父はけして解放してはくれない。猿ぐつわのごとく神父の腕で口を固定され、暁臣は朦朧とする意識の中で甘やかな血を飲まされ続けた。
◆
カーテンのすき間から細い光がちらついている。
暁臣は重たいまぶたを持ち上げた。最初に目に飛びこんできたのは、天井だった。木板を用いた格天井をぼんやりと見上げ、ここはどこかと数秒ほど考えこむ。おぼろげに昨夜の記憶が蘇り、暁臣はベッドから跳ね起きた。寝室を見まわしたが神父の姿はどこにもない。床に足を下ろした暁臣は、小さくうめく。からだ中が軋むように重たかった。いつの間にか、黒い絹のガウンに着替えさせられている。濡れて乱れていたはずの寝具もすべて取り換えられていた。
黒いカーテンを開くと、遮られていた陽射しが飛びこんでくる。暁臣は頭がくらりとして、本能的にカーテンを引き戻す。昨夜の雨もすっかり上がったようだ。洋机の置き時計を確かめれば、もう正午の手前であった。
足音を忍ばせて、廊下に出る。
隣の部屋の扉が半分開いていた。聖堂に一番近い部屋だ。暁臣はそっと中の様子をうかがった。書斎を兼ねた応接室のようだ。壁の両側には本棚が並び、奥には上げ下げ窓がある。窓には白いレースのカーテンが引かれており、室内は日中にしては薄暗かった。窓の手前に、書斎机と二人掛けのソファが置かれている。書斎机では神父が書き物をしていた。きっちりと髪を後ろに撫でつけ、首元までボタンを留めた祭服姿の神父には、昨夜の面影は何一つ残っていない。
部屋の前に立つ暁臣に気づき、神父が顔を上げる。
「暁臣くん、おはようございます」
「おはよう……ございます。すみません、寝過ごしてしまいました」
「無理もないでしょう。一晩中、私の血を飲んでたんですから」
暁臣は黙りこんだ。やはり――夢ではなかったのだ。そうと分かっていても、この穏やかな午後の空気の中にいれば、昨夜の出来事はただの奇妙な夢のように思えてしまう。今、目の前にいる神父は、子どもの頃から慕う姿となんら変わりはないというのに。
「からだが辛ければ寝ていて構いませんよ。寮には連絡してありますから」
「平気です、ありがとうございます」
神父は軽く会釈すると、再び書類に目を落とした。用事は済んだと言わんばかりの態度に、暁臣は困惑する。まだ昨夜の行為の説明も十分には聞いていない。神父のいう地獄とは、人ならざる者――という意味だろう。だったら自分は? 神父の道連れになるというのは、自分もまた――人ならざる者になるということなのか?
「ドーン神父、僕は……」
書類を繰る神父の手がぴたりと止まる。しばしうつむいた後で、神父はゆっくりと面を上げた。暁臣の心臓は凍りつきそうになる。つい今しがたまで普段どおりであったのに、自分を見る神父は――昨夜と同じ陰鬱な目つきであった。
「……きみの気持ちは分かります。聞きたいことが沢山あるのでしょう?」
「……はい」
「少し時間をもらえませんか? 私も人間を吸血鬼にしたのは初めてなんです」
「僕は……吸血鬼になったのですか?」
「ええ。一生私の傍にいてくれると言いましたね? 永遠の命を持つ私とともに生きるのなら、きみも同じ種族でなければいけませんから」
事務的に話す神父の声を聞きながら、暁臣は口元を両手で押さえこむ。胃の中身がひっくり返りそうだった。ぞっとするような恐怖と同時に、煮えたぎるような歓喜もからだ中を暴れまわる。
僕は――なんということをしてしまったのか!
ああ――だけど。
「では……僕は永遠にあなたの傍にいられるのですね?」
暁臣の問いかけに神父はなにも答えない。表情の読めない顔をして、書斎机から暁臣を見つめるばかりであった。