2-9 雨夜
梅雨の長雨は気持ちが塞がれる。
じめじめと肌にまとわりつく湿気のためか、姉は六月に入ってからずっと床に臥せている。週末の度に実家へ帰っていたが、暁臣は礼拝にひとりで参加していた。
礼拝では、今のところ神父に変わった様子はない。今年は平穏に過ぎていきそうだ――と安堵した、六月の終わりのことであった。
教会に足を踏み入れたとき、すでに会衆席は半分以上埋まっていた。暁臣はいつもどおり、富士家の定位置である最前列の右側に腰かける。神父は反対側のオルガンの傍で、数人の信者たちと話をしている。暁臣は眉をひそめた。遠目にも、神父の顔色は目に見えて悪い。常にも白い肌ではあるが、今は病人のような蒼白色だ。
暁臣の心配をよそに、礼拝は普段どおりに始まった。
先週までと同様に、神父は平然とした面持ちで聖書を読み、聖歌を歌っている。その胸元には木彫りの十字架がさげられている。暁臣もまた、シャツの下に銀の十字架を身に付けていた。もうひと月が経つというのに、自分の十字架を神父の祭服に見る度に、暁臣は面映ゆい気持ちになる。
このままつつがなく終わると思い、暁臣はほっと胸をなでおろした。
その時である。
内陣に立つ神父のからだがぐらりと傾いた。背後のざわめきも耳に入らず、暁臣は床を蹴る。内陣に踏みこむと同時に、神父は彼の胸元に倒れこんだ。
「……申し訳ありません」
「医師を呼びましょう」
「いえ、大丈夫です。ただの……貧血ですから」
顔を上げた神父を見て、暁臣はぞくりと身を震わせた。まるで――飢えた獣のような目だ。神父は荒い息を吐くと、暁臣の胸元に顔をうずめた。びくん、と暁臣のからだが跳ね上がる。神父の硬い鼻すじがシャツを上下して、強く押しつけられる。そのまま時を止めたように、神父は自分の傍から動かない。
どうしようもなかった。
暁臣は神父を心配すると同時に、自分のからだの変化を悟られぬようにと祈った。永遠のような長さにも思えたが、おそらくほんの数十秒のことだ。周囲に人が集まってきて、暁臣はようやく我に返った。
「みなさん、失礼しました。続けましょう」
神父が声をかけると、人びとは会衆席へと戻っていく。暁臣の腕から離れ、神父は微笑した。もう普段どおりの顔つきである。
「暁臣くん、ありがとう。もう大丈夫です」
心なしか顔色が戻り、頬にもわずかに赤みが差している。神父に会釈すると、暁臣は心配を残しながらも会衆席に腰を下ろした。実の所これ以上神父の傍にいて、からだの強張りに気づかれてしまうのが怖かった。
まるで何事もなかったかのように、神父は聖書を手にしている。その一挙手一投足を、暁臣は見守るように目で追いかけた。
夜になり、寮に戻っても眠気はまったく訪れない。
今朝の一連の出来事が、ずっと暁臣の頭から離れなかった。からだの奥が燃えるように熱く、自らの手でそれを冷ました。今夜が初めてではない。十三歳の年、神父に車で送り届けてもらった夜から、もう何度も密かにしてきた。その度に神父を汚しているようで、自己嫌悪に苛まれながらも、止めることができなかった。
ようやく熱が冷めて、暁臣は水差しで手を洗う。
今年もやはり、神父は梅雨になると調子を崩した。一体なぜ――と頭をめぐらせた折り、ふいに一本の木が思い浮かぶ。
(そうか……ひょっとすると、妹さんが亡くなられたのは梅雨の頃だったのか?)
そうであれば合点がいく。毎年梅雨の時期になると、神父は亡き妹を偲んでいたのではないか。神父の年齢を思えば、妹は若くして亡くなったのであろう。ならば尚更、辛い記憶があるのかもしれない。
暁臣はカーテンを開けた。夕方にぽつぽつと降りだした雨は、今ではガラス窓に滴を打ちつけるほどの激しさだ。寝間着を脱いでシャツに着替えた。
自分でも愚かだとは分かっている。
もう深夜に近い。神父もとっくに眠りについているだろう。だが、もしも――母親を亡くした暁臣のように一人きりで震えていたら? もしも、あの庭で一人きりで雨に濡れていたら?
もしも――そうだとしたら、あのひとの傍にいたかった。
◆
夜の教会は黒い城塞のようだ。
暁臣は傘を閉じて、教会の扉を開けた。
聖堂はしんと静まっていた。当然だ。こんな時間に神父がいるわけがない。祭壇にはろうそくが灯り、聖堂の前方だけをひっそりと照らしている。やはり神父は眠っているのだ、と安堵してもよいはずの光景だが、暁臣はなぜか胸騒ぎがした。
足早に会衆席の右端にむかう。居住棟につながる扉は施錠されていた。暁臣は考える間もなく、教会を飛びだした。
庭をまっすぐ横ぎり、常緑樹のすき間から奥の庭をのぞきこむ。雨粒に目をすがめながら、暁臣は一心に庭を見まわした。
「ドーン神父!」
黒い木の陰に立っているのは、まぎれもなく神父であった。この雨のなか、傘も差さずに放心したように佇んでいる。暁臣は柵に手をかけると、力づくでよじ登っていく。肩ほどの高さの柵を乗り越えて、どさりとぬかるんだ地面に着地した。その物音にも神父は反応を見せなかった。
「ドーン神父!」
神父は頭から足先までずぶ濡れであった。いくら梅雨の雨とはいえ、このままではまた体調を崩しかねない。
「室内に入りましょう、おからだに障ります!」
「……構いません」
陰鬱な声は、とても神父の口から出たものとは思えなかった。暁臣はたじろぎながらも、心配のほうが勝ってなおも食い下がる。
「もしかして……命日なのですか?」
神父の唇がゆっくりと弧をえがく様を、暁臣は目の前で見てしまった。そうでなければ、神父がこんな歪んだ笑い方をするなどと、けして信じはしなかっただろう。
「そうです」
「毎年、こうして傍にいたのですか?」
「そうです」
「こんな雨の日も?」
「……ええ。あの日も雨でしたから」
神父の目がついと斜め下を見る。暁臣は無意識に黒い祭服をつかんでいた。手を放したら神父が消えてしまいそうで、暁臣はつかんだ腕を放せなかった。
「ひとまず移動しましょう、今朝も倒れかけたんですよ!」
「いえ、ここにいます」
子どものように頑なに言い切ると、神父は木の根元を見た。おそらくここに妹の遺灰が埋まっているのだろう。暁臣は右手で神父の腕をつかんだまま、左手をその背中にまわした。遠慮がちに、しかし労りをこめて撫でさする。
「それなら僕もここにいます」
神父は重たげに頭を上げた。美しい二つの目が、ようやく暁臣にむけられる。
「だめですよ、暁臣くん。風邪をひきます」
「それはあなたもです! だめなら一緒に戻りましょう」
「私はいいんです、風邪はひきませんから」
「またそんなことを! この時期はいつもお加減が悪いじゃないですか!」
「どうして……それを」
「ずっと見ていたからです!」
暁臣の手の下で、濡れた背中がびくっと動く。脳裏では警告の信号が点滅している。しかしもう、暁臣は我慢できなかった。
「あなたをずっと見てきたんです! 五年間! あの夜からずっと……あなたを見ていました」
「…………」
「ここにあなたがいると言うのなら、一晩中でも傍にいます。ずっと傍にいます。だから……一人で悲しまないでください。重荷を背負われているのなら……僕にも……分けてください」
それ以上は言葉にならず、暁臣は神父を抱き寄せた。とんでもないことをしていると、自覚していた。だけど理性はもう吹き飛んでいた。嫌なら突き放してくれればいい。いっそ酷くなじられれば、諦めもつく。腕の中の神父は身じろぎもしない。神父の濡れたからだに密着しているだけで、暁臣はめまいがしそうだった。
(妹さんの命日に僕はなんて邪なことを!)
内心で自分を叱りつけていると、ふと、視線を感じた。顔を上げた暁臣は、正面から神父と見つめ合う。その瞬間、自分を濡らす雨が、真冬のそれのように凍りついた気がした。暁臣を見下ろす神父の双眸は――まるで人ならざる者のように禍々しい。
「……暁臣くん、冗談はやめてください」
「冗談ではありません」
神父は目をつむり、彼の前で深く息を吸いこむ。再び目を開けた時には、すっかり普段どおりの柔和なまなざしだった。
「暁臣くん、あなたはまだ年若い。その気持ちは一過性のものに過ぎません。あなたの優しさだけ、ありがたくいただきます」
「一過性のものではありません!」
暁臣は神父の首すじに顔をうずめた。雨と庭の空気が混じったような、湿った樹木の匂いがする。たまらず唇を押しあてた暁臣は、ぱっと顔を上げる。神父の首すじは燃えるように、熱い。
「ドーン神父! 熱があるのでは?!」
「…………もう勘弁してください」
縋るような神父の声を聞き、暁臣は慌てて離れようとする。
(僕はどさくさに紛れてなんてことを!)
しかし逃すまいとするかのように、神父は両手の爪を立てるようにして、暁臣の背中をつかんだ。今ではもう、互いの呼吸が触れ合うほどの近さで、神父は彼を凝視している。
「…………傍にいてくれるのですか?」
「はい」
「…………本当に、ずっと?」
「はい」
「…………一生ですか?」
暁臣は耳を疑った。今、神父はなんと言った? 一生? 一生自分が傍にいるのかと、本当にそう言ったのか?
「一生……いてもいいのですか?」
「一生いてくれるのですか?」
神父の微笑みは、これまでの礼拝で見たなかで、最も慈愛に満ちたものだった。まるで天の遣いとでもいうかのように。
「私の地獄に、あなたも?」
ぽつりと漏らされた言葉は激しさの増す雨にもかかわらず、なぜかはっきりと暁臣の耳まで届いた。神父の髪も顔も祭服も、あますことなく濡れている。その頬を流れたかもしれない涙さえ、雨の筋に紛れて見えない。暁臣の頬を流れる涙もまた、雨に紛れているだろう。
「います」
「…………」
「地獄でもどこでもいい。あなたの傍に一生います」
「よく考えなさい。後悔先に立たずと言うでしょう」
「後悔しても構いません!」
神父は目をまるくすると、あろうことか、声を上げて笑いだした。
「きみは本当に、幾つになってもまっすぐですね」
「……成長していないということですか」
「いいえ。その変わりのなさが尊いということです」
神父の指先が頬にあてられる。暁臣は涙を拭われながら、為す術もなく立ちつくす。
「…………道連れになってくれますか、暁臣くん」
「はい」
「……では、付いてきてください」
暁臣を腕から解放すると、神父は一足先に歩きだす。暁臣もその後に続いた。居住棟の扉の前で、はたと、神父は足を止める。こちらを振りかえったかと思えば、その視線は暁臣を飛び越えて、庭の真ん中の木を見つめていた。母国の言葉で「ごめん」とつぶやくと、神父はぎこちなく木から目をそらした。