2-8 贈物
姉への懸念に加え、暁臣にはもう一つ気がかりがある。
ドーン神父だ。
それに気づいたのはいつだったか。この数年――いや、本当ははっきりと覚えている。母親の死を知った翌年のことだ。
四年前、梅雨の礼拝であった。
普段の神父ならば、聖書の言葉ひとつ、聖歌の一節も間違えはしない。会衆席を慈愛のまなざしで見渡すのが常である。ところが、その日は違った。神父の目はどこか虚ろで、会衆席を越えた遠くを眺めているようであった。聖書の朗読では二度、ごくわずかに言葉を詰まらせた。といっても一瞬の出来事である。よほどの注意を払わなければ、誰も気づきはしないだろう。当の暁臣も、その前年までは気づかなかった。
気づいたのは――母親の死を知った夜以来、ずっと神父を見つめていたからだ。
その十四歳となる年も、十五歳も、十六歳も、十七歳も、梅雨を迎える時期になると、神父はどことなく調子が悪そうに見えた。
そして今年も――あと二ヶ月もすれば梅雨がやってくる。
◆
日曜日の礼拝が終わり、教会の庭はそぞろ歩く人びとでにぎわっている。
門の右手に広がる庭には、ぐるりと囲むように白木蓮の並木がある。新緑が鮮やかな五月の庭を横目に、暁臣は教会に足を踏み入れた。
神父はポーチの端で数人の信者たちと話している。暁臣は邪魔にならぬようにと、軽く会釈だけして身廊を進んだ。
内陣の手前に立っていると、背後から足音がした。
「葵さんの具合はどうですか?」
「……あまりよくありません」
暁臣と並び立ち、神父も祭壇を見上げた。祭壇の横幅は大人の背丈ほどもある。左右にはろうそくが灯り、中央に十字架が掲げられている。銀製で三十センチほどの十字架は、見る度に西洋の剣を連想させた。まだ屋敷に引き取られてまもない頃のことだ。神父の目を盗み、姉がこっそりと十字架を持ち上げたことがある。鞘にも似た細長い台座から、十字架はすっぽりと抜けた。先端が鋭く本物の剣のようで、暁臣と姉は慌てて元に戻したものだ。
「今朝はどうしても起きられなかったようです。すみませんと言っていました」
「謝る必要はありません。少し待っていてもらえますか? 奥の庭にハーブがあるので、摘んできます。お茶にして飲むと気持ちが落ち着くんですよ」
「僕も手伝いましょうか?」
「……そうですね。では、お願いします」
神父の声にためらいを感じ取り、暁臣は断わろうとした。しかし彼の返事を待たずに、神父は会衆席の右端へと歩いていく。そこにあるのは、小ぶりな扉だ。暁臣も常々目にはしていたが、一度も入ったことはない。
扉の先は細い廊下となっていた。
居住棟となっているようで、左手に扉が、右手には窓が並んでいる。おそらく庭に面しているはずだが、磨りガラスなのでぼんやりと緑が見えるだけだ。神父は廊下をまっすぐ歩き、突き当たりの扉を開けた。
猫の額ほどの庭である。
周囲を柵で囲まれており、表の庭との境目には常緑樹も植えられている。どおりで庭を歩いていても、この場所に気づかなかったはずだ。神父が「奥の庭」と呼んだとおり、ひっそりと隠されているような庭であった。
だが、暁臣は表の広い庭よりも、居心地がよいと思った。
庭の右手は常緑樹の陰になっているが、正面は南に位置して陽当たりがよい。柵の内側には低木が生え、花壇には薬草らしき草花が植えられている。華美ではないが素朴なありさまに心がなごんだ。とりわけ彼が気持ちを惹かれたのは、一本の木である。庭の真ん中に立っており、神父の背丈ほどでさほど大きくはない。新緑のなかに点々とつぼみが見え隠れして、さわさわと風に吹かれる姿が可愛らしかった。
「いい庭ですね」
「ええ。ここには信者の方も来られません。私の個人的な庭です」
神父は戸棚から籐籠を取りだして、正面の花壇にかがみこむ。暁臣も倣って、その隣に片膝をついた。見よう見まねで、香りのよい若葉を摘み取っていく。
「すみません、ここまで付いてきてしまって」
「嫌なら最初から断わっていますよ」
社交辞令のような言葉だと分かっていても、暁臣は顔が熱くなった。神父の個人的な場所に立ち入ることを許されたのだ、と思うと心が踊り、そんな自分の浅ましさが恥ずかしくもあった。
ほんの数分もすれば、籐籠は若葉でいっぱいになった。
神父の後に続いて暁臣も立ち上がり、ゆっくりと庭を横ぎる。暁臣は後ろ髪をひかれるように、あの木の傍で足を止めた。前を歩いていた神父も彼の様子に気づき、こちらを振りかえる。
「ドーン神父、これはなんの木ですか?」
神父は無言でこちらにやってきた。暁臣と並び立つと、黒い袖を上げて手のひらをぴたりと木肌にあてる。まるで――愛しい者に触れるかのように。そう思った瞬間、暁臣は息苦しくなり目をそらした。
「妹の木です」
「……え?」
「この木の根元には、妹の遺灰が埋まっているんです」
「……妹さんは……いつ?」
「もうずっと昔です。暁臣くん、きみと出会う前のことですよ」
「日本で……それともイギリスで?」
神父の手が止まった。
しまった、と暁臣は即座に後悔する。容易に触れていいような話題ではない。神父に辛い記憶を思い出させるなど、もってのほかだ。なにか適当な話題はないか――頭を回転させながら、暁臣は無意識に制服のポケットを探っていた。
こつと、右手に硬い感触があたる。
(そうだ! すっかり忘れていた……)
わずかな逡巡の後、暁臣はポケットから手を出した。
「あの、ドーン神父。よければ……これをもらってくれませんか?」
「……十字架ですか?」
暁臣の手のひらを見て、神父が目をぱちぱちさせる。七センチ程度の木彫りの十字架は、姉や太一の木彫りと同時期に作ったものだ。礼拝の度に持ち歩いていたが、渡す機会がないままひと月が過ぎてしまった。
「きみが彫ったんですか?」
「はい。ドーン神父の十字架とは、雲泥の差ですが……」
神父の胸元には十字架がさげられている。繊細な銀製品で、中央には透明な宝石が嵌めこまれている。おそらくダイヤモンドだろう。神父は胸を見下ろすと、おもむろに銀の十字架を首からはずした。鎖から十字架を取ると、新たに暁臣のそれと付け替える。木彫りの十字架は野趣があって大ぶりだ。上品な銀の鎖には不釣り合いではないだろうか。
「ドーン神父、受け取ってくださるだけで十分ですから」
「似合うでしょう?」
暁臣の心臓がにわかに騒ぎたてた。目の前で、神父は零れんばかりの笑みを浮かべている。初めての贈り物をもらった子どものような笑顔だ。そんな場面が頭をよぎり、暁臣は内心でぶんぶんとかぶりを振る。神父は自分よりも一回り以上は年長のはずだ。あろうことか、子どもに喩えるなど失礼極まりない――そう自分を諫めながらも、暁臣はやはり奇妙な感覚にとらわれた。今、彼の前で笑う神父は――まるで自分の学友のようにも見える。
黙りこくる暁臣の手に、ぽんと冷たい金属が載せられた。
「……ドーン神父?」
「お礼です」
手のひらに載せられた銀の十字架を見つめ、暁臣は慌ててそれを突き返した。
「まさか! いただけません、こんな高価な物を!」
「十字架は一つあれば十分です。それにね、暁臣くん」
神父は腰をかがめ、暁臣の耳元に顔を寄せた。
「……実はそれ、銀メッキなんです。宝石もイミテーションなんですよ」
間近で目が合った神父は、ぱち、と軽くウインクする。固まって動けない暁臣を残して、神父は籐籠を手に歩きだした。
◆
神父とはポーチで別れ、暁臣は教会の敷地をあとにした。
すでに信者もまばらで、教会へと続く坂道も人影はない。舗装されていない道は、両脇の雑木が濃い影を落としている。時刻は正午になろうとしていた。
暁臣は歩調をゆるめ、坂の先を見下ろした。
男がひとり、道を上がってくる。
長い黒髪を後頭部で結い上げ、この新緑の季節に真っ黒な外套を羽織っている。しかし役者のように様になっているのは、この男が長身で、精悍な体躯をしているからだろう。暁臣は最初、男を日本人だと疑わなかった。ところが間近になるにつれ、彫りの深い面立ちは西洋人のものだと気づく。西洋人といっても神父とはまた違い、肌はやや浅黒く、異国めいた印象も受けた。
暁臣は教会の門を振りかえった。
ちょうど、神父が最後の信者を見送っている。こちらにはまだ気づいていない様子だ。男が暁臣の傍を通りすぎていく。そう思った矢先――男の足が、ぴたと止まった。
男と正面から視線が合った。
わし鼻にぎょろりと大きな目が印象的な男だ。女性には事欠かなさそうな美男ではあるが、整っているというよりも、野性的といった方がしっくりとくる。なによりも、不思議な男であった。一見、自分や神父と同じ青年に思えたが、その目が動き、角度が変わるだけで父親や祖父母のような貫禄もあった。
男の動いた視線の先は、暁臣の右手にあった。
先ほどもらった銀の十字架は、まだ彼の手の中にある。暁臣はとっさに右手を握りこんだ。彼のそんな仕草を見て、男の厚い唇がにやりと笑う。
「おまえ、名前は?」
「……富士。富士暁臣です」
「そうか」
聞くだけ聞くと、男は名乗りもせずに坂を上がっていく。暁臣はその後ろ姿を目で追った。教会の門には神父がひとり立っている。遠目に見える表情からは、感情が読み取れない。暁臣はぎゅっと右手に力をこめる。
男は親しげに神父の肩を抱くと、門のむこうへ消えていった。
■次回2/14(金)更新予定■