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2-6 帰郷

 箪笥を開けて有るだけの金をかき集め、暁臣は往来でタクシーを拾った。

 景色はレンガ造りの店舗や市電でにぎわう大通りから、やがてのどかな郊外へと変わっていく。茅葺かやぶき屋根も田畑も夕焼けを溶かしたように一面が橙色だ。暁臣はなんの感慨も湧かないまま、見るともなしに窓をながめた。


 この三年間、村には一度も帰っていない。


 富士家で迎えた最初の冬、暁臣は勇気を振りしぼって、村へ里帰りできないかと尋ねてみた。ひと目でいいから母親の顔が見たかった。だが、父親はにべもなく首を横にふった。その日以来、彼は母親の話題に触れるのを止めた。せめてもと思い、季節の折々に手紙を書いて送ったが、返事は届いたことがない。もしや屋敷の誰かに捨てられたのではと邪推して、配達員を待ったりごみ箱を漁ったりもしてみたが、そのような形跡も見あたらない。届かない返事に不安が募りながらも、日々の忙しさにかまけて後回しになっていた。


 冬の日暮れは早い。

 山の稜線も田んぼも黒く染まる頃、ようやく村にたどり着いた。タクシーを降りると、暁臣は一心に駆けだした。遠くの影法師のような村人たちに声もかけず、林に近い自分の家までひたすら走る。

 暁臣は息を整えもせず、勢いよく引き戸を開けた。


(……一体、何があったんだ?)


 家の中はまるで廃屋だった。

 暗い天井には蜘蛛の巣が張りめぐらされ、畳はざらざらと埃が溜まっている。箪笥も卓袱台も布団も、わずかな家具すらなに一つない。そしてなにより――母親がいない。空き家になって数ヶ月は経つ様子であった。狐につままれた気持ちで引き戸を閉めて、暁臣は近くの家を訪ねた。

 親切だった中年の婦人は、暁臣を見るとなぜか顔をしかめた。


「こんな時間にどうしたんだい?」

「すみません。あの、母は……母の居場所を知りませんか?」

 婦人の眉間に深いしわが寄る。

「なに言ってんの、(あき)ちゃん。今さら帰ってきてどうすんだ?」

「……え?」

「葬式にも来なかったくせに。薄情な子だね、まったく」

 尻がひやりと冷たい。気づけば足から力が抜けて、暁臣は尻もちをついていた。ぼんやりと顔を上げると、困惑顔の婦人と目が合った。

「なんだい……知らなかったの?」

「……いつですか?」

「もう半年も前だよ。道子さん、去年から床に臥せててね。葬式は村長さんが出してくれたよ」

 いつの間にか婦人に手を引かれ、暁臣は立ち上がっていた。

「……僕、村長さんにご挨拶してきます。突然お訪ねしてすみませんでした」


 他人のように話す自分の声を聞きながら、暁臣は頭を下げた。婦人がなにか言っていたが、もう耳には届かなかった。


 どこをどう歩いたのか、目の前に門があった。


 下男に声をかけて土間で待っていると、すぐに村長がやってきた。暁臣の背が伸びたためか、白髪の村長はいくぶん小柄になった気がする。しかし温厚な性格はそのままで、急な来訪にもかかわらず笑顔で出迎えてくれた。

 客間に通された暁臣は、お茶にも手をつけず黙って正座していた。

「富士のご主人にも知らせたんだが、返事がなくてね」

「……そうですか」

「てっきり暁ちゃんもあっちに馴染んで、村のことは忘れたのかと思ったんだ」

「……僕は……知りませんでした」

「それは辛かろうね」


 村長はお茶をひと口啜ると、おもむろに天井を見上げた。太いはりをじっと眺めながら、なにかを決意した顔になる。


「……道子さんには口止めされたんだがね。手紙の返事は来なかっただろう?」

 暁臣は驚きながらうなずいた。なぜ、村長が彼の手紙について知っているのか。

「ひと言でも書いたらどうかと勧めたんだが、いいえの一点張りでね。もう二度と、あんたに会わんと決めてたようだね」

 衝撃のあまり暁臣は言葉を失った。

「床に伏せた後も、絶対に知らせるなと言われてね。だけどね、暁ちゃん。葬式のときに自分と一緒に燃やしてくれって、紙の束を渡されたんだ」

「…………」

「中身は見てないけどね、あんたの手紙だったんじゃないかと思うよ」

「…………」

「だからね、あんたが富士家で幸せになれば、道子さんも喜ぶんじゃないかね。それが一番の親孝行だと思うよ」

「…………はい」


 機械のようにうなずいて、暁臣は湯呑を口に運んだ。ぬるりと生温い液体を無理やりのどに流しこむ。宿泊の誘いを丁重に断わって、村長の家をあとにした。



 暗いあぜ道を歩きながら、暁臣は空を見上げる。

 今夜は月も細く足元はおぼつかない。重心を無くしてしまったかのように、ふわふわとからだが浮遊する。家屋の明かりも途絶えた頃、村はずれの共同墓地が見えてきた。

 村長から聞いた母親の墓は、敷地の端の一角にあった。草を踏みしめていった先に、小さな墓石が建っている。見た目は簡素だが、雑草は抜かれて苔も生えていない。村長や村の人びとが手入れをしてくれているのだろう。


 暁臣は地面に膝をついた。


 墓石に刻まれた母親の名をたどっていく。氷のように冷たい。同じ冷たさでも、幼い頃に布団のなかで触れた母の足とはまるで違う。腕のなかに墓石を抱えて暁臣は頬をこすりつけた。あの足はもうない。あの柔らかな手もない。あの優しい声も、笑顔も――彼を見送ってくれたあの朝の笑顔も、もうおぼろげにしか思い出せない。


(あれが最後と知っていたら絶対目に焼きつけたのに!)


 暁臣の両手も両足も、もはや感覚を失っていた。濡れた頬が凍てつくような寒さであったが、それすらも他人事のようだった。数時間が経ったようにも、ほんの数分のようにも感じられた。時間の流れも麻痺していた。


 ――ざり、ざり、と遠くで土が鳴る。


 こんな夜に墓地を訪れる者などいるはずがない。暁臣は空耳だと思い、確かめるのも億劫で、墓石を抱えたまま目を閉じていた。

 突然、ふわりとからだが浮く。

 とっさに暁臣の頭をよぎったのは、あまりにも長く真冬の戸外にいたため、自分も母親と同様に天に召されたのだという思いだった。


「……僕は天国に行けるのかな」

 頭に浮かんだだけであったが、口からこぼれていたらしい。ぎゅっと全身を押し潰されるような感覚があり、暁臣はようやく、自分が誰かに抱き上げられていると気づく。

「…………ばかなことを言うのはおよしなさい」

 切羽詰まったような低い声が頭上から降ってくる。聞き覚えのある声だ。暁臣は息を吸った。深い森林のような香り。初めて会ったときと同じ――。

 暁臣はぎょっとして顔を上げる。


「ドーン神父?!」


 彼を抱きかかえているのは、まぎれもなく神父である。暁臣はこの期に及んで、なおも自分は幻を見ているのではないかと疑った。一体どうして、自分の生まれた村に、しかもこんな時間に都合よく神父がいるというのか?

「……僕は夢を見ているんでしょうか?」

「しっかりなさい! ほんとうに……きみはもう……」

 叱りつけるような言葉であったが、声の余裕のなさと、息が詰まるほどの腕の強さから、心底心配しているのだと伝わってくる。暁臣は状況を理解するにつれ、さあっと血の気が引いた。

「ドーン神父! どうしてあなたがここに?!」

「葵さんから連絡があったんです。夕食の時間になっても暁臣くんの姿が見えないと……てっきり私の所にいると思われたようでした。ひょっとしたら、この村に戻っているのではと思って車で来たんです」

「……すみません。ご迷惑を……」

「迷惑なんかじゃない。無事でよかった」


 低くささやくように言われ、暁臣はにわかに心臓が暴れだす。女子のように抱えられているこの体勢は、どう考えても普通の状況ではない。


「おっ……降ろしてください、ドーン神父! 僕はもう大丈夫ですから!」

「冷たすぎる」


 どこか怒るような声で言い、神父は彼を抱える腕に力をこめた。外套ごしに神父の体温が伝わってくる。暁臣は羞恥を覚える一方で、いいようのない安心感にも満たされていた。どちらにせよ、この冷えた四肢では力が入らず、自分一人では歩けない。抵抗をあきらめた暁臣は、大人しく運ばれていった。


 共同墓地の柵の近くに乗用車が一台停まっている。

 ふたりの姿を認めて、村長が助手席から飛びだしてきた。


「暁ちゃん、大丈夫か? まさかあれからずっとここにいたんかい?!」

「……すみません、村長さん」


 暁臣を助手席に乗せると、神父はさっと自分の外套を脱いだ。外套がふわりと暁臣の肩に巻きつけられる。暁臣を車に残して、神父と村長は話しこんでいた。やがて彼らは互いに礼をして、村長は暗いあぜ道に消えていった。

 ヘッドライトが乾いた田んぼを照らすさまを、暁臣はぼんやりと眺める。


「……僕が村へ帰ったと、父の耳にも入ったでしょうか」

「安心なさい、村長には口止めしました。葵さんにも、ご両親には教会にいると伝えてもらうよう頼んでいます」

「……ありがとうございます。良かった」


 暁臣は安堵の息をついた。勝手に村に帰ったなどと、絶対に父親には知られたくなかった。それと同時に胸に溜まった重たいものに気づく。なぜ――父親も、母親までも、彼に何一つ知らせてはくれなかったのか!


「僕は……どうすれば良かったんでしょう」


 暁臣は声を震わせた。

 いっそ恥も外聞も捨てて、離れるのは嫌だと駄々をこねればよかったのか。そうすれば――母親を最期まで看取ることができただろうか。


「僕は……薄情な息子でしょうか。だけど僕だって……母の傍にいたかったんです。そう言えばよかったですか? 母の笑顔を曇らせると知っていても? それとも……父に食い下がればよかったですか? たとえ父に嫌われても?」

 両のこぶしを握りしめながら、暁臣は目をつむった。神父の顔を見たら、目にせり上がった熱いものがこぼれてしまいそうだった。

「……おそらく、富士家のご主人ときみのお母様は取り引きをしたのでしょう。きみを跡取りとして迎える代わりに、二度ときみとは会わないと。大人の取り引きだ。きみにはなんの責任もないことです」

 なるほど、と暁臣はどこか冷めた気持ちで納得する。それならば、父親の取り付く島がない態度にも合点がいく。母親もまた、すべてを承知の上で嘘をついていたのだ。


「立派な大人になったら……姿を見せてって……言ったのに……」


 ぽろ、と滴が黒い外套にこぼれ落ちる。

 暁臣は唇を噛みしめた。もう話してはいけない。話せば話すほど、胸が熱くなって両目から涙が溢れだしてしまう。これ以上、神父の前で醜態を晒したくはなかった。


 暁臣は目を見張った。


 ぽん、ぽんと自分の頭を大きな手が撫でている。

「いいんですよ、怒って。きみはなにも悪くない。全部吐きだしてしまいなさい」

 それが合図と言わんばかりに、暁臣の目から勝手に涙が溢れだす。自分でもどうしようもなかった。暁臣は泣きながら言葉を連ねた。夜の街道を走りながら、神父は静かに相づちを打ち、ときどき背中をさすってくれた。



 屋敷町に着いた頃には、胸の重たい澱みも大方吐きだされていた。

 暁臣は感謝の思いをこめて、神父に礼を言った。もしもあのまま屋敷に戻っていたら、明日からどんな顔で父親と暮らしていけばよいのか分からなかった。


「三年前、初めて会った夜に言ったでしょう? きみが夜明けを迎えるまで力になると。いくらでも頼りなさい。私はそのためにここにいるんですから」

 神父はごく自然な仕草で、二本の指で暁臣の頬に触れた。涙の跡をぬぐってくれたのだ、と気づいた暁臣は、かあっと全身が熱くなる。恥ずかしさのせいだと思ったが、むず痒いような甘い痛みを胸に覚えて、この気持ちはなんだろうと困惑する。


 暁臣は車を降りて通用口をくぐった。

 木戸を閉めるまで、神父は運転席で見送ってくれた。

 内玄関に着いた暁臣は下男を呼ぼうとして、ふと、自分の袖口を見る。黒くて暖かな外套を羽織っている。神父の外套を身に付けたまま、ここまで歩いてきたのだ。慌てて通用口に走ったものの、小道には車の影もかたちもない。


(……明日、洗濯に出して返そう)


 暁臣は外套を脱いであたりを見まわした。当然ながら、こんな時間に屋敷町を歩く者は誰もいない。手にした外套をじっと見下ろし、おそるおそる顔をうずめる。

 深い、深い森のような――神父の匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。


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― 新着の感想 ―
辛い展開です!そして、ドーン神父は、どうかかわっていくのか??色々きになります!
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