2-5 義弟
その年の晩秋、義母が赤子を連れて帰ってきた。
男子であった。自分の部屋から縁側に出ると、かすかに北西のはなれから赤子の泣き声が聞こえてくる。しかしまだ、暁臣は義弟を見たことがない。義母はけして彼の前に赤子を連れてはこなかった。
父親の書斎に呼び出されたのは、年の瀬も迫った頃のことだ。
机の上に両手を組み、父親は無言で自分を見上げている。暁臣はぼんやりと父親の肩越しに窓をながめた。庭の古木は葉を落とし、むきだしの枝が灰色の空に伸びている。
「……この家を出ていくべきですか?」
「そうとは言っていない。これまでどおりに暮らし、学校に通えばいい。おまえの成績なら一高を目指すのもいいだろう。富士家の役に立つ官職に就きなさい」
「……ありがとうございます」
とっさに礼が口をついたが、適切な言葉であるかは分からなかった。心の内が重たく、言いようのない感情がひろがっていく。父親は話が済んだと言わんばかりに、引き出しから紙巻タバコを取りだした。暁臣は意を決して口を開く。
「では、富士家の家督を継ぐのは……太一さんなのですね」
「そうだ」
「…………なら、僕は……なんのために……」
「……………………」
父親は箱からタバコを一本抜き取り、マッチを擦って火を点けた。父親と自分とを隔てるように紫煙が漂う。会話を終わらせたいのだ、と内心で傷つきながら、暁臣は黙って頭を下げる。そのまま踵を返そうとして――足を止めた。
父親が彼のシャツの袖をつかんだのだ。
暁臣は身じろぎする。目の前には、紙巻タバコが一本差し出されていた。
「吸うか?」
「……吸いません」
「……そうか」
火を点けたばかりの自分のタバコを灰皿に捨て、父親は暁臣に差し出していたタバコを口にくわえた。黒い切れ長の目が、なにか言いたげに彼を見ている。しかし結局ただ煙を吐きだしただけで「もう行ってよい」と、重たく目を伏せた。
◆
書斎を出て廊下を歩いていると、はなれの方角から激しい泣き声が聞こえてくる。暁臣は廊下を行きつ戻りつした。女中たちを探したが、あいにく誰もつかまらない。父親に子守を頼むわけにもいかず、迷った挙句、自分が向かうことにした。
はなれは屋敷の北西に突きだしており、内廊下を介してつながっている。この屋敷はもともと義母の生家の別邸で、婚姻に際して父親が譲り受けたものらしい。はなれは元来、茶室として設けられた部屋らしく、今もその名残に水屋がある。赤子の世話をするには丁度よい場所かもしれない。
赤子を驚かさぬようにと、暁臣は注意深く障子戸を開けた。
六畳ほどの和室に白い布団が敷かれ、そのなかで赤子が声を上げている。
障子戸を開けたままにして、暁臣はそっと足を踏み入れる。村でもよく子守を頼まれていたので、赤子には慣れているつもりであった。しかし自分と血の繋がった弟となると、まるで話が違った。心臓がどくどくと速まるのを感じる。どうにも気持ちが昂って落ち着かない。
暁臣は足を止め、布団を見下ろした。
どういうわけか――布団のなかの赤子は彼を見た途端、すんと泣き止んだ。暁臣は思わずまばたきする。自分が何かしただろうか。彼が思案する間もなく、今度はなんと、赤子はきゃっきゃっと笑うような声を上げた。
(……かわいい)
暁臣は遠慮がちに人さし指を差しだしてみる。赤子は迷いなくぎゅうと小さな手で握り返してきた。柔らかく湿った温かな手は、想像以上に力強い。
「……太一?」
おずおずと呼びかけてみれば、また喜ぶような声が返ってくる。暁臣は自然と頬がゆるんだ。この義弟は自分を「兄」と呼んでくれるだろうか。それならば――跡取りの立場を失っても、これからは義弟を支えて生きていこう。
そう思った矢先のことだ。
足音がした、と気づいた時にはもう、彼のからだは壁に吹き飛ばされていた。
「誰か!」
悲鳴じみた声の主は義母である。布団から義弟を抱きかかえると、義母は暁臣を睨みつけた。その双眸でひとを射殺せるのならば、彼はとっくに殺されていただろう。それほどまでに憎しみが溢れた目であった。わけが分からぬまま立ち上がり、暁臣は切れた唇をぬぐって頭を下げる。
「義母さま、僕は……」
「わたくしはあなたの母ではありません!」
暁臣はなにも言えず、口をつぐんだ。
「あなたから一番遠い部屋を選んだのに……やっぱりあなたはここへ来たのね」
「義母さ……それはどういう意味ですか?」
「この子が死ねばいいと思っているのでしょう!」
「まさか!」
義母は腕の中に隠すように義弟を抱いている。暁臣はようやく理解した。なぜ義母は春先から彼の前に姿を見せず、なぜ出産まで生家に戻っていたのか。
――彼に赤子を殺されると思っていたのだ!
「父さまの書斎を出たら廊下で泣き声を耳にしたんです! だから心配してっ……」
「あなたが太一を心配? まあ、なんてお優しいのかしら! さすが道子さんのご子息ね!」
「……母のことを知っているんですか?」
「ええ、よく知っているわ。富士家に嫁いで以来、ずっとわたくしの世話をしてくれたもの。あんまりお優しいから、わたくしの主人の世話までなさる気になったのかしら」
暁臣の顔を見て、義母は眉をひそめる。
「……知らなかったの? もうとっくに聞いていると思っていたわ」
「……知りませんでした」
「そう……だったらなぜ、わたくしがあなたの顔を見たくないのか、分かるわね?」
「……はい」
「もう二度と、この子に構わないでちょうだい」
「……分かりました」
慌ただしく廊下を駆ける音がする。女中や下男たちが騒ぎに気づいたのだろう。彼らと入れ違いざまに、暁臣は部屋をあとにした。義弟の泣き声を耳にしながらも、けして振り返りはしなかった。