2-4 懐妊
季節の巡りは早く、三年の歳月が過ぎた。
その春、暁臣は中等科に進学した。初等科では、父親から「首席は取らないように」と釘を刺されていたので、試験の設問をわざと間違えて成績を十位圏内にとどめた。学校の生徒は初等科から高等科まで、華族の子弟が大半を占めている。平民の暁臣を露骨に避ける者もいたが、ほとんどの級友は節度をもって接してくれた。
学校は家よりも気楽だった。
屋敷ではあいかわらず、父親も義母もよそよそしい。しかし姉だけは、食卓で目が合うと微笑んでくれるようになった。
ところが最近、その食卓で義母の様子がおかしい。食事中にあからさまに彼を避けたり、姿を見かけなかったりする。五月になると、ついに一週間連続で居間に現われなかった。
「義母さまは、ご体調が優れないのですか?」
「……うむ」
「ご病気ですか? どこかで療養されているのですか?」
苦手な義母ではあるが、病気となればやはり心配になる。姉もさぞかし不安だろう、と思い視線をやると、なぜか同情するような目が暁臣に向けられていた。
「大丈夫よ、暁臣。お母様はご病気ではないわ」
「そうですか、良かった。ではなぜ?」
「ご懐妊されたの。だから生家に戻っているのよ。ねえ、お父様?」
「ああ……そうだ」
歯切れの悪い父親と、自分を憐れむような姉の表情とが、すとんと腑に落ちる。義母の懐妊――それが何を意味するのか、分からない歳ではない。
「暁臣、早く食べなさい。学校に遅れるわよ」
「……はい、姉さん」
父親の顔を見ることができず、暁臣は茫然と箸を動かした。機械的に飲みこみながらも、味はまるでしなかった。
◆
学校から帰ると、制服もそのままに暁臣は屋敷を飛び出した。
自宅から教会までは、早足であれば三十分足らずの距離である。礼拝には車で通っているが、彼ひとりの時は散歩も兼ねて歩くことが多い。
初夏の日差しはまぶしく、屋敷の連なる塀からは若葉がのぞいている。いつもであれば、葉群れからこぼれる光を眺めて歩くが、今日は無心で坂道を上がっていく。
平日の夕方ともなれば、教会の敷地は閑散としている。暁臣の予想どおり、神父はひとりで石畳を掃いていた。
「暁臣くん、学校の帰りですか?」
「はい。ドーン神父はご予定がありますか?」
暁臣は教会の扉に目をやる。来客があれば、このまま帰るつもりであった。神父は屈託なく笑って首を横にふる。
「いえ、暇を持て余していたところです。実を言うと、この道を掃くのは今日三度目なんですよ」
暁臣が微笑すると、神父も応えるように目を細める。神父が箒を片づけている間、彼は一足先に教会のポーチに入った。会衆席の最前列、入り口から見て右手側に座る。かすかに扉が鳴る。神父は静かに身廊を歩いてゆき、内陣の手前で立ち止まる。
いつしか、これがふたりの定位置となっていた。
「どうされましたか?」
「義母さまが……懐妊されました」
神父は目で相づちを打ち、暁臣に先をうながした。
「……喜ばしいことなのに、喜べないんです。それだけじゃない。酷いことまで考えてしまう」
「どんなことを?」
「……いっそ病気ならよかったと。病気ではないかと思っていた時は、ほんとうに心配だったんです。それなのに、懐妊だと分かった途端に……僕は最低な人間です」
神父は内陣から離れ、彼の前に立った。
こちらを見下ろす目は澄んだ青で、暁臣は答えを探すようにのぞきこむ。
「きみが最低な人間だと? では親を、自分の主人を、幼い子どもを殺したいと思う人間は? あなたよりも最低だとは思いませんか?」
突然の話の矛先に暁臣は面食らう。彼が答えぬうちに神父は話し続けた。
「実際に人を殺した人間は? どうです、あなたよりも最低ではないですか?」
「それは……当然、いけません。ですがドーン神父、誰かと比べることにどんな意味が? たとえ他に酷い人間がいたとしても、それで僕の罪が許されるわけではありません」
暁臣は目を見開いた。あろうことか、神父はおかしそうに忍び笑いを漏らしたのだ。
「ドーン神父?!」
「ああ……失礼しました。きみは賢い子ですね、暁臣くん。確かにきみの言うとおり、誰かと比べてもその人間の罪が軽くなるわけじゃない。私が言いたかったのは、こういうことです。この世の中には、きみより酷い人間なんてたくさんいる。その多くは大人たちで、しかも平然と生きています。暁臣くん、きみはまだ十三歳でしょう。そのうえ、お義母様が男子を産めば、きみの先行きは不透明になる。そんな状況で、子どものきみが多少の酷いことを考えたとして、一体どんな罪が?」
まるで礼拝の説教のように、神父はとうとうと言葉を連ねた。めずらしいことだ。彼とふたりきりのときは、いつも二言三言話すばかりで、聞き役に徹しているというのに。
「ですが……こんな醜い自分を許せません……」
「きみは誇り高いのですね」
その声には妙な響きがあった。常にはない、わずかに皮肉を帯びたような声だ。暁臣は驚きとともに神父を見つめる。その目は夕陽のせいか爛々とかがやいている。なぜかぞくりと暁臣は震えが走った。怖いような、見惚れるような目つきであった。
「気高く清らかでまっすぐだ。きみは出会った頃から少しも変わらない」
大きな手がゆっくりと暁臣の頭を撫でる。心地よさに身を委ねながらも、同時に反発心も湧き上がる。今に始まったことではない。出会った頃から、神父は彼を子ども扱いばかりする。とはいえ一方的に頼っている現状では、このように扱われても無理はない。
「ドーン神父、僕はあなたに叱られたくて来たんです」
そう申し立てるのが精一杯の暁臣だった。
ドーン神父の表情が真剣なものに改まる。暁臣はごくりと唾をのんだ。
「分かりました。暁臣くん、では目を閉じてください」
「……はい」
暁臣はぎゅうと目をつむる。これまで母親はおろか、父親にも義母にも、教師にも打たれたことはない。しかし神父に頬を打たれるのであれば、望むところであった。
ぺちん。
どこか間の抜けた、可愛らしい音が鳴る。額におまけ程度の痛みを受けて、暁臣はぽかんと目を開ける。
「……ドーン神父?」
神父はにっこりと笑って、人さし指と親指で弾く真似をする。
「…………」
「はい、罰の時間は終わりです」
暁臣の抗議の視線をものともせず、神父は内陣へと踵をかえした。
「ドーン神父! 僕は本気でっ……」
「では、私がきみを赦しましょう」
礼拝のように祭壇の前に立ち、神父は静かに言った。もうふざけた気配は微塵もなく、周囲の温度が二、三度下がったように感じる。
「赦す……とは」
「たとえきみにどんな罪があろうと、私が赦すということです」
「神の代理人として、ということですか?」
「いいえ。主ではなく……私自身があなたを赦すということです」
アーチ形の窓から夕陽が射しこみ、内陣は光の海だった。その海の真ん中にドーン神父が立っている。微笑んでいるようにも、厳めしいようにも見える。天上の者のようでも、人ならざる者のようでもある。
暁臣は黙って立ち上がり、静かに一礼すると身廊を駆けぬけた。
扉を勢いよく開けて、全速力で走りだす。
頬が燃えるように熱かった。
たとえ父親に、義母に、教師に、神に罰せられても構わなかった。ただひとり、あのひとに赦されるのならば――自分の醜さを抱えたまま生きていこうと思った。
■次回1/31(金)更新予定■