2-3 教会
翌日、朝食をすませて部屋に戻ったときだった。
文机の前で教科書を開いていると、コツコツ、と縁側の障子戸から腰板を叩く音がする。空耳かとやり過ごしたが、間を置かずにまた音がする。怪訝に思いながら、障子戸を開くと、目の前に義姉が正座していた。
「うわ!」
「しーーーーっ!」
義姉はぐいっと彼に近づき、人さし指を突きつけた。
「いい子だから! ね、静かにして。お母様にばれたら怒られてしまうわ」
こくこくと首を縦に振ると、義姉はほっとした顔で手を離した。大きな黒い目は好奇心でかがやいて見える。縁側に正座したまま、義姉はにっと笑う。
「わたしは葵。あのね、あなたビスケットは好き?」
「ええ……と。好き……だと思います」
「思いますって?」
「食べたことはないんです。でも以前に本で読んで、美味しそうだなって」
義姉はくすくす笑って、背後から長方形の缶を取りだした。かぱ、と蓋を開けると美味しそうな香りが鼻をくすぐる。「はい」と差し出され、おそるおそる手を伸ばす。ひと口かじるとほろりと崩れ、口中に甘さが広がった。目の前で義姉もかじりながら、人懐っこい笑みを向けてくる。昨日も今朝も、始終冷ややかな表情だったというのに。
「お母様の前ではあなたとあまり話せないの。でもわたしはずっと一人だったから、本当は楽しみにしていたの」
少しだけ眉を下げて、義姉は後ろめたそうに缶を彼の手に乗せる。
「残りはあげる。そうだ、あなた、教会に行ったことはある?」
教会、という単語に胸がどきりとする。しかしすぐさま、昨夜のことをこの義姉が知るはずはないと思い直し、めいっぱい首を横にふる。義姉の顔がまたかがやいた。勝気そうな笑顔は愛嬌があり、唇からのぞく八重歯が愛らしい。元来誰とでも打ち解ける暁臣は、義姉への親しみが一気に湧いた。
「毎週日曜日に礼拝があるの。お父様たちは来ないから、いつもわたしだけ行ってるの。ね、あなたも行かない? そうしたらわたしたち、沢山お話できるわ。それに神父様がとっても優しいの。イギリス人でとっても背が高いのよ」
「神父様……ドーン神父ですか?」
とっさに口をついた言葉に、暁臣は内心でしまったと焦る。
義姉は目をまるくして、穴が開くほど彼を見つめた。
「どうして知ってるの?」
「あ……前に名前を聞いたことが」
「なんだ、ここに来る前に聞いたのね」
ひとりで納得する義姉に、ほっと胸を撫で下ろす。昨夜の出会いを話すつもりはないが、できれば嘘もつきたくなかった。
「じゃあまた、日曜日にね」
「ありがとうございます。義姉さ……葵さん」
「あら、姉さんでいいわよ。あなたは? 暁臣さん?」
「母さま……あ、僕の母さまは暁臣と呼んでいました」
言いながら後悔する。この屋敷で母親の話題に触れるのは、禁忌なのではないか。不安な気持ちで姉の表情をうかがったが、傷つけた様子はない。ただ柔らかく微笑すると、姉はさっと立ち上がった。
「じゃあ、わたしも暁臣と呼ぶわ。またね」
姉が縁側から飛び下りると、桜色のワンピースがひらりとなびいた。
◆
日曜日は春らしい陽気だった。
玄関の車寄せには黒塗りの車が停まり、運転手と姉、それにトメの姿がある。トメは彼らを後部座席に座らせると、助手席に乗りこんだ。
暁臣の内心は落ち着かなかった。村ではいつも着物だったが、この屋敷に来てからはシャツとズボンを身に付けている。そのうえ今日は、揃いの上着まで着ているのだ。
「どうしたの、暁臣? 緊張した顔ね」
「洋装して出かけるのは初めてで……僕、おかしくないですか?」
「なに言ってるの! とっても素敵よ。小公子みたいだわ」
「姉さんこそ、小公女みたいに綺麗です」
「あら、あなたもバーネットを読んだのね!」
本の感想を話す姉の声を聞きながら、暁臣は窓の外に横目をやった。頬にふれる風が心地よく、見るものすべてが目新しい。そんな暁臣に気づいて、姉がこちらの窓に身を乗りだしてくる。姉と一緒に町を眺めるだけで、暁臣は胸がいっぱいになった。屋敷では他人行儀な姉だが、今はまるでほんとうの姉弟のようだ。
十数分などあっという間で、車は教会に着いた。
公道から坂を上がった先に黒い門がある。門の前で車を降りると、暁臣と姉はトメとともに石畳を歩いた。暁臣は目を奪われた。洋風建築を見るのは初めてだ。真っ白な外壁が光に映えてまぶしい。両脇の並木がざわざわと梢をゆらす。風に混じって人びとの話し声も聞こえてくる。
重たそうな木製の扉が開いている。
暁臣が教会に踏みこんだ途端、波がひくように声が静まった。人びとの視線が自分に集中するのを感じた。
「あの子が富士家の……」
「ほう、なかなか賢そうな子じゃないか」
「だけど……ねえ……」
「可愛い子じゃないの。うちの娘にどうかしら」
「あなた、本気で仰ってるの? だってあの子は……」
予想できていたことだ。
現に今朝の食卓でも、義母は難色を示していた。暁臣を気遣ってというよりも、富士家の評判を気にしているふうだった。やっぱり礼拝に参加するのは無理なんだ、としょげる暁臣だったが、意外にも父親が賛同してくれた。「だったらなおのこと、早く西洋の文化を学ばせた方が良いだろう」という父親の言葉で、暁臣は今、ここにいるのだ。
暁臣は教会を見まわした。
目の前の通路には赤い絨毯が敷かれ、その左右には木製の長椅子が並んでいる。両側の壁には半円形の窓が連なり、格子模様の影を床につくっている。通路の奥は一段高くなっていて、その手前に数人が立っていた。
(ドーン神父だ!)
洋装や着物姿の女性たちに囲まれて、神父はにこやかに笑っている。先日の夜と同様に、金色の髪を後ろに撫で上げ、黒くて長い服を身にまとっている。暁臣はなぜか胸がずきずきと痛んだ。あの日はあんなに近かった神父が、今はずいぶんと遠く感じる。トメはいつもそうしているらしく、二人から離れると、教会の後方に立った。入り口で立ち止まる暁臣を物怖じしたと思ったのか、姉が耳元でささやいた。
「あんな人たちの言うこと、気にしちゃだめよ。誰がなんて言おうと、あなたが富士家の跡取りなんだから」
ぎゅっと手を握る姉に礼を言い、ふたりで通路を歩く。正直なところ、人びとのうわさ話はさして気にならなかったが、姉の心遣いを嬉しいと思った。
近づいてくる二人を認めて、神父は女性たちの輪から抜けだした。
「神父様!」
「こんにちは、葵さん」
「こんにちは、神父様。この子は暁臣、わたしの弟です」
「そうですか。初めまして、暁臣くん」
暁臣の不安を吹き飛ばすかのように、神父は即座に言い切った。先日の出会いなど微塵も匂わせはしない。暁臣は感謝しながらも、一抹の淋しさをおぼえた。そんな身勝手な自分を恥ずかしく思いながら、礼儀正しくお辞儀をする。
「神父様、今日のお菓子はなあに?」
「今日はスコーンがありますよ」
「あら! 嬉しい、あのさくさくしたお菓子ね!」
「ええ。紅茶にもよく合いますから」
ぱっと暁臣が顔を上げると、神父と真正面から目が合った。その澄んだ青い目が片方、ぱち、と茶目っ気たっぷりにつむられる。
『ドーン神父、僕はもう十歳です。子どもではありません!』
『……そうですね、失礼しました。では美味しい紅茶を差し上げましょう』
先日の会話を思い出し、暁臣はかあっと頬が熱くなる。
――覚えてくれていたんだ!
暁臣の様子には気づかない様子で、姉たちは会話を続けている。
オルガン奏者らしき男性に呼びかけられて、神父は通路の奥にむかった。
暁臣と姉は最前列の席についた。
夢のような時間だった。台の前で神父は聖書を読んだ。暁臣には意味がよく分からなかったが、柔らかで張りのある声を聞いているだけで胸が高鳴った。姉と並んで立ち、耳に聴こえる歌を真似て口ずさみながら、目は神父に釘づけだった。神父は長椅子を見まわしながら、歌い、ときに手元に目を落とし、また歌った。
神父の背後には大きな窓があり、煌々と陽光が射しこんでいる。
まるで光を背負っているようだ。
先日の夜に人ならざる者のようだと思ったが、暁臣はその言葉は正確ではなかったと思い知る。確かに人ではない。人ではなくて――神の遣いのようだ。
天使が人の姿をすれば、このような造形になるのだろう。
暁臣は全身が熱の塊になったように感じた。苦しいような、それでいて幸福なような、初めての感覚であった。
白い陽光のなかに佇む神父を、我を忘れて見つめ続けた。