落下1
「あー、今日は何か疲れたなぁ」
すっかり闇が空を包み込んだ頃、仕事を終えてマンションの自室へと帰ってきた菜穂はコキコキと首を左右に鳴らしながらドサッとベッドに倒れ込んだ。
「いったい、何だったのかな? いつも以上に今日は事故が多くない?」
ごろりとベッドに仰向けに身体を反転させ、天井をぼんやりと眺める。不思議そうに首を傾げながら、菜穂は今日一日の事を振り返っていた。
「まずは電車でしょ? ホームで私の後ろに並んでいた人が落っこちるし、まぁ、電車は停まって何事もなかったからよかったけど……。そういえば、私が飲み物を買おうと自販機に行った瞬間、その人、ホームの一番前に出て落ちたんだよね。何か、足首を掴まれて引っ張られたとか言っていたけど……まさかね。道を歩いていれば私を抜かしていった人がマンホールに落ちるし、そもそもマンホールが開いているなんてありえないってば……。他にも……あれも、これも、それも……うわーっ、今日だけで周りで起きた事故が10件もあるじゃないの!」
眉を寄せて指折り数えていた菜穂はふと何かに気付いた様にガバッと勢いよく起き上がった。
「え、あれ? よく考えてみたら私に起こっていた事故だったかもしれないんだ。うわーっ、事故に遭った人には悪いけど、私ってば凄くついてるって感じ? でも、それにしてもここ数日周りで変な事が多いなぁ……」
ぐぐっと伸びをしてベッドから降り、菜穂はその場でパパッと服を脱ぎ出す。
狭い1DKのマンションの脱衣所は人体模型や骨格などを飾っていて狭いため、いつもベッド上で脱いでから浴室へと移動している。
この日もいつものように全裸になった菜穂はシャワーを浴びようと浴室へと向かうためベッドから飛び降りようとしたのだが、突然地鳴りのような音と共に激しくベッドが揺れ出した。
「えっ、地震? なっ、大きい!?」
思いの外、大きな揺れに立っていられず、ベッドに仰向けに倒れ込む。揺れが激しくなる中、菜穂は身体を何とか反転させてうつ伏せになり、伸ばした手に触れたバッグを何故か胸の中に抱え込みながらシーツに必死にしがみ付いた。
「キャーッ! 何なのよー!」
ベッドが大きく乗馬でもしているかのように上下に弾んだかと思うと、今度はコマのようにクルクル回転し始める。
「うそ、うそっ、これって地震じゃない……まさか……いやぁー!」
ベッドの有りえない動きに菜穂は半ばパニックになりながら心の中で叫んでいた。
(ポルターガイスト! 私、お化けだけは苦手なのよー!)
「なんまいだー、ナンマイダー……なむあみだぶつ、ナムアミダブツ……えこえこあざらく、エコエコアザラク……原井玉枝、キヨメタマエ……阿久涼太胃酸、アクリョウタイサン……キエーっ!!」
ギュルギュル激しく回転するベッド上ですっかりパニックに陥った菜穂は最早自分でも何を言っているのかも分からず、突っ込み所満載の言葉を発しながらぎゅっと目を閉じて必死に祈っていた。
(お願い、幽霊だけは出てこないでー!)
そんな菜穂の必死な願いが通じたのか、徐々にベッドの動きは緩やかになっていき、やがてピタリと静止した。
「…………………止まった……の?」
恐る恐る顔を上げて部屋を見渡すと、揺れる前と何の変りもない部屋の様子が確認できる。
菜穂は全く散らかっていない部屋をザッと見、やはり地震ではなかったと確信して頬を引き攣らせた。
「うわっ……揺れたのってベッドだけ? 本当にポルターガイスト!? どうしよう、部屋の四隅に塩でも盛って清めた方がいいのかな……。それとも聖水?」
ゆっくりと身体を起こしてベッドの上で胡坐をかき、バッグを抱えたまま眉間に皺を寄せて真剣に悩み出したのだが……。長く裸でいたせいか盛大なクシャミが飛び出し、そこで菜穂の思考は中断された。
「……ッハクシュン! あー、さむ……お風呂に入らないと風邪ひいちゃう」
バッグを手にしたまま今度こそ風呂に入ろうと、菜穂はベッドから飛び降りた。
だが、そこにあるはずのフローリングはなかった。 ぽっかりと足元に開いた真っ暗な空間が菜穂を迎えることとなったのである。
「えっ!? キャーアァァァー!」
菜穂は反射的に手を上へと伸ばすが掴んだのは空気のみで、床に足をつけることなくスッとその空間へと落下していった。
菜穂を飲み込んだその瞬間、床の穴は閉じてしまい何事もなかったかのように部屋に静寂が訪れた。
数日後、『謎の神隠し!?』などとワイドショーで話題となって一躍時の人となるのだが、勿論そんな事菜穂に知る由もない。