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「初恋の男の子だし」
篠原の言葉に、とっさに嘘だろと言い返しそうになって、でも、篠原の俺を見てくる瞳にはウソがないように思えて。
俺はカアッとした頭を思いっきりふって叫んだ。
「さっきっ! さっき、お、お、お前、俺のこと好きかどうかわからないって言ってただろ、矛盾だろ、そ、れっ」
「違うよ……。別に矛盾なんかない。そのままだもん。寂しいと思う前の”私”が、まだ世界は幸せがいっぱいだって思ってたころの私が、好きだったんだから、嘘じゃない」
「今は違うってことだろ」
「だから……今は好きかわからないって言ってるじゃない。ただ、綺麗な想い出がある遠野くんを、寂しいからって利用するなんて……やっぱり、それは、できないって思った」
篠原がそうっと俺の頬を撫でて、微笑んだ。
「……漫画のヒーローよりも、ずっともっと、小学生のころ、遠野くんは、私を助けてくれた」
「……」
「ごめん。……私、たぶん、どっかおかしいの」
「おかしいって、なんだよ!」
「ドライヤーしてもらってさ……あったかくて、ほわほわってなって……。こういうあったかさがどうしたら続くかなって、そう思ってたら……大学生との経験の話、いつのまにかしてた。この意味わかる?」
篠原の黒い瞳が、いまだけ真剣に鋭さをもった。ふわっとしたものでも、ぼんやりしたもので、能面でもなくて。
「私、どこかで、男を誘うような……寂しい自分を見せつけて、”男”を誘うような言動、してるんだよ。無意識だけど。意識的じゃないけど、振り返ったら……そうなってる。すくなくとも、あの大学生と会ってるとき、そうだった。いつのまにか、誘ってるみたいになってた。つけこまれるように、わざわざ仕向けてるみたいになってた」
「篠原……」
「変でしょ。好きなんて、思ってないのに。そういう寂しさ埋める駆け引きみたいなの、学校では押し殺してるけど、でもなんか媚びてるのがにじみ出てるから、きっとクラスメイトともうまくいかないんだろうなって思う」
篠原が唇を歪めるようにして笑った。
「媚び」というのは篠原からは、一番遠く感じるのに。この真面目くさった服装も、態度も、日ごろの学校生活も。
でも、まるで篠原は自分で自分を裁いて責めるみたいにして言った。
「だから……こんな私の言葉、信じなくていいよ。私も私がよくわからない。なんであんなことしちゃったのかわからない。誘われて、その先にあるものもわかってたのに、相手の気持ちがここにないこともわかってたのに――……遠野くんにまで、いつのまにか……」
そう言って篠原は、俺の方を見て、「ごめんね」と言った。
その瞬間、直感的に思った。
……こいつ、俺から離れようとしてる。
理由なんてないし、そもそも今までだって、そばにいたわけじゃない。
でも、今、決定的に、篠原は別の道に行こうとしているのを感じた。
言葉にしていないのに、なんだかわかった。苦しいくらいに、篠原がどんどん離れてゆく。
俺の腕の中にいるのに。
俺は、篠原の顔を思いっきり睨んだ。
きっと篠原よりも美人な子も、カワイイ子も、綺麗な子も、優しい子も、尽くしてくれる子も、元気な子も、気遣いのある子も、きっと世のなかにはたくさんいる。
……それなのに、なんで。
睨みつけて、睨みつけて、睨みつけて――……でも、拒めないことを知る。
視界の中に入る、篠原を、外に追いやることができない。
無視できない。離れられない。拒めない。
かまいたくなる。気にかかって近づきたくなる。話しかけたくなる。知りたくなる。
イライラする。答えないからイライラする。わからないからイライラする。俺を選ばないからイライラする。俺を頼ってこないからイライラする。俺のことを好きって言わないから……イライラする。
だけど。
俺もまた、篠原に何一つ伝えてなくて。自分の中で留めて、くすぶって、イライラしっぱなしなだけで。
このままじゃ、きっと堂々巡りで。
「篠原、聞けよっ」
不思議そうな顔をする篠原。
俺は息を吸った。
そして、篠原の耳元に口を近づけた。
「好きだ」
三文字。
たった三文字を告げた。
告げたとたんに、俺の中が熱くなる。俺自身が篠原への気持ちを認めてしまって、今まで封じて封じて封じて、知らぬふりを決め込んできた自分の想いの跳ねっかえりにしてやられるみたいに、熱気に流されてゆく。
あぁ、もうたぶん、ダメだ。
もう、きっと止められない。
目を見開いた顔の篠原のそんなに高くない鼻の先に、くちづけてみる。次は頬。目尻。眼鏡が篠原の肌に当たって、俺はまた顔を離した。
「……遠野、く、ん?」
まだ驚き顔の篠原からは視線をはずさぬままにずれた眼鏡のつるに触れる。ガラガラと俺の学校生活が崩れてゆく幻影が見えた。
下校前に教師に釘をさされたこと。成績維持のための強烈な勉強スケジュール、手を抜かない部活に、人間関係。
勉強して勉強して勉強して、泳いで泳いでむちゃくちゃ泳いで、塾行って、また勉強して――……
そんな繰り返しの生活。
そこから生まれた、すごく肉体的知能的にはキツくても、それなりに安定した毎日。
それが、きっと今までのようにスムーズにはいかなくなる。面倒ごとが増えて、やらなければならないこと、こなさなければならないスケジュールがすごく増えて。受験のストレスも倍増して。
そこに、なによりも、この篠原の一挙一動を気にして縛りたくなる自分をずっと自制しなきゃならない学校生活が待ってるなんて――……。
それは、すごく、面倒なこと。
けれど、それはもう受け入れるしかない。
「……おまえ、能面顔して泣いてんの……わかってる?」
「え……」
「俺の頬さすりながら……おまえ、涙、流して、今も止まってない」
篠原は気づいてない。
全然気づいてない。
だから言葉にして「助けて」なんて言えない。それくらい馬鹿で馬鹿で馬鹿で――……我慢強くて、可愛いくて、やっぱり馬鹿だ。
「おまえの好きだった漫画……俺、一回、読んだ」
「……」
「あの主人公さ、助けてって言ってないのに、いっつも助けられるの。なんで助けてって言わないんだろって思った」
「……」
「でも、言えねぇんだよな。自分が辛いってことすら、わかってないから。自分が泣いてて、悲しいってことすら、自覚ないんだから」
俺は、篠原の「助けて」を待ってたんだ。
好きな子に頼られるのを待ってたんだ。
あからさまないじめにあってたわけじゃないし、別に取りだたされるような家庭環境なわけじゃないし、ただちょっと孤独だっていうだけだから、だから、篠原が俺を頼りにしてくれたら、それなら俺は動こうかなって……。
ずるくずるくずるくずるく考えて。
傷つきたくなくて、受験を言い訳にして、目をそらして。
昔知った、篠原の好きな漫画にでてくる篠原の好きなキャラに近づくような真似事をして。馬鹿みたいに、「待って」たんだ。
でも、いつのまに。
いつのまに、あの、鮮やかなランドセルを背負ってはにかみながら夏休みのお土産を渡してくれた同級生は、女になったんだろう。
いつのまに、休んだ分のノートのコピーをポストに入れてくれた優しい同級生は、女になってしまったんだろう。
いつのまに、おんなじ漫画を飽きもせず読み返してる好きな女の子は、他の男の腕の中にいってしまったんだろう。
「馬鹿な篠原」
「……わかってる」
あたためて欲しかったくせに。どうして。
どうして、他のやつなんだよ。なかば行きずりみたいな男なんだよ。
あたためてくれるわけなんてねーだろ。その男こそ、お前からぬくもり奪うに決まってんだろ。それくらい解れよ。
男なんて、俺ふくめて、そのまんまだったら、自分の欲に忠実で自分のメンツを守ること優先で、ずるいままなんだよ。
……でも、それじゃ、守れないってこと、だろ。あたためられないってこと、だろ。
いくら成績が良くても水泳大会で賞とっても、部活を率いる立場にあっても、先生から覚えめでたくても――……俺の中身がチキンであるかぎり、好きな子ひとつ、好きだって言えない。かっさらわれて。
だから。
「俺にしろ、篠原」
「な、に、言って……」
俺はぐいっと自分の眼鏡をはずした。
いちど首をふって耳にかかった髪をもどす。俺の下で息をのむ篠原の気配がした。
「……なに?」
声をかけたら、篠原がちょっと唇を噛んだ。そのままそっぽをむこうとするから、俺は篠原の顎をとった。
「そらすな」
「……」
俺は篠原の頬に唇を近づけた。
「……寂しいからって、他を探すなよ」
頬に口づけたら、微かに涙の味。
篠原はぎゅっと目を閉じた。
「俺が篠原を好きなんだから。――だから、俺を選べよ。……いい男になるように、努力するから」
「……なにいって……」
俺は、篠原をそっと腕の中に包んだ。つぶやさないように。傷つけないように。
「好きだよ、篠原。俺を、選べ」
「……遠野く、ん」
「俺を好きになれっ!」
たぶん、篠原は確信がもててない。俺の勢いに押されて。
でも、今はそれでいい。俺だって、もうこれだけで手がいっぱいだ。
適当に、流されてゆくなよ。
流されるんだったら、俺みたいなお前を好きな奴にしろよ。
勝手に傷つくなよ。
お願いだから。
篠原、泣くな。
しばらくして、篠原の腕が、俺の背にそっと回った。
*****
「遠野、気合い入ってきたみたいだな。とはいえ、うぬぼれて足元をすくわれないようにな」
「――はい。アドバイスありがとうございました。失礼します」
担任の教師に一礼してから進路相談室をでて廊下に立つと、しっとりとした雨の匂いがした。
眼鏡をいちど外して、首をまわす。一番上まで留めている夏の制服のシャツが苦しく感じて、一番上のボタンだけそっとはずした。
深呼吸すると、少し楽になる。
俺はもう一度首を軽く回してから、廊下をゆっくりと歩きはじめた。
その時、見下ろした窓ガラスの向こう、運動場の隅を校門にむかってすすむ姿が目の端に入った。
――……
――あいつ、また。
呆れるような気持ちになって、俺の足は自然と早くなっていた。
階段を駆け下りて、急いで靴をはきかえ、校門を過ぎた背中に呼びかける。雨は止んでいて、傘がなくても大丈夫だった。
「篠原さぁ、お前、なにやってんの」
俺が声をかけると、黒髪が揺れて、振り返る篠原。
「あー、遠野くん」
「おまえ、また曲がり角のところで俺を待っとくつもりだっただろ」
「……だって」
俺のことばに、篠原が目をそらす。
「学校で待っててそのまま一緒に帰ると……目立つし」
「いいだろ、ちょうどいい牽制になるだろ。それとも、また陰でなにかされた?」
「……それは無いけど……。傘とか文具とか勝手に使われるのは、この前、『ちゃんと返して』って言えたよ」
ぼそぼそとしゃべる篠原の横に、立つ。
本当は俺だって少しは緊張してる。
いつだって、拒まれないかと緊張してる。見せないだけで。
「篠原、最近、はっきり言うようになった? まぁ当たり前のことを当たり前に言ってるだけの気もするけど」
「……その”当たり前”を少しは言えるようになったと思う。遠野くんに言い返すよりはラクだってことに気付いた」
「なんだよ、それ」
「ん。私、親とも友達とも口論とかしたことなかったけど、眉間の皺寄ってる遠野くんよりはクラスメイトの方がキツくないし」
篠原はくすくす笑う。
「あー。もう言ってろ、言ってろ。さ、帰るぞ」
「……うん。あのさ」
「何」
篠原が俺の隣を歩く。
「……また、あの漫画、買っちゃった」
「漫画?」
「ほら、小学生のとき、ずっと読んでたやつ」
「あぁ、あれ」
篠原が俺を見上げて、微笑んだ。
「家で、あれ読むと、なんだか遠野くんのこと思い出せるんだもん。なんか、あったかくなる」
「……」
「家で一人でいても、そばに遠野くんがいるみたいな気がするんだ」
篠原は無邪気にそういって、「今もかばんに入れてるんだよ」と言って、リュックを揺らした。
そうしてちょっと動揺してる俺の気も知らぬまま、篠原は「ヒーロー、ちょっと遠野くんに、似てるよね、水泳部とか勉強できるところとか、眼鏡のかたちとか……」とか、いろいろ言っている。
――あー。やっぱり、篠原のこの無防備さは罠なのか。それとも本当に無邪気なだけか。わっかんねー。
いまだによくつかめない篠原は、すくなくとも今は漫画のことばっかり言葉を並べてるから、俺は、ちょっとイラついて篠原の空いてる手を掴んだ。
「表紙、手、つないでただろ」
恋人つなぎというんだっけ。指をからめてつなぐやつ。
「……あ」
照れるように頬をそめて俯く篠原と、俺は歩調を合わせて歩き出す。手をつないで歩くって案外難しい。ひきずってもいけないし、身長差もあるし。
でも、手はあったかい。
「漫画より、ホンモノの方が、いいだろ」
そう嘯くくらいの勇気をくれるくらいには、手をつないで振りほどかれないっていうのは、俺には
すごいことで。
さらに、かっこつけて言ったことばに、素直に頷いてくれる篠原に、ほんとうはちょっとホッとして。
チキンな俺は、今日も勉強して勉強して勉強して、泳いで。
心の内の弱っちい自分も、カノジョを喜ばせたい一心で、奮い立たせて説き伏せて。
「篠原、テスト終わったら、どっか遊びに行こう」
好きな子を初めてデートに誘う。
fin.
告白の後@遠野くん家
「どうして、何もしないの?」
「……リビングだし」
「遠野くんの部屋は?」
「それって、なんか、いろいろすっとばしててダメ」
「……(チキン)」
「なんか聞こえたけどなっ、俺はそういうの、大事にしたい人ですから! 篠原! ともかく、男がつけこむすきを自らつくるなってば!」
「はーい」
「わかってる?」
「うん。あ、遠野くん、眼鏡かけてもキスできると思うよ?」
「!……っ……だから、篠原ぁっ!」
叱られて嬉しそうな顔をする篠原に、翻弄される遠野。