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昔っから、少女漫画をいっつも嬉しそうに読んでる幼馴染がいた。女子だから少女漫画を読んでいてもおかしくはない。でも、あいつはいっつもいっつも同じ漫画ばかりを繰り返して読んでるから、ちょっと頭おかしーんじゃないのって思ってた。
俺は漫画は一回読んだら内容を覚えるタイプだったから、参考書でもないのに同じ話を繰り返して読む意味がよくわからなかった。
小学校も四年生ともなれば、近所とはいえ、一緒に学校から帰ることはない。だけど、家に帰ると「あいつ」は時々いた。
母親に「また来てんの?」って訊けば、「私が声かけたのよ。こんな長雨なのに長時間家に一人みたいだったから。……いつもは放課後を習い事とか塾で埋めてるらしいけど、今日はそれも休みらしいの」と答えて、母親は嬉々としてお菓子作りを誘ってた。
あいつとは小さな頃は一緒に公園で遊んだり、雨の日はうちでゲームやトランプしたりした。
でも、小学生の中学年頃あたりからは、あいつが来ても俺は俺で男友達と約束をしていて外に遊びにいくことが多かった。「母親が呼んだお客さん」という態度を俺はつらぬいていた。
自分の家に「女子が来てる」ってことを知られたくなかった。だから、俺は自分の友達を家に呼ぶときは、必ず先に帰宅して母親があいつを家に呼んでないか確認してから友達を誘いに行くようにしてたくらいだった。
でも、そうやって避けていても、家に帰ってきたら、嫌でも存在は目に入る。
そうして目の端にとらえているうちに、ひとつのことに気付いた。
あいつはいつも同じ漫画の単行本を手にしていたのだ。
自分の家から持ってきたらしいリュックから取り出すそれは、瞳がキラキラした絵の少女漫画。制服を着て眼鏡をかけた男子と手をつないでるセーラー服の女子の絵。いっつも、それ。
人気のあるやつかどうかはわからない。でも、うちのソファで静かに繰り返しそれを読んでいるのが気になった。
「面白いの、それ」
いつだったか、尋ねたことがある。
雨の日で、俺も友達と外で遊べなくて、仲の良い子はたまたま塾の日で――……。家に、あいつが来てて。
ひますぎて、リビングのソファのすみで漫画を読んでいるあいつに声かけた。
俺の問いかけに顔をあげて、黒い瞳をこちらに向ける。
「……面白くはないよ。コメディじゃないし」
「面白くないのに読むわけ?」
「うん」
「どうして?」
問いに考えるそぶりを見せた後、あいつは言った。
「かっこいいから」
「誰が?」
そのときはじめて、あいつはちょっと照れたように目を伏せた。ほんのりと頬を赤くして。
少し浮かれたように口角をあげて。
大事そうにその漫画の表紙を撫でた。
そしておもむろに、口を開いた。キラキラと目を輝かせて。
「この表紙の眼鏡の男の子がね、すっごく、かっこいいの。勉強がすっごくできて、スポーツもできて、水泳部なんだけど泳ぎもはやくて……。でもね、それは天性のものじゃなくて、この男の子がすっごい頑張って頑張って手に入れた結果でね、それはこの女の子の守るためでね……女の子が困ったときにもすぐに助けてくれて、それで、傍にいてくれる。一人にしないの」
びっくりした。
あいつが、饒舌に語るのを初めて見た。今まで同じクラスになったこともあったけど、教室のすみにいるおとなしいタイプで、小さな頃俺と遊んでたときもどちらかというとニコニコと微笑んでついてくるような子だった。
漫画のキャラに入れ込んでるんだなって、冷ややかに見ることもできたけれど、あまりにあいつが嬉しそうに大切そうに話すから、そういうツッコミはなんだかできなかった。
「ふうん」
と、答えるだけだった。
俺の愛想のない返事に、あいつはハッとしたような顔をして、困ったようにうつむいた。
ぼそぼそと「ご、ごめん。こんな語っちゃって……ひ、引いたよね」とどもりながら弁解している。
別に”引いた”わけじゃなかった。でも、それをわざわざ言うのもなんか変な気がして、俺は黙ってた。すると、今度はおずおずとそいつは漫画を俺の前に差し出した。
「読んでみる?」
のぞきこむように見つめられて、目があって、その目をそらせなかった。
雨が降っていて、とっても暇で、面白いテレビもなくて、ゲームもやりつくして、友達もみんな習い事で――……あぁ、とっても暇だから。暇だから。読んでやってもいいかな。
俺は、無言で、その差し出された漫画を手に取った。
あいつはとても嬉しそうに笑った。
久しぶりに見た満面の笑顔だった。
この笑顔の理由が、すこしはわかるのかなと思って、漫画を開いた。
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「どうだった?」
読み終えて顔をあげると、ソファに座っていたあいつは俺の顔をまたのぞきこむようにしてみた。
まさか俺が読んでいる間、そこでただ座って待ってたんじゃないかと焦ったが、どうやら母親がだしたお菓子を食べていたらしかった。
「かっこよかったでしょう?」
問われて、困った。
結果的に、読んでもあまりよくわからなかったのだ。
いつも俺がふだんからよんでる少年漫画とはあまりに話のスピードも展開もノリも違いすぎた。
話は主人公と主人公が好きな男の中学生から高校生までの間を描いたものだった。たしかにその男は努力家で、成績もスポーツもできた。スポーツ漫画みたいに水泳のシーンを多く取り入れていて、その男が大会で泳ぐのを主人公の女子が応援するシーンがあって、そのときの男はたしかにちょっとかっこよかったりもした。
でも主人公の女子がこのシーンで泣く理由とか、どうしてここで怒るんだろうとか、主人公の行動がはっきりいって小四の俺にはよくわからなかった。
人が何度も読むほどに好きなものを悪く言うのはいやだった。でもだからといって、良かったかといえば「よくわからなかった」しか言えないわけで。
結局。
「水泳って面白そうだな」
とだけ言って、本は返した。
俺の感想にも、あいつはすごく嬉しそうに笑ったから、これで良かったのかなと思った。
その翌朝、新聞の折り込み広告に、たまたま駅前のスイミングスクールのチラシが入ってた。手に取った瞬間目に入ったから、運命だと思った。
「……母さん」
「何?」
「これ、やってみたい」
「え、スイミング? あなたクロールと平泳ぎはお父さんに教えてもらってできるでしょ」
「ん……バタフライ」
「は?」
「バタフライできるようにならないと」
小四にもなると、みんな塾に行きだす。放課後に一緒に遊ぶ友達も減ってきたし、スイミング通ったら体力もつくだろうし。
あいつは、関係ない。
あの漫画も、関係ない。 ……泳げたら、かっこいいかなって、思いついた、だけだ。
そうして、幼稚園やら低学年からスタートすることの多いスイミングスクールを、俺は小4から始めることとなった。
ちょうど時期を同じくして、あの同じ漫画ばっかり読んでいたあいつは、塾の時間が増えて、うちにもこなくなったのだった。