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「遠野、もう少し気合いいれていけよ」

「――はい。アドバイスありがとうございました。失礼します」


 担任の教師に一礼してから進路相談室をでて廊下に立つと、むっと雨の匂いがした。

 試験中で早々に生徒が帰った後の人の気配のない廊下。その長く並ぶガラス窓はすべて閉められていた。

 進路相談室のエアコンのきいた部屋とは違い、閉め切った廊下は夏の雨の蒸し暑さで空気までじっとりと身体にまとわりついてくるような気がして、振り払うようにして俺は鞄を肩にかけなおす。


 超軽量フレームのはずが、眼鏡が重く感じる。一番上まで留めている夏の制服シャツの首回りがやけに苦しく感じる。水泳部員の宿命として、首から肩にかけての筋肉がごつくなるのは仕方がなかった。いくら筋肉がついても全体的には細マッチョにしかならない自分の体質は、ほんとうはあまり気に入っていない。

 

 首を軽く回してみると、凝っていたのをあらためて自覚する。


 ……当たり前か。部活に定期テスト勉強に模試の準備に……。

 

 脳内でため息と共に愚痴がでそうになって、あわてて思考を止める。

 俺はもう一度ため息をついてから廊下をゆっくりと歩きはじめた。


 その時、見下ろした窓ガラスの向こうに見知った人影をみつけた。雨降る運動場の隅を、校門にむかってすすむ姿。

 瞬間、肩こりやら、今しがた先生から指導を受けた志望大学に向けての勉強のアドバイスやら、いろいろもろもろが一気に頭から消え去った。


 ――……

 ――あいつ、もしかして、また。


 まったく違う苛立つような気持ちが胸にどくどくと湧いてきて。

 俺の足は自然と早くなっていた。




 ******




 試験中の下校時刻はとうに過ぎた学校の裏道に、見慣れた背中をみつけて、俺は自分の眉間に皺が寄るのがすごくわかった。


 ――やっぱり、篠原か。


 朝の登校時は曇り空だったが、今はもう雨。

 すべてが濡れて、夏のむっとした空気が雨とともに流れてしまっている。寒くはないが、決して暑くもない――そんな空気の中の、白いシャツの小さな背中。

 自分の紺色の傘の柄を握る手に、妙な力が加わった。


 昔、7,8年も前は、うちに来てたこともあった女子。お互い引っ越したわけでもないけれど、今はまったくうちに来ることもなくなった。

 あいつ。


 ――もう、やめとけって。


 そんな自分の心に浮かびあがる、もう一人の自分の言葉。

 なのに、俺の足はどんどんスピードアップする。

 たぶん、水しぶきがきっと制服ズボンにかかっているだろうと思う。けれど、止まらない。

 親に洗濯をあーだこーだ文句言われるとか、結局俺が自分で夜の内に洗って干さなきゃなんねぇだろうなとか、目の前の女のことを考えることそのものが面倒……とか、頭の半分で思ってるのに、俺の足はある一点目指して進んで行く。


 足が向かう対象物に近づくにつれて、俺の唇は固く結ばれていながら、心と頭の中は激しく饒舌になっていく。


 俺の眼鏡越しにある、雨の小さなしぶきの向こう側の女の後ろ姿。

 愛想のない黒ゴムひとつくくりの、染めた気配もしない真黒の髪。濡れて、まとめた髪先から滴が落ちて書道の毛筆みたいだよな、とか。

 濡れた背中、安易に下着のライン見せてんじゃねー、とか。ホックの位置、まるわかりで夏服ブラウスが白ってこと、わかってんのか、とか。いろいろ思う。

 可愛いと他校からも評判のはずのチェックの制服スカート、ふだんからひざ丈守って野暮ったいけど、さらに雨にどっぷりと濡れて重たく見えて、見苦しいんだよ、とか。

 肩にかけてる鞄も濡れて、そん中の教科書ノート全滅じゃねぇのか、とか。

 それとか、あれとか、これとか。


 そういう脳内ひっくるまえて、


「篠原さぁ、お前、なにやってんの」


という、この冷えた雨以上に冷たい声の響きになった。

 でも、その冷たさはすごく正しいことじゃないかと思ってる。

 すくなくとも俺の中では。


 ――やっぱり、おまえ、無防備すぎない?


 それが、結論。




 目の前で、水を含んで見るからに重たそうなスカートから伸びた白いふくらはぎが、雨の滴を幾筋も垂らしてる。

 その白い濡れた足が止まる。

 濡れた太筆みたいな黒髪が揺れる。肌にはりついて肌色が透けて見えそうな、すくなくとも下着の色が薄ピンクだってことは気付いてしまうような、そんな上半身がゆっくりと振り返る。

 濡れていつもより長くなったように見える前髪の、その下の黒い瞳がぱちぱちと瞬きする。

 その目をふちどるまつ毛にすら、滴がしたたって。


「遠野くん……」


 耳をすましてずっと聞いていたいような小さな鈴の音のような声がする。

 柔らかく姓を呼ぶのに、甘ったるくはない声。

 純粋に俺に背後から声をかけられたことに驚いたっていうような声色。


「傘もたずに、下校?おまえ、朝、傘もってなかったけ」


 俺の温度のない声は、眉間の皺とともに篠原だけに届けられる。


「ん、そうなんだけどね」


 あいまいな笑みを浮かべた濡れた顔は、白い。だけど思いのほか弧を描いた唇は艶やかで。

 俺が自分の傘をさしかけると、


「……ありがとう」


と、言って同じ傘の中に無邪気に並ぶ。見下ろす位置にある、濡れた肩。


「別に」


 声ぐらい冷えてなければ、俺が――溶ける。

 だから、見逃せないのが俺であって、篠原は俺の言葉も傘も必要としていないのであっても。

 冷えた声で話すことは、きっと正しい。

 俺のためにも、そして篠原にとっても。 



 学校の裏道は、まだテスト期間中の午前帰宅で生徒のほとんどが早々に帰ったせいで、人の気配がない。俺の篠原の水に濡れたアスファルトを進む足音だけがかろうじて人の気配だ。

 住宅街からすこし離れた茂みの多いこの道を、昼間とはいえ濡れた身体でたった一人で女子高生が帰るのは危険じゃないのか。篠原は全身濡れて、制服は透けて。


「おまえさ、いちおうそれでも女だし、濡れたまま歩くことにもう少し危険を感じろよ」

「そう? いちおう雨やむかなぁと待ってたんだけど、その気配もないから。……遠野くんは、遅いね。進路相談?」

「まぁ、そんなとこ」


 俺の声は逐一冷たく放たれる。

 『おまえ』呼ばわりする女とか、それは篠原だけだ。篠原だけに許されている。まぁ誰も気付いていないだろうけれど。

 校内で篠原に呼びかけることなんて、ない。クラスは文系の篠原と理系の俺では、教室のある校舎がそもそも別だし、部活動のしてない篠原と水泳部の俺とでは接点もない。

 ただ。


「ごめんね、私と家が近いばっかりに……相合傘になっちゃって」

「……別に」

「でも、傘、嬉しい。……あったかいね」


 ただ、小学校も登校班が同じで、中学も地区別グループを作れば必ず同じで、歩いて通える近所だがそれなりに人気の進学校の私立高に同じ中学から合格した――つまり、小・中・高校が同じように進んできた同学年。

 昔は、うちに来て遊んだりもした。

 篠原の家は親が共働きだ。そして家は裕福だけど、子供たちにはあまり関心がなくてお金だけを渡しておいておけばよいという家風の中、篠原のすこし年の離れた姉は中学生の時には外泊を繰り返していた。それもあって、篠原自身は小学生だというのに夜遅くまで家に一人だったことも多かったみたいだ。

 うちの母親は、そんな篠原をうちに呼んで一緒にお菓子作りをしたりして、夕飯を一緒に食べることもあった。

 高学年になると、篠原は放課後を塾と習い事で毎日埋めるようになり、うちにもこなくなった。

 だからいまや俺と親しいかというとそうでもない。

 でも濡れ鼠で帰っているところを見過ごすには……良心がとがめるからできない。


「それで話もどすけど。どうして朝、ぶらぶら手に持ってたはずの傘がないわけ」


 俺は追及する。

 答えはだいたい察しがつく。

 けれど、俺は篠原が言ってくれるのを――待っている。


 ――助けて。


 と。

 なのに、こいつの唇からこぼれた言葉に俺は、一瞬俺は息をつめる。


「だから、遠野くんと相合傘するため……って言ったの」

「……なんの冗談」


 篠原は肩を揺らした。濡れた肩を。華奢な。


「濡れた姿でひとり寂しく帰ってたら、幼馴染で優しい遠野くんなら声かけて相合傘してくれるかなぁって……」

「嘘つくな」


 俺の冷たい声のままの突っ込みに、篠原はちょっと肩をすくめる。


「やっぱり信じない?」

「当たり前だろ」


 篠原はびくっと揺れた。俺は自分の声がいつもより低くなっていると自覚した。

 気持ちを押さえて、声の調子を戻す。

 冷ややかな、何も気にしていないというような調子に。


「また、盗られたか」

「……ごめん」


 篠原の謝罪は、きっとさっき俺の質問をはぐらかそうとしたことへのもの。

 でも、俺は聞いてやらない。


「相変わらず、微妙にいたぶられてんだな」

「ん……どうなのかな」

「友達はいるだろ」

「まぁ、うん。だから学校生活の中ではそんなに困ったことはおきてないよ」


 『そんなに』ね。

 俺は微かに息をつく。


 篠原は微妙なポジションにいる。

 おとなしくて控えめといっちゃいいが、単に成績は良いけど、それ以外では地味で冴えない女子。

 篠原の文系のクラスは50名中たぶん過半数が女子だ。その中でのポジションとしては、文化祭で面倒な係をおしつけられ、掃除をさぼる子たちの代役に立てられてしまうくらいの場所。

 だかといって、普段ことさらに持ち物が荒らされるとか、お弁当も行動もたった一人になってしまうとか、修学旅行の自由行動で誰も一緒にまわる人がいないとか――そこまで孤独に追いやられているわけでもない。


 ただ、こういう午後からふりだした雨の時に、たとえ持ち手に名前を書いていたとしても勝手に持ち去られて使われてしまう傘のように、軽い扱われかたをしている。

 もちろん後日「ごめんね」と返されることもない。だがズタズタにされて焼却炉に放り込まれるほどではなく、微妙に薄汚れた形で、落し物箱に放り込まれているような――……そういう扱われ方。


 そういう篠原の立ち位置を思うと、俺は妙にいらいらしてくる。肩にかけた鞄の紐を持っていた手を放し、眼鏡のブリッジを少し押し上げた。

 そのとき篠原が俺の下からちょっとのぞき込むように見た。


「遠野くんって……」

「なんだよ」

「眼鏡好きにはたまらない、眼鏡男子だよね」

「……なにそれ」


 俺の眉間が盛大に山谷を作ったことを自覚した。


「理系で、成績よくて、サラサラの黒髪で、それで眉間にしわよせて怒った顔がよく似合ってるなんて、本当にマンガの出来上がったキャラみたい。それなのに、水泳部なんだよね。ちょっと意外」

「いろいろ並べてるわりに、褒められてる感じしねーな、それ」

「そう?」


 俺は大きく息をついた。

 篠原はつかみどころがない。

 だから、つかめないから、俺はそのままの勢いでたずねてた。


「……おまえ、昔、おんなじ少女漫画ばっかり読んでただろ」

「ん……あぁ、そうだね」

「まだ読んでんの?」


 俺の問いに篠原は考えるように首をかしげた。濡れた髪から滴が白い頬におちるのを俺は見ていた。


「えー……。ううん。読んでない。お姉ちゃんに貸したら、そのままどっかやられちゃって、そのまんま」

「ふぅん……。あの金髪のお姉さん元気にしてるのか」

「今は、黒髪に戻して、アメリカ留学してる。向こうでは、アジア顔は黒のお河童頭の方がモテるんだって」

「……相変わらず、いろいろ羽振りいいな」

「うん、うち、お金だけはねー……」


 そこまで言って、篠原は俺の方を見上げた。

 そして一度まばたきして、ふぅと小さく微笑んだ。


「そういえば、あの漫画のヒーローも眼鏡かけてたね。そんな眉間の皺は寄ってなかったけど」

「……しらねーよ、お前の好きな漫画の中身なんて」

「そっか。まぁでも、遠野くんは、そのままで、眼鏡男子でイイ感じだよ」


 眉間がぴくぴくする。

 いらいらする。

 何が「イイ感じ」なんだよ。


 篠原の無防備さは――どこか計算されているのではないかと、勘ぐりたくなる。

 真実のところどうだろうと勘ぐって、暴きたくなって、知りたくなって……追いかけると、たぶん、終わりなんだろうって思う。

 篠原の気持ちが俺に向いているとは到底思えない。それくらいは俺にもわかる。

 男に好意を向ける女の瞳は、きらきらしてる。少女漫画の絵までいったら気持ちわるいけど、でもあーいう風になんかラメでも振ったみたいな色してる、好きな奴相手限定で。

 同級のつきあっている奴らをみていればよくわかる。そういう好き好きフィルターは存在してて、篠原にそれを感じたことは、無い。

 

 だから、もし俺が……。

 万が一俺が。

 ありえないけど、ほんとうにあり得ないけど、俺が、何かを行動したとして。

 でも、それじゃ、罠にかかるように溶かされて『THE END』な気がする。

 ……そういう賭けには出たくない。

 肩にかけた鞄が重い。勉強も部活もある。引退はまだ先だ。


「受験――……大変、だよね」


 人ごとみたいに、篠原が言った。

 溶けるには……まだ早すぎる。

 俺に手に負えないことが――わかっている。


 もし篠原から「助けて」と請われるならば、腕を差し出せる――俺が傷つかずに、済むけれど。

 求められてもいないのに、手を伸ばして――そして一方的に溶かされて、溺れてしまって、いろんなものを棒にふるのは、嫌だ。

 そんな勇気は、ない。


 篠原は無防備。

 俺はズルイ。


 これで、いいんだ。たぶん。俺はヒーローになれるわけでもないし、ならないといけないわけでもないし。

 そもそも、ヒーローになるように、篠原から求められているわけではないし。

 ……『えー……。ううん。読んでない』

 そう、全部過去のことに消えていっているんだから。

 

 だから、俺は、踏み込まず、適度の距離を置いて、俺は俺の進路上にある積み木を必要以上に崩さずに歩いていくのがいいんだ。


 

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