15話
コツコツと靴を鳴らしながら歩く。どこまでも続く道は一向に先が見えない。それでも目の前の男は歩きを止めない。彼の歩いた道を続くように私も移動する。後ろ姿を眺める私は男の表情が分からない。初め前を歩くのは小さな少年だった。しかし少年は青年へと変わり大人になり、次には小さくなった背中であった。私は縮んだ背中を追うように肩に手を描けようとすれば男はとたんに崩れ落ちてそこにはまた新たに小さな背中が誕生する。髪色も雰囲気も違う男はまた一歩一歩先へと歩み出す。
不意に私は目の前の男の背中に声をかけた。しかしその者は立ち止まることも、振り替えることもしない。まるで初めから聞こえていないように。遠ざかっていく背中に私は虚しくなった。私は追いかけるのを止めたのだろうか。その事をぼんやり考える頃には私の周りは何も無くなっていた。男が歩いた足跡さえ消えていた。どうやら長い間ここに留まっていたようだ。とたんに急激な眠気が私を襲う。
空虚の空を眺めれば濁った色の雲が空を染めていく。彼の足元には場面を変えたように真っ赤な真朱色の血だまりで溢れていた。とたんに彼の纏う空気が急激に歪み始める。
『これが、同じ人のすることか……』
悲痛の叫び声だけがその空間に鳴り響く。途端に彼の周りが目まぐるしく変化していく。空間が捻れそれと同時に悲鳴がこだまする。彼は、両手に五つのタマを作り上げた。タマが彼の周りを囲うように浮揚する。
彼は吐き捨てるようにタマに語りかけるのだった。
『全てを、』
◇
彼女は目を覚ますと同時に飛び起きた。両手を顔に当て俯くと、僅かに見える唇は震え紫色へと変色していた。
「また……夢」
両手を払いのければそこから若葉のような翠と濃い空色の蒼を巧妙に混ぜ合わせたような美しい蒼翠が現れる。美しい瞳は吸い込まれるような錯覚さえ見せるが、今は揺れ怯えを強く浮き上がらせる。壁にかけてある時計を見れば針は早朝を指しているのだった。少し落ち着いた彼女はベッドから起き上がり部屋のカーテンを広げ差し込む朝日に目を細めた。プラチナブロンドの髪は朝日に照らされ光を反射するように輝く。彼女は寝間着から壁にかけてある無地のワンピースへと着替えた。
部屋を出た彼女は静寂した廊下を通り抜け建物の外へ足を向けた。建物の周りを囲むように生い茂る森へと足を踏み入れた。
暫く歩き木々の隙間から泉が見えてきた。目的地であるこの場所に辿り着けば彼女は腰を降ろし両手を伸ばした。冷たい水が指先に触れるがそのまま掬う形に持ち上げる。両手の隙間から溢れ落ちる水滴など気にせず彼女は何度か掬い気分の悪い寝汗を落とす。持参したタオルで拭えば先程より顔色が良くなった気がする。
そのまま泉の側で膝を抱えるように座れば視界を遮断するように顔を埋める。その姿はまるで自身を守るための盾にも見える。
訪れた時は八歳だったのに気が付けば十七歳、この土地で九年間過ごしたことになる。この泉は彼女がヴェザルアースの砦の中で唯一心安らかに出来る場所である。
日々過酷な試練を与えるかのようにそれは襲ってくる。目尻から溢れ落ちる涙が服に染みを落とす。止め処もなく溢れる涙は突如響き渡る鐘の音により中断する。反射的に涙の跡をタオルで拭い立ち上がれば来た道を逆送する。
行きよりも早くなる足取りは、見慣れた建物が近くなるにつれ緊張がはしる。速やかに建物へ入れば廊下を渡り自身の部屋へと急いだ。
角を曲がり漸く部屋へと辿り着こうとしたときだった。
『なにしてる。さっさと準備しろ』
怒鳴る声に肩を震わせた。目の前には薄紅色を纏った精霊が目を吊り上げ怒鳴り付けたのだった。
「ごめんなさい。すぐに準備します」
逃げ込むように部屋へと入り机に置いてある箱へと手を取る。箱には簡易的だが化粧品が揃えてありその一つを手に取れば瞼の下へと滑らす。鏡に写る自身の姿を確認し部屋を出れば、廊下には先程の精霊がいる。精霊は部屋から出てきた彼女の姿を一瞥すればさっさと歩き出すのを追うように彼女も後ろを着いていく。
長い廊下を渡り一枚の扉の前で立ち止まれば彼女に朝食を済ませてこいと言ってその場から消え去るのだった。扉を開けばテーブルには一人分の朝食が用意されていた。
傍にあるティーカップを慣れた手つきでカップに注ぎ一口つけば、ほんのり渋味のある紅茶が口の中で充満する。そのまま手元の温かいパンを食べやすい大きさにちぎり小さな口へと運ぶ。ここに来て以来一人で食べる食事は味気なく、苦痛であった。
それだけではない。この屋敷内で人の姿を一度も見かけたことがないのだ。料理、風呂や洗濯掃除など彼女の身の回りは気が付いたら全て用意されているのであった。 それに屋敷内の管理が行き渡っている所を見れば人が行き来しているはずなのだが、一向に目の前に姿を見せない。それなのに常に何処かから視線を感じ、監視されているように思う。
その息の詰まる気味の悪さは何年経っても馴れない。
朝食を胃袋へと無理矢理詰め込み紅茶を一口飲めば、今日行う修行を考えるとより気分が下落していく。
そろそろ時間だと椅子から立ち上がれば、丁度扉の手前に彼の気配を察知する。
『行くぞ』
命令口調は感情を映さない冷たいものだ。しかしこれが彼の普通なのだと九年の付き合いの仲で理解したことだった。屋敷内で彼女の九年間を知るのはこの無愛想の薄紅色の精霊だけだ。逆に言えば、彼としか関わっていないことになる。
彼の後を着いていけば、ガラス張りの天上の大きな部屋へと辿り着いた。天上には赤色の玉が吊るされ、ガラス越しに太陽の光を浴び部屋全体に反射させる。中央、つまり赤色の玉の真下にはアーチ状に連鎖した台座が鎮座している。その台座の上に置かれている大きな水晶球は所々にヒビが入り色もくすんでいる。
部屋へと足を進めれば彼女の跡を辿るように文字の序列が床全体に浮き上がってくる。初めてここに来たときはかなり驚いたが今では見慣れた光景へと変化する。
今日の修行はこれなのかと水晶球を前にして思わず固唾を呑む。
背後から威圧がひしひしと伝わってくる。さっさとやれと言うように彼の威圧が強くなる。一度深く深呼吸し、目の前の水晶球に手を伸ばした。伸ばした直後に床の文字が足元を伝い上がってくる。両腕全体に文字がまとわり付くがそのままに両手の先、水晶球に神経を集中させる。
徐々にじわじわと滲み出るそれに呼応するように水晶球に変化が訪れる。 湧き出る赤色の光が指先を通して水晶球へと吸収され、パキパキと音をたてて水晶球のヒビが時間をかけて塞がっていく。
時折来る激痛に顔をしかめるが決して水晶球から手を離さない。
そのままどれくらい時間が経ったのだろうか。この行為は彼の一言で突然終わる。
『止め』
彼の指示に反射的に手を離せば途端に疲労感が襲ってくる。そのまま床に倒れるように手を付けば、いつの間にか両腕の文字が消えていた。
『いつにも増して脆いな。続きはまた明日だ』
冷徹な瞳が上から見下ろすかと思えば興味を失ったように彼女を視界から外した。
薄紅色の精霊が居なくなり力なく天上を眺める。天上に吊るされた赤色の玉が力を振り注いだ後の残像を残すように淡く発光する。
彼女はふらふらな状態で立ち上がり扉のドアノブを回し廊下へと出る。ガラス張りの部屋は彼女が扉を閉めたとたん、天上の赤色の玉が光るのを止める。それとは裏腹に水晶球から赤色の光を発光する。その光はガラス張りの天上を通り越し空へと伸びていく。どこまでも天に伸びる光はある一定の場所で空と中和していくかのように薄れていく。水晶球の光が途絶えたと思えばガラス張りの部屋の床に変化が起きる。部屋全体に広がる文字は所々消えかけている。しかし消えかけた文字の一部が赤色に光り、上からなぞるように文字が上書きしていく。光が止めば先程の箇所がしっかりと浮き彫りになっていた。次には天上に釣らされる赤色の玉が部屋全体を照らす。天上から降り注ぐ赤色の光に反応して浮き彫りの文字が床へと浸透していけば何事も無かったかのように最初の空間へと早変わりしたのだった。
部屋に灯る小さな光を彼女は呆然と見つめ、ヴェルメリオと弱々しく赤色の精霊の名を口にする。
彼女の部屋の机には本が何冊か置かれ、古びた本を手に取りページを捲る。
クレイアン王国は遥か昔から人と精霊が共存する。精霊は母となる存在の元産まれ、人間界と精霊界を好きなように行き来することができる。
元々は別々の存在が何故干渉することになったかはこの国が今とは違い緑は枯れ荒れはてていた時だった。クレイアン王国の幼き王が避けることの出来ぬ戦に苦しみ悲しんでいるところを一人の精霊が声を掛けたのだ。
人の王となる者よ、何故泣く。
その言葉と共に全てが始まった。精霊が加護した王は戦を止め、様々な綻びを正し国のために全てを望んだ。その姿からいつしか賢王と崇められた。精霊が人へ加護を与えたことを知った他の精霊達は次第に無関心だった人へ興味を持ちはじめだした。それと同時に緑が戻り今の国の姿へと変化した。
精霊は多大な力を持ち、人の性質を見抜く力がある。そして自身の気に入った存在を見つければ多大な加護を与える。
人は加護を求め、では精霊は何を人に求めるのか。
そうこの本には書かれているし吟遊詩人達も同じ話を語り継いでいる。幼い頃にお母様にねだったのもこの話だった。
指で本の文字をなぞりながら私がこの土地、ヴェザルアースの砦に初めて舞い降りた時の事を思い出す。あれはゲートを渡り月夜の光が私を照らし出す。足元には役目を終えたゲートの名残がキラキラと散りばめる。不謹慎にも美しさに見惚れ興奮が冷めぬなか隣にいたノワールはゲートが消え行くのを見届けた後に別方向へと目を向けた。
『また厄介事を……』
苛立ちを含んだ声の先には薄紅色の纏った精霊が睨み付けるようにこちらを見ている。
『久々だな』
ノワールの声かけを無視して薄紅色の精霊が鋭い眼光を向けながら彼女の真ん前へと詰め寄った。薄紅色の瞳が彼女を選別するように動かしたのちに、すうっと目を細めた。その瞳に僅かに身震いするが薄紅色の瞳は彼女から彼へと視線を移していたため気付いてない。
『彼女に教育も兼ねて能力の使い方を覚えさせたい』
『この私に頼むとはよほど切羽詰まった状況みたいだな』
『お前もかねがね気付いているだろう』
黙り混んだ薄紅色の精霊もだが気づいているとは何のことかと二色の精霊達のやりとりを彼女は黙って見守る。
神妙な面立ちの二色だったが、薄紅色の精霊が大きくかぶりを振る。それを確認したノワールは彼女へと向き合った。
『その前に、我々精霊についてどこまど認知しているか知りたい』
「私の知るなかでは遥か昔から人と精霊は共存していたと。クレイアン国の始まりは、国の危機に精霊が人の王に加護を与えたことから始まったと。それを期に多々の精霊が人に加護を与え国の名前を新たに変えたと『違う』え、」
『初代クレイアン王国の王は五色の精霊と契約したのちに多大なる加護を授かった。ここは合っている。しかしここだけだ。
それから王は国土を五つに分け、それぞれの土地を我等に与えれば我等はその土地を拠点に五色の原色を混ぜ合わせ混合色を作り出していった』
ノワールの口から出たのは衝撃的な内容であった。そもそも彼女が母親から聞かされていた話と彼の話しではこれまでの常識を覆す程の違いだった。混合色の精霊達は彼等が作り出したのだと。
『しかし今その均衡が崩れかかっている』
黒色の瞳が彼女を捕らえる。
『薄々気付いているだろうが原色には黒、青、白、緑……そして赤だ。つまりヴェルメリオだ』
実は前半のとこ三人の語りになってます。
あと主人公の名前を彼女と表しているのは意味があります。




