016 「君に旅に出てほしいんだ」
エルザがその話を聞いたのは、父王であるエドワードが十二連合国会議へ出向く数時間前のことだった。昼食の後は、エルザの大好きな剣術の鍛練から始まるため、あわよくばその鍛錬でで自分の雄姿を見せようと、彼女はちょうどシンを探していたところだった。
そんな最中、王命を受けた女使用人に捕まりエドワードの自室へと引っ張り込まれる。ゆえに彼女の機嫌は、それはもう最悪であった。
「……何の用なのよ? 父さん」
冷ややかな、視線だけで相手を射殺せそうな怒気を含む碧眼に睨まれ、どすの利いた声でそう問いかけられて、エドワードは情けなくも今すぐここから逃げたくなった。
「お、落ち着きなさい……エルザ。今日は大事な話があってね、呼び出したんだよ」
「大事な、話?」
エルザの眉間にしわが寄る。僅かに細まった視線が、くだらねえ話だったら承知しねえぞ、と言っているような気がして、エドワードは思わず数分間現実逃避した。
エドワードの自室は二部屋が連結している大部屋で、一つは細々とした政務を行う事務用。もう一つは寝台や洗面所などを内設した私用である。
今二人がいるのはそのうちの事務用の部屋だ。執務机はがっしりと重厚ではあるが派手さのない作りで、椅子は上質な布地のクッション性の高いもの。絨毯は臙脂色で渋くきまっていて、部屋の奥には開放感のある綺麗に磨かれた窓とバルコニーが見えた。
本日目を通すべき書類だろうか、紙がインクや羽ペン、印などと共に綺麗に整頓されて机の片隅に並んでいる。
「エルザにとっても悪くない話だよ」
「……その、話って?」
悪くない、と言われ、渋々ではあるものの、用件を聞く気になったエルザが、執務机の向こうに腰掛けているエドワードから視線を逸らさずに先を促した。仕事用の部屋だけあって必要最低限の物しか置いていないため、ここには来客用の椅子はない。エルザは未だ扉の前に立ちっぱなしだった。
「今日は十二連合の会議があるわよね。そのことと何か関係でもあるの?」
そう問いかけつつ彼女が部屋の奥へと踏み込んでくる。王は苦笑を深めた。
「さすがだね、エルザ――実は今、世界で少し困ったことが起こっているようでね」
エドワードの言葉にエルザが小さくため息をつく。
「厄介事?」
「まあ、そうだね」
「嫌よ。面倒だわ」
「ははっ、すまないね。だがエルザ、お前は絶対に無関係ではいられない話だ」
エドワードのその言葉で、瞬時にエルザは、これが始まりの魔女がらみであることを悟った。
長い話になることを見越して彼女は机の前まで歩みを進めると、脇に積み上がっていた父の読みかけの本数冊に目をやる。
「なるべく早く済ませてよ? せっかくの鍛練の時間が短くなるから」
「ああ、分かってる」
悪いね、とエドワードが笑えば、エルザは少しむくれたように頬を膨らませた。
――刹那。
何か重たい物が風を切る音がした。
いつの間にか、隅に積んであったはずの本たちが彼女の手元におさまっている。
「ほう」
思わずエドワードの口から感嘆の吐息が漏れた。風魔法か、と彼は続いてつぶやく。一瞬何の魔法を使われたのか分からないほどの、魔法の発動スピードの速さだった。いつの間にか浮かんでいた小さな陣が、揺らめいて消える。
彼女は手の中に納まった本を宙に浮かべていた。ちょうどエルザの腰ほどに静止したそれらは、落ちることも揺れることもなく、まるで壁に釘で打ちつけられた棚のように微動だにしない。
(風魔法と、重力魔法。性質の違う二種類の魔法をこうも簡単に使い分けるか……)
性質の違う魔法の連続使用は、非常に難しい。
(……これも、始まりの魔女の力か……)
エルザがひょっこり本の上に座ったのをぼんやり眺めつつ、エドワードは驚嘆した。
(自分も魔法使いの端くれであるから、なおさらね。こういう時は心底娘の力が羨ましく感じられるよ)
父親という立場でありながら、どこか彼女の力を欲している自分がいる。まして何のしがらみもない赤の他人なら、より一層喉から手が出るほど欲しいだろう。これだからこそ大賢者は、それこそ永遠に人を魅了してやまない存在であり、同時に永久に狙われる対象でもあるのだ。
――西の大国の始まりの魔女と、北の大国の楽園の魔法使い。さて、私の選択は吉と出るか、凶と出るか。
(楽しみだ――)
「父さん?」
訝しげなエルザの声に、エドワードはようやく我に返った。
背にした大きな窓の向こうから、階下のキッチンで午後のスイーツの焼ける甘酸っぱい香りが漂ってきている。今日はおそらくレモンパイだろう。ベージュの壁に掛かった時計は、14時まであと20分を切ったところを指していた。
「悪い、悪い――さて、重要な話があると言ったね。単刀直入に言わせてもらうとしよう」
「どうぞ」
「実はエルザ、君に旅に出てほしいんだ」
この数秒後。エルザの怒号が王宮中に響きわたる――。