014 不気味な場所にはたいてい烏がいたりして、残飯を漁っているものである。
(闇市ねえ……)
コロシアムを離れ、商通りにやって来たルーグは僅かに後ろを振り返った。ノヴァたちが見えないのを確認してから、彼は小さく息を吐く。
ノヴァの言葉が耳の奥で反響する。
『俺は、こういう裏の事情には鋭いつもりだ。……お前の仕事、詳しいことは分かんねえが、何かヤベえ匂いがプンプンする』
彼がそこまで言うなら、本当に闇市が絡んでいるのかもしれない。ルーグは漠然とそう思った。
ノヴァがどういう経緯で西の大国に来たのか、何者なのか聞いたことはなかったが、こういうときの彼の勘がよく当たるのは、この2年で嫌というほど理解している。
(でも悪いな、ノヴァ。俺にはどうしても金がいるんだ)
――最愛の妹のために。
ルーグは自身の、太い頑丈そうな首に巻きつく羽のネックレスを指に絡めた。
四方から客引きの声が上がっていた。
アクト市は坂の多い街である。この通りも坂に沿うように店が連なっていて、そろそろ夜を迎える支度としてか、あちこちで店先にランプを吊るす姿が見える。今はまだ明るいが、夜の暗闇の中、ランプの灯火が坂下まで一直線に並ぶ様はとても神秘的で美しい。
あと数時間もすれば日が落ち、夕食の時間になるため、暗くなる前に買い物をしておこうと集まる人々の熱気がむわっと沸く。薄青色の肩に担いだ槍の柄に右手首を引っ掛けて、ルーグはぼんやりと威勢の良い商人たちの姿を眺めつつ歩みを進めた。
「ルーグ様ですね」
人混みを縫うようにして歩いていれば、そこでふと、ルーグは背後から声をかけられた。
ちらりと視線だけ送ると、全身黒づくめのひょろりと背の高い男が、ルーグの歩調に合わせるようにしてついて来ている。今時見ない広縁のシルクハットを目深にかぶり、もうすぐ夏を迎えるこの暖かい気候にロングコートを纏った姿は、華やかな商通りでは浮いて見えた。しかし、不思議と通りを行く人は誰もこの男に注意を向けたりしない。
「アンタは?」
「今回、ルーグ様に用心棒の仕事を依頼していた、ハインリヒ家の執事にございます。マッドとお呼び下さい」
「分かった」
ルーグは視線を再び前方に戻して小さく頷いた。マッドが感謝の意を示すようにゆっくり頭を下げたのが気配でわかる。
「依頼の件で少々お話しておきたいことがございます。お時間よろしいでしょうか?」
今度はルーグは何も言わない。マッドはそれを肯定ととらえてこちらへ、と彼を促した。
ルーグが連れてこられたのはそこから数歩先に行ったところの路地だった。
路地の中は陽光が遮られてほの暗い。ここを吹き抜ける風は通りにいた頃の暖かみのある柔らかい風と異なり、どこか冷たく肌を撫で、少々薄ら寒くもあった。壁沿いに無造作に置かれたごみ箱で黒光りする鴉どもが残飯を漁っていて、つんと刺激臭が鼻を刺す。
(あんまり長居していて気持ちのいい場所じゃないな)
ルーグがため息をつくと、振り返ったマッドが彼の心を読んだかのように口を開いた。
「申し訳ありません。本来なら屋敷にお呼びしてお話しすることなのですが、何分急な要件でして」
「別に俺は構わないぜ。それに、こんな人気のないところで話をしなきゃなんねえ理由も承知してるつもりだ。……アンタのご主人様の命を狙う奴が、どこに潜んでるか分からねえもんな。で、依頼の件で話って何だ?」
「お心遣い、痛み入ります。話自体は大したことありません。実は、仕事の開始日を当初の予定より早めていただきたいのです」
「日を早める?」
「初めに依頼したときは一週間後から、と申し上げましたが主の都合上、今日から3日後にお願いしたく」
マッドが僅かに顔を上げる。シルクハットから覗いた片眼鏡が怪しく煌めいた。
「早まってくれる分には俺の側としてもありがたい。第一、前金も貰っちまってるから依頼にどんな変更があろうときっちりやるさ」
ルーグは執事の目をしっかり見据えてそう返す。
「では、3日後。主の屋敷にて」
「ああ」
話は以上だというように、マッドは帽子のつばを右手でつまんで軽く会釈する。来た道を辿って雑踏に潜り込もうとする男の背中を目で追っていれば、ルーグの頭に再びノヴァの言葉が突き刺さった。
『……さっき受けたって言ってた用心棒の仕事』
――闇市がらみじゃねえよな?
マッドの背中に、ルーグはたまらず声をかける。
「おい!! 俺もお前に聞きてえことがあるッ」
マッドが足を止めた。振り返りはしなかったが、構わずルーグは問いかけようとして、そしてハッと口を閉ざす。
(……俺は今、何を聞こうとした?)
「何か?」
怪訝そうな声音に反応して視線を上げれば、肩ごしにこちらを見やるマッドの瞳とかち合った。
「い、いや……仕事を終えれば、残りの金も支払ってくれるんだな?」
「もちろんです。報酬は金貨で、きっちり手渡しでお支払いします」
「…………」
「聞きたいこととは以上ですか? では私はこれで」
今度こそマッドは人ごみに分け入って立ち去る。残されたルーグはギリッ、と唇を噛みしめた。
(馬鹿か、俺は!! 何を聞こうとしてるんだよ…………どんな手を使っても、たとえ闇市に出入りすることになっても、金は手に入れなきゃなんねえんだ! ……そうだろう?)
しかしそう問いかけても答えを返してくれる者など彼は知らなかった。