表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第一話 紅い街 3


 部屋中に飛び散った鮮やかな赤は、まだ血が吹き出て間もなく、酸化が始まっていないことを示していた。

 空気に触れた血は酸化し、すぐに黒ずんだ色になる、はずだ。いや、本当のところはよく知らないのだけれども、推理小説か何かで読んだような気がするかもしれない知識では、確かそんな感じなのだ。なのでこの死体は生まれてまだ間もないのだと小春は考える。

 はて、小鳥と夕食に出かけて、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 世界は相も変わらず夕日に紅く照らされている。

 なので、今この時間でも、実のところ全く時間が経っていないのだとも言える。

 ならば小鳥と出会い、高層ビルの最上階のレストランへ向かい、夕食を済ませて、小鳥の部屋まで戻ってきた、その間の時間はどこに消えてしまったのだろう。――と思ったりもするのだが、覚えている以上はその時間はどこにも消えて居らず、小春の中に残っているのだった。

 ならば食事の時間とこの死体が出来た時間は、また別の問題というやつなのだろう。

 分けて――もしくは除外して考えるべきなのだ。

 しかしどうしても除外できない問題は、いくつか残る。

 この死体が果たして、いつどのようにして出来上がったのか、だ。

 小鳥に連れてこられて入った部屋で遭遇した死体であるからには、これがようするに小鳥の恋人であるという認識で、おそらく合っているのだろう。死体が発生したのは、どうせまた些細な喧嘩なんかをして『別れよう』とか思ってしまったからに決まっていて、小鳥にとって恋人との別れはすなわち死別であるから、その結果としての死体であるという事実は、前項でも示した通りである。けれどもその結果現れた死体が、いわゆる『他殺体』であるとは、これはどういう意味を示しているのか。小春の知る限り、小鳥が恋人と死別したことは数知れずあれども、今まで一度足りとて『他殺体』として現れたことはなかった。と思う。忘れているだけではないことを祈りたい。しかし、今回に限っては、今目撃している通り、誰かに殺された状態でこの死体は存在する。だからこそ小鳥は小春に相談しようと思ったのだろう。この死体をどうするべきか、迷ったのだろう。


 単なる病死体とは違い、他殺体の存在は非常に多くの問題を孕む。

 この場合の一番の問題は『いったい誰が小鳥の恋人を殺したのか』ということだろう。

 明らかに自身ではない他者により殺された遺体。

 この部屋は小鳥の部屋である。

 遺体が放置されている現状からすると、第一発見者は小鳥で、小鳥はまだどこにもその事実を通報していない。

 小鳥は小春にどうしようかと相談しに来た。

 どうしようかって、何をどうするというのか。

 遺体をどう処理するか、迷っているってことか。

 背後に立つ小鳥を見る。

 小鳥は感情の抜け落ちた表情で真っ直ぐに死体に目をやっていた。

 状況からして、目の前に提示された解答に、安易に飛びつくとなると、言葉は簡単に零れ落ちてくる。


「小鳥がやったんですか?」


 なるべく強弱を付けずに、平坦に聞こえるように、感情を含まないように訊いてみる。

 訊くまでもない事のようにも感じる。先ほどレストランでも話題にしたように、小鳥は別れを選択する度に恋人を殺している。しかしそれは、現実に自らの手を下したという意味ではない。

 小鳥は我に返ったようにはっと顔を上げ、激しく首を左右に振り回した。

 それはいつもお姉さんぶって小春に対してくる小鳥にしては、やけに余裕がない感じで、幼く見えて、だから小春には、非常に素の態度であるように思えた。


 どうやら違うようだった。


 小鳥がそういうのだから、友人としてはそれを信じるのに吝かではない。

 そもそも小鳥が『自分が殺したのではない』と認識しているからこそ、小春がその言葉を信じることができているのである。

 例えば小鳥が嘘をついていて、本当は『自分が殺した』と認識していて、それを誤魔化しているのならば、いくら小鳥が誤魔化そうとも世界は真実を隠したりはしない。世界が真実を知っているのならば、きっと小春はそれを読み取ることが出来て、自ずとそのように自らの思考を誘導するだろうと思うのだ。ゆえに、小鳥の言葉を素直に信じていられる現状は、すなわち小鳥の言葉が事実であるという証なのである。


 ――まあ、一人の人間にとっての事実が、他者にとっては事実と反することはままあることだけれども。


 独りごちてしまった思考のつぶやきは、世界を余計にややこしくしてしまう反証だった。

 事実誤認なんて、どこにでも当たり前のようにあることだし、小鳥が心底自らの言葉を信じていたとしても、自分自身を騙せるほどの演技力があればそれも意味がないし。しかしそんなことまで疑ってしまえば、世界のどこにも真実どころか事実さえも存在しなくなってしまう。ある意味、世界の否定にも繋がる思考だと感じられ、その先に思考を推し進めることに若干の恐怖にもにた感覚が沸いて出てくる。適当なところで思考をカットアウトしてしまうべきだ。

 ようするに、小鳥の言葉を事実だと仮定し、それを元に行動しろと。

 それが、いるかもいないかもわからない真犯人という名の他者の事実と反するとしても。


「……だったら、真犯人は誰なのでしょう?」


 小鳥の部屋で死んだ小鳥の恋人。どう見ても他殺体。

 状況はどこをどうとっても小鳥が犯人であることを示している、ように思う。


「……じ、自殺ってことは?」


 恐る恐る提案する小鳥に視線を向け、小春は再びゆっくりと部屋の中心に倒れる他殺体に視線を戻す。

 血溜まりに部屋のあちらこちらに飛び散った血。部屋の中は乱雑に乱れ、ものが至る所に散らばっている。

 一見して争った痕のように見えて、おそらくその通りの状況なのだろう。

 とても自殺痕には見えない。

 無言で小鳥に視線を戻すと、小鳥は小さく肩を竦めた。


「……ないよね」

「ええ……でも、他に犯人がいるんでしたら……」


 犯人は当然、自分が犯人であることを知られたくないわけで、そして小鳥の部屋に他殺体があることを知っている。

 ならば、ここに死体があることを適当な理由を付けて警察とかに通報しているかもしれない。

 例えば、男女の喧嘩している声が聞こえて、男の悲鳴が聞こえたとか何とか。

 世界は夕方から動いていないから、まだちょっと時間はあるだろうけれども、今よりももっと夕日が深くなってくると、警察とかがやってくるかもしれない。

 そう思い立ったのが果たしていけなかったのか。

 タイミングを測ったかのように玄関側から来客を告げるチャイムが鳴り響いた。

 小春も小鳥もびくりとして硬直する。

 何かの聞き間違いじゃないかと、思ったわけではなかったが、何も反応できずに固まっていると、焦れたようにチャイムが再び鳴らされた。

 それと同時にドアをノックする音。

 二度、三度、重ねるように力強く。

 そしてドアの向こうから大きな声が響いてくる。


「警察だっ! 開けなさい!」


 小鳥の顔が蒼白に変化する。口をぱくぱくと開閉を繰り返し、ただ焦ったように玄関へと指を差す。

 小春は少し考え込むように腕を組む。

 さて、どうしようか。

 ここがポイントだ。上手く切り抜ければ状況は改善するし、切り抜けられなければ破滅する。

 考えている間にも、チャイムは鳴らされ、ドアは叩かれる。

 猶予はない。

 右往左往する小鳥は、焦りの表情のまま、ドアホンの通話ボタンを押そうとする。

 その手を押さえて、小春は代わりに通話ボタンを押した。


「警察ですか?」

『そうだ! 警察だ!』


 ドアホンのスピーカーから、少し篭もった声が聞こえてくる。

 小春は首を傾げて、冷静に問い返した。


「それはおかしいです。警察とは組織の名称ですが、それを名乗るあなたは個人だと思われます。警察はかなり巨大な組織だと思われるので、それが個人で成り立つとは考えられません。だから個人でしかないあなたは、警察ではありえません」


 スピーカーの向こうから、一拍の沈黙があった。

 捻れた思考。狂った論理。屁理屈でも理屈。

 色々と枝葉を無視し、連想や代替を禁じた文章で、穴だらけだけれども、小春は嘘はついていない。

 その嘘をついていないという小春の核心が、世界に静かに作用する。


『おおっ! 確かに本当だっ! 個人である私は警察ではないっ!』


 どうやら上手く納得してくれたらしい。

 この機を逃さず畳み掛けなくてはと思い、小春は小鳥の手を引いて、玄関のドアを開く。

 玄関先には、警察ではないどこかの男が立っていた。

 警察ではないために、もちろん警察的ではない用事があって小鳥を尋ねたのだろう。尋ねてきたのか、迎えに来たのか。連れ去りに来たのか。その状況はたぶん変わらない。けれども印象はまるで違う事象を、選択する。


「変な冗談を言ってないで早くこの子を引き取って下さい。ほら小鳥。彼氏が迎えに来てくれましたよ」


 小鳥の手を引いて背中を押す。小鳥はたららを踏みながら玄関から通路へと出て行く。

 小鳥がどんな表情をしているのかは、背中からは見えない。けれどもやけに弾んだ声で、そのまま男に向かって抱きついていった。


「ああダーリン! 待ってたわ!」


 男もしっかりと小鳥を抱きしめる。


「おおハニー! 寂しかったかい?」


 つまり男は小鳥の恋人で、デートのために小鳥を迎えに来たのだ。夕日は間もなく落ちて、夜の時間が始まる。若い二人の恋人は、これから深夜まで遊ぶのだ。ひょっとすると夜通しかも。

 こうして小鳥の中からは、すでに以前の恋人たちのことは消えている。小鳥にとっての恋人はここにいる、抱きついている男だけ。小鳥は真っ直ぐに、一人の男だけを見ている。


「では小鳥、デートをがんばってください」


 ぐっとサムズアップすると、小鳥は振り向いた。喜色満面に浮かべて、眩しいほどだった。


「小春も色々と相談に乗ってもらってありがとね! がんばるわ!」


 おおぅ。相談に乗ってあげたことは覚えているのか。

 小鳥の中ではどんな相談でどんな解決をしたことになっているのか。なかなかに興味のある事柄だったが、小鳥の内面世界のことは目で見えるようなものではないので小春には知るよしもない。

 追い出すように小鳥と男を玄関の外に追いやりドアを閉める。


 そして振り向いた。


 部屋の中の死体。

 小鳥の恋人は先ほどの男になったので、この死体は小鳥の恋人じゃない。

 では何かと問えば、ただの赤の他人である。赤の他人だから、もうこれ以上小鳥がこの死体に関わることはないだろう。小鳥は恋人とともに、夜へと向かう街へと消えていった。だからもう二度とここへは戻らないだろう。今目の前にいる男だけを見て、過去は振り返らない。小鳥はそんな女の子だ。

 死体が小鳥の恋人じゃなくなっても、死体は消えない。消えることはない。

 人々の認識が変化して、経緯を観察していた小春自身にも、もうそれが小鳥の恋人だとは思えない。

 じゃあ一体、何なのだ。

 マンションの一室で死体と二人きり。

 そして小春の手には、凶器らしき果物ナイフ。


「さて、どうしましょう」


 まるで小春が犯人であるかのような状況に、三秒ほど考えた。

 まずその辺にある布で、ナイフの血糊を綺麗に拭き取った。

 部屋のドアを開けて、玄関のドアも開けて、閉まらないように固定して、マンションの通路へ出て、そこから倒れた男の死体が見えることを確認すると、とりあえず携帯電話を取り出した。

 軽やかに緊急通報。


「あ、もしもし、警察ですか? 今、友達のマンションに遊びに来たんですけど、ふと開けっ放しのドアを覗いたら、中に死体のような物が見えるんです。ちょっと、見に来てくれません? え、場所ですか? 場所は…………」


 嘘ではない。

 表札には誰の名前も書いていない(というか読めない)のでここは友達である小鳥の部屋ではないという認識も、ありだろう。


 うん、これでもう、この死体は誰とも無関係だ。

 誰に殺されたとか、どうして死んだのかとか、小春には関係ない。

 ひょっとしたら本当に何かの弾みで小鳥が殺してしまい、自分で警察に通報して、その記憶を何らかの形で喪失してしまったのかもしれない。けれども小春には関係ない。この事件は迷宮入りになるのかもしれないし、適当な犯人がどこかで何らかの形で捕まるのかもしれない。凶器の刃物が見つからないかもしれないけれども、それはきっと犯人が持ち去ってしまったからで、犯人ではない小春が持つ果物ナイフとの関連性はどこにもない。

 少し迷って、果物ナイフを鞄に仕舞う。


「さてと、兄を捜しに行きましょう」


 ともあれしばらくはこの辺りに近づかないようにしておこう。

 こっそりと決意して、小春はエレベーターホールへと歩いて行った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ