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第一話 紅い街 1

 世界を覆い尽くすかのような赤い夕日に包まれた街を、一人の少女が歩いていた。

 紺のブレザーに赤と緑のチェックのフレアスカート。一見どこかの学校の制服のようにも見えるが、明るいスカートの柄はやや派手さを主張していて、フォーマルなのかカジュアルなのか、見る者の判断を少し混乱させている。薄手のショルダーバッグを肩から提げて、ゆっくりと周りを確かめるように街を行く。

 人通りの絶えない商店街。混雑しているわけではないが、閑散としているわけでもない。適度な人の波が、ゆったりと流れている。

 不意に甘い香りがどこからか漂ってきて、少女は足を止めた。

 どろっとした、粘性を感じさせるような甘い匂い。甘さが空気を侵蝕して、その場にいるだけでべた付きそうな、そんな錯覚に襲われて少女は逃げようとする。

 背を向ける一瞬前、視界の隅に映ったのはリンゴ飴の屋台。

 小さなリンゴを、赤い赤い食紅たっぷりの砂糖で固めた、屋台定番のお菓子だった。

 砂糖はリンゴが逃げ出さないように包み込んでいる。

 逃げながら少女は呟いた。「今日もいない――」と。

 呟きながら、考える。きっと、探し人であるところの彼は、赤い色が嫌いだったから、たぶんおそらく、赤い色が漂うここにはいないだろう、と。

 ならば赤から逃れて別の色を探しに行くべきだ。

 彼の色ははたして何色だったろうか。

 たぶん青。

 青か蒼。

 ひょっとすると碧かもしれない。

 まあそんな色の近くに行けば、きっとたぶん見つかるのだろう。

 けれども同じような色の集まる場所では、彼の姿はたぶん紛れてしまって見えにくくなる、ような気がする。なんとなく。

 記憶は常にぼんやりとして、雲のように曖昧に漂っている。

 触れるだけで散り散りになりそうな記憶を構成する粒子一つ一つを集めて形にするのは、一苦労なんてものじゃない。もっと明確な加重の掛かった、苦役とも呼べるほどの労働だった。

 探している――その目的を核にして、少女は自分の名前を意識する。

 小春という名前はその少女の名だけれども、少女は姓を持っていなかった。

 小春はただ、小春という単一の自己のみによって存在していて、その所属する由縁を持っていなかった。

 昔はそんなことはなかった。

 今はもう思い出せないけれども、某家の小春さんといった感じに、確かに何かしらの姓を持っていた。

 ――はずだ。

 どうしても思い出せないから、以前は姓があったと言われても、まったく持って実感がわかず、首を傾げてしまう。

 しかし、小春は別に木の股から生まれて来たわけではない。

 この世に産まれてきたからには、母がいて、父がいたはずである。

 それならばきっとどこかの家族において娘として存在していたはずで、すなわちそれは〝姓〟を持っていたということなのである。どこかの家族に所属していたことを示す〝姓〟を持っていたはずなのだった。

 けれども思い出せない。

 小春は小春であり、それ以外の存在ではないし、小春という個以外の何かに属しているものではない。

 だから小春に家族はいなくて、ゆえに小春には所属を示す姓がない。

 小春は自身以外のどこにも所属していない。

 だからこそ姓がない存在であるところの『小春』なのであった。

 しかしそもそもなぜそんなことになっているのかと小春は自問する。

 昔はそんなことはなかった。

 小春は再び思う。

 昔という時期がはたしてどれくらいの昔を指しているのかは、わからないし思い出せない。

 何年も前のような気もするし、ほんの数日前のような気もする。

 ずっと一人で街を彷徨っていたような気もするし、以前は普通の家庭で、普通に過ごしていたようにも思う。普通ということが、一体どういうことなのか、やはり全くもって理解はしていないのだけれども。

 変わってしまったのが世界か自分かという問いには、両方だと小春は応える。

 小春という、姓を持たない個としての自分になったのは、小春自身のせいだけれども、そうなることを許したのは、世界自体に原因があるのだろう。

 どちらが先かと問われれば、答えは明白だ。

 世界が、先なのだ。

 ある日ある時ある瞬間、世界は唐突に変わってしまった。

 ほとんどの人は世界が変わってしまったことに気付かず過ごしているけれども、小春を含むごく少数の人々は、気付いて世界から零れ落ちていった。

 切っ掛けが何だったのか、小春は思い出そうとする。

 赤い、赤い色が見える。

 それが夕焼けだったのか、リンゴだったのか、わからない。

 ぼんやりと思考を踊らせて、街を眺め見る。

 アーケード街の天井から、赤いポスターが夕日に照らされて赤く染まっていた。

 あのポスターは誰が描いたのだろう。

 特に興味もないことを意味もなく考えていると、ぼんやりと頭の中にポスターのイラストを描く絵描きの姿が浮かんできた。


「今日はお兄さんと一緒じゃないのかい?」


 それはあの時の言葉。

 小春が気付き、世界から零れ落ちる切っ掛けとなった言葉。

 アーケード街を離れて、立ち並ぶビルの谷間にぽっかりと空いたような緑豊かな公園の外れ。木々の間にひっそりと、その絵描きは座って、立てかけたキャンパスに何かを描いていた。

 小春は訝しそうに絵描きを見返した。

 その絵描きは、知り合いではなかったが、どこかで見覚えがあるような気がした。


「……お兄さん?」


 首を傾げながら言葉を返すと、絵描きは面白そうに口元を歪めて言葉を注ぎ足した。


「そうだよ。いつも週末になると二人で遊びに来て、僕の絵を見ていくだろう?」


 そう言われると何となくそんな気がしてきた。

 兄と二人で絵描きの描く絵を見ていた。週末になるといつも。

 そんな共通認識が生まれて、それは事実として過去の一点に刻み込まれる。

 けれどもそれだけでは過去は確定されない。轟々と流れる膨大な情報の波に、簡単に押し流されて消えてしまう。そのままだったならば。


「ええと、君は、なんて言ったかな?」


 ――確か、聞いたような気がしたんだが、と絵描きはつぶやいた。


「……小春。小春です」


 自分の名前を問われたと思った小春は、反射的に名乗る。

 絵描きは少し驚いたように小春を見て、すぐにうなずいた。


「なるほど。それで、お兄さんの名前はなんだったかな?」


 問われて、首を傾げる。

 思い出せない。

 兄の名前は失われている。

 失われているが故に兄と一緒にいないのか、一緒にいないからこそ名前を思い出せないのか。

 兄と一緒に絵描きの絵を見たという記憶は、何となく手繰り寄せることができるのだけれども、その記憶は霞のようにもやっと曖昧だ。

 曖昧だけれども、その過去は事実のように思う。

 名前を名乗ったからだ。

 小春は名乗ることによって、過去の一点に楔を打ち込んだ。

 小春と名乗る少女が兄と一緒に絵描きの絵を見たという、いつかの過去は、ここで確定された。

 絵描きと小春が居る場に於いて、その過去は真実となる。

 けれども、もう一人の登場人物であるはずの兄の名前はこの時点で不定である。

 確定されない登場人物によって、その過去の存在は不安定なままだ。

 不安定な状態でいるのは、非常に気持ち悪いことだ。

 足下のぐらつく岩の上に立って、ずっとバランスを取り続けているような危うさを感じる。このままでいれば、非常に危険な崩壊に巻き込まれてしまいそうな不安がここにはあった。

 それを解消するには、兄を見つけて安定を欠いたこの場所を確固たるものにしなくては。

 そう思い、兄を捜すことにした。

 けれどもその前に、少しでも情報を確定させるべく、小春は絵描きに問いかけた。


「ところで絵描きさん。あなたのお名前は何ですか?」


 少しでも答えを引き出しやすいように、ややわざとらしいくらいの可愛さを全面に押し出して尋ねてみた。

 それが失敗だったのだろうか。

 絵描きは少し格好つけるように胸を張って、敢然と言い放ったのだった。


「私はただのしがない絵描きである。それ以上でもそれ以下でもないさ!」


 そうして絵描きの名前は確定されず、仕方なしに小春は『小春と名乗る少女が兄と共に絵描きの絵を見た』という過去情報だけを頼りに、兄を捜すことになったのだった。

 もうそうしてどれくらいの時間が経ったのだろう。

 ずいぶんと長い間捜しているような気がするので、きっと一〇〇〇〇年くらいは経ったのだろう。しかし少し考えればそんな感覚は間違いだと思い直す。人間そんなに長く生きられないので、精々捜していたとしても数十年程度だろう。七年行方がわからなければ法的には死亡と見なされるので、七年以下だとは思う。というかそもそも、日は夕日のままいつまでも変化していないので、きっと一晩も経っていないのだろう。つまり、よくわからないのだ。

 主観の時間では気の遠くなるような永い年月が過ぎたようにも思うけれども、それにしては世界は何も変わっていないように思う。

 客観の時間では、まさか一晩ってことはないだろうけれどもやはりそれほど時間は経っていないのだろう。

 ともあれ、小春は兄を捜し続けた。

 時々出会う小鳥とか、知り合いに尋ねても、兄の行方はわからなかった。

 というより、尋ねるまでは小春に兄がいたことすら忘れていたくらいだった。

 小春は小鳥に、行方知れずの思い出せない兄がどういう存在だったのか、得々と語った。

 思い出せない存在を思い出せないままに語った為に、どのように語ったのかは忘れてしまった。

 たぶん、その場合の語る行為を、本当は騙るというのだと思うけれども、忘れてしまったことに責任を持つことは難しい。騙られた小鳥も何を騙られたのか覚えていないだろうから、結局のところ被害者はいない為にその騙りと語りはどちらでも同じことのように思える。

 ともあれ、熱意を持って語った結果、小鳥は小春の兄の存在を納得した。

 思い出せないでも、その存在を納得した。それどころか。「私にも兄がいたような気がする」などと曰い始めた。

 あまりにも小春が思い出せない兄の存在を丁寧に語ったがために、自分にも実在しない兄という存在が実在するような気分になったのだろう。親友である小春の問題を、まるで自分のことのように考えようとしたことも災いしたのかもしれない。小春と小鳥。名前が似ていることもまた、原因のひとつだろう。

 小春は小鳥を安心させるようににっこりと笑って断言した。


「大丈夫。小鳥、それは気のせいです。小鳥もあたしの兄を実の兄のように慕っていたからそう錯覚したのですよ」


 小鳥もまた、ほっと息をついた。


「うん、そうよね。気のせいよね? 私には兄なんていないわ。小春のお兄さん、今どこにいるのかしらね?」

「そっか、小鳥も知らないですか」


 それほど期待していなかったため、落胆はなかった。

 情報を得たら教えてくれるように頼んで、小春は兄を捜し続けた。

 知り合いの誰に訊いても、兄の行方はわからなかった。

 絵描きには度々会ったが、どの絵描きもあれ以来兄の姿を見てはいないようだった。

 そもそも絵描きにとっての兄は、小春とセットなのだ。小春と一緒にいない兄を見ても、絵描きはきっとそれと気付かないだろう。絵描きが兄を、兄自身として認識してくれていたら話は早かったのに。

 絵描きは街のどこにでも居る。

 街の真ん中の公園なんかには、いつ行っても誰かしら、絵描きは絵を描いている。

 絵描きの人数は、小春単体よりも遙かに多く存在している。この街に何人の絵描きがいるのか、小春は知らないけれどもきっと数十人はいるのだろう。それだけの人数が一斉に兄捜しを手伝ってくれたなら、とても簡単に兄は見つかると思う。

 あの時明確に、絵描き個人の名前を訊かなくてよかったと小春は思った。

 おかげで絵描きネットワークという情報網を手に入れることができた。

 この街にいる絵描きにとって、小春とは『兄を捜している少女』という存在なのだ。もし絵描きの誰かが『小春という妹を持つ兄』と出会えば、たちどころにそれはすべての絵描きにとって既知となり、そのタイミングで小春が話しかければ、きっとその情報を教えてくれるだろう。

 難点があるとすれば、絵描きは兄個人を認識していない。

 小春という妹を持つ兄などという、限定的な情報を持った存在と絵描きが遭遇する可能性なんて、そんなに多くない。


「やあ、小春くん、お兄さんは見つかったかね?」

「やっほー、小春ちゃん! お兄さんと会えた?」

「よっ、小春じゃないか! 兄貴はどうしてる?」

「でゅふふっ、小春氏、兄君とはエンカウント出来たかい?」


 色々な絵描きと出会ったけれども、いつも初めの言葉はそんな感じ。

 絵描きたちにとって小春とは、兄を捜す少女として存在を固定されいて、それは実際に小春と兄が出会い、二人で共に絵描きと遭遇するまで解除はされない。

 街中の絵描きが延々とそんなことを常変わらず訊いてくるので、そろそろ鬱陶しくなってきた。

 それに、ひょっとしたらと考える事もある。

 絵描きたちにとって、小春は『兄を捜す少女』であり、小春が小春である限り、それは変わらないのではないか?

 つまり、いくら絵描きに兄の行方を尋ねたとしても、小春が兄を見つける――つまり、捜すのを止めてしまえば、絵描きたちにとって小春は小春でなくなってしまうのだ。だから、小春が小春として絵描きに尋ねる以上、絵描きたちからは兄の行方に関する情報を手に入れることはできない。

 八方塞がりだった。

 最も、その理屈が正しいかどうかなんて、この世界のどこにも保証なんてありはしないのだけれども。

 今日も変わらない。

 小春は絵描きに兄の行方を尋ねて、絵描きは何も手がかりを返してこない。

 いい加減にしてほしい。

 誰が?

 どっちが?

 ともあれ、いい加減に兄を見つけなくては。


 ――でも、どうやって?




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