9 葛藤
国王を見送った王妃と侍女は、手を取り合ってその場にへなへなと座り込んだ。
「驚いた。ほんっとうに驚いたね」
「ううう、リュシエンヌ様。もうこんなのは御免です。
当分おとなしくしていてくださいね。
それから、余計なことはしゃべっちゃだめですよ」
「わかった。ごめん……」
厩舎でラウルに出会ったリゼットは、とにもかくにも慌てて逃げ出した。
自分を呼ぶ声を背に受けながら、人ごみで巻いて、すぐに部屋に戻った。
それが良かった。
窓から室内に戻ると、真っ青な顔をしたユリアがもうすぐラウルが来ると告げたのだ。
大急ぎで着替えて化粧をし、鬘をかぶった。
髪の話をされたときには、何か見抜かれたかと焦った。
「でもラウル様、何しに来たんだろうね」
「そうですねぇ」
あの、人当たりはいいが嘘くさい笑みを浮かべる宰相にでも言われて来たのかもしれない、とリゼットは思う。
そうでなければ、昨夜も来て花も届いたのに、またお茶を飲みになんて来るだろうか。
ラウルに比べ、ティエリーはユリアを通して何かとリゼットを気遣う様子を見せる。
しかし、手放しに信用されているわけでもなさそうだ。
城を抜け出すようになる前、日中あまりにも手持無沙汰で、この国のことを知りたいから専門の教師をつけてくれてないかと頼んだことがある。
ふさわしい人材を探します、と言われて数か月たつ。
「あ、花束のお礼を言うのを忘れた」
「お手紙でも書かれますか?
ラウル様はいつもお名前のカードしか添えてませんでしたから、礼状までは出していませんでしたけど」
「そうだね。……ふぅ、書くか」
ユリア経由で、部屋付きの侍女に透かし入りのきれいな便箋を用意してもらう。
昨夜のように夜のお勤めのある日はいろいろな侍女がやってきて用意をしてくれるが、それ以外はユリア一人でリゼットの身の回りの世話をしている。
かといって全くオーレリアの侍女を寄せ付けないわけにもいかず、必要最小限の侍女は隣室に控えさせていた。
心根の良い侍女たちは、王妃に用事を言いつけられるのを楽しみにしており、しかもそれが王への手紙と知って大いに喜んだ。
いくら対外的には仲睦まじく見せていても、来訪の回数で侍女には主たちの関係はうすうす感じるものがある。
どうもまだあまりしっくりとはいっていないようだと思っていたところに、昨夜に引き続き昼間の訪問、そして王妃からの手紙と知って、侍女たちはいろめきたった。
「便箋一枚に、大騒ぎになっていましたわ」
「なんか、悪いことしちゃったかな」
「楽しそうにしてましたから、いいんじゃありませんか。
不仲説でも流されたら、リシャール様にご心配をおかけしますもの」
「そうだね」
ユリアから受け取った便箋に、リゼットは出来る限り丁寧に文字を綴っていく。
時候の挨拶、花束のお礼、お茶を一緒にできて嬉しかったこと……。
「嬉しかった、かな?」
嬉しいというより驚いた。
彼が来たことにまず驚いたし、口調こそ乱暴だったが目を見て話してくれたことに驚いた。
動揺していたせいかもしれないが、時おり彼から向けられていた、胸を突き刺すような憎しみも感じなかった。
「嬉しくなくてもそう書くものでございます」
「そっか。次はもっとごゆっくり、とか書いたら嫌味になる?」
「どうでしょうねぇ。ゆっくりされても困りますけど」
「ふふ、そうだね。じゃぁ、嬉しかった、だけにする。
よし、できた。これお願いね」
「はい」
インクを乾かして封筒に入れたものを、ユリアに預ける。
ユリアは部屋付きの侍女を呼んで渡し、侍女はそれを恭しく受け取ると、天鵞絨のクッションに乗せて運んで行った。
「あーぁ。
しばらく出かけられないとなると、またあの退屈な日々だね」
「刺繍の練習、なさったらどうです?」
「う……」
「リュシエンヌ様のご趣味は読書と裁縫。
読書は読んでるふりでごまかせますけど、お裁縫ばかりはものが残らないとだめですよ」
「ユリアが作ってくれればいいよ」
「そんなことおっしゃるからいつまでも上手くならないんです。
はい、針と糸どうぞ」
「あぁ、もう……」
その日から、王と王妃の関係は少し変わった。
夜の営みが月一回であることに変わりはなかったが、それまで別々だった食事を共にとるようになったり、ごくたまにではあるが手紙のやりとりがされるようになったりした。
「少し安心しましたよ」
王妃への返事をしたためて小者に渡すラウルを見ながら、ティエリーは口の端を上げる。
「王妃は美しい文字を書きますね」
「そうだな」
無造作に置いてあった手紙には、昨日読み終えたという本の感想が書かれていた。
ラウルは手紙を引き出しにしまい、親友の頭を通り越して壁に掛けられた剣を見やる。
「おまえは憎くはないのか」
「え?」
「デナーシェに、恨みはないのか」
「ラウル……」
ティエリーも母を幼い頃に亡くし、鍛冶師の父親も生死は不明だ。
「俺は、だめだ。
必死に生きて、国を作って、俺たちが安心して暮らせる場所を見つけた。
俺たちを捨てた領主に仕返しをして、同じようなムカつく貴族も蹴散らした。
狼藉を働くような輩はこの国には入れないようにしたし、がんばるやつはどんどん取り立てた。
でもまだ夢を見るんだ。
あの、村が焼かれた夜の夢を。
そして、デナーシェの高い城壁の前で息を引き取ったおばぁの夢を」
「……」
「俺の復讐はまだ続いてる。
おまえには言わなかったが、和平のためなんていって、俺は王妃を娶って苦しめてやろうと思ってたんだ」
「わかってましたよ」
「何?」
椅子に深く腰掛け、苦しそうに眉を寄せるラウルをじっと見つめ、ティエリーは深い溜息をついた。
「だから、あなたにそんな器用なことはできないって言ったんです。
一体何年つきあってると思ってるんです?
デナーシェの王女を側において、相手が逃げられないのをいいことにねちねちとやろうとしたんでしょ?
それで、すっきりしましたか?」
「いや……」
「でしょうねぇ。
それ、私ならできますけどね、情の深いあなたには無理ですよ。
大方、憎みたい気持ちはあれど、彼女自身に罪はないことに考えが至って、苦しんでるんじゃないですか」
人生のほとんどを共に過ごしてきた幼馴染に胸の内を言い当てられたラウルは、ぐうの音も出ない。
「私、知ってるんですよ。
毎月王妃の元を訪れた後、彼女が眠るまで扉の外にいるでしょう。
初日こそ逃げるように執務室に来たらしいですが、それ以降は王妃が泣いていないか確かめてから仕事に戻ってる」
「侍女頭か」
「情報源はいろいろですよ。
ただ、情報をくれる者に共通しているのは、あなたを心配しているということです。
夜、うなされているようですね。
過去の夢を見ることによって、自分で憎しみを忘れないようにしているんじゃないですか」
「そうなの、かな」
ラウルの視線が、また古い剣へと移る。
それに気付いたティエリーは、壁から剣をとると無造作に腰に穿いた。
「私の打った剣があなたを縛る楔になっているというのなら、しばらくこれは預かります。
強い感情がこの国を作る原動力になったのは間違いないですが、そろそろあなた自身の幸せを見つけてもいいころだ」
「俺の幸せ……」
男の胸をよぎったのは、栗色の面影。
天使の森で出会ったとき、一瞬だけすべてを忘れて笑った。
先日の再会のときには、会話もできずただ追いかけただけだったのに、己の気持ちを変え、その後の王妃との関係を変えた。
「私に憎しみはないのかと聞きましたが、そりゃぁないと言ったら嘘になります。
親しい人をたくさん亡くしましたからね。
あのとき、デナーシェが手助けしてくれていたら、どれだけの命が救われたか。
でもいつまでも憎んでいても前には進めません。
許す、ということも大切なんです」
「だけどそう簡単には忘れられない」
「忘れるのではなくて“許す”んですって。
戦争に直接関わっていない者をいつまでも憎んでいても仕方ないでしょう。
過去を許し未来を慈しむ。
それを教えてくれたのはアディです。
彼女が預かっている子どもたちの中には、敵対した国の子どももいますからね」
「あの子どもたちは、敵国の子といっても俺たちと同じ被害者だろう」
「では、開戦時に三歳、終戦時であってもたぶん十八の第一王女に、戦争に関わる発言権があったとでも?
和平のために会ったこともない男に嫁がされ、たった一人の侍女だけ連れて、頼りになるはずの夫に冷たくあしらわれる彼女が被害者でないと?」
「それは……」
「和平の調印のとき、もっと高額の賠償金と、こちらに有利な商取引の条約を記した案もあったでしょう。
それをわざわざ苦労するような真似をして……。
憎しみの連鎖を作るようなことはやめなさい。
あなたが王妃と仲良くすることで、民の手本となるのです。
“許す”ことを行動で示して、民を安心させてやるんですよ」
「あの王妃相手にか」
「自分で選んだんでしょ」
「目的が、違う」
「そんなこと言ったって、結婚してしまったんだから仕方ないじゃないですか。
気が済んだから、はい、やり直し、とはいかないんですよ。
王妃様がだめなら子どもだけでも愛せばいい。
あなたと王妃との子どもなら、これ以上ない和平の象徴になりますよ」
「子どもか」
その子どもを愛せる自信がない。
ティエリーに言われた諸々が、どうにも消化できずに、ラウルは頭を抱える。
「まぁ、あの王妃もやけに完璧で大人し過ぎますけどね。
少々気になることもあるので、様子を見てはいます。
とはいえ、侍女たちの評判はすこぶるいいですし、対外的にもおおむね好感をもたれています。
とても、賢い方ですよ」
「そうだな。俺の王妃としてはできすぎている」
しかし面白味はない。
「お互いのことを、先入観なしに考えてみたらいいんです。
どうです、そろそろ夏がきますから、一緒に避暑にでも出かけたら」
内陸にあるオーレリアの夏は厳しい。
北の山奥に、以前この地を治めていた領主が建てた別荘地があり、去年、一昨年とラウルやティエリーも訪れていた。
「その時期は灌水工事の大詰めだろう」
「ですから全部は無理でも後半だけでも一緒に」
「二、三日でいいのか」
「最低でも一週間はいってらっしゃい。
それくらいの休みはあげられますよ」
一週間。
そんなに長く?
城と違い、さほど大きくはない別荘では、否が応にも顔を合わせることになる。
これまで憎むべき相手として接するか、極力関わらないようにするかしていたのに、いきなりそんなに長い間一緒にいられるものなのだろうか。
「おまえも行くか?」
「二人して城を空けるわけにはいきませんよ。
あなたの後に、家族水入らずで出かけさせてもらいますから、がんばってくださいね」
「はぁ」
有能な宰相の頭の中では、すでに日程や人数配分の調整が出来始めているようだ。
ここはあきらめて王妃と向き合ってみるか。
心を決めたラウルは、決裁を終えた書類をティエリーに渡して、次の仕事にとりかかる。
眉間のしわが少々浅くなった親友に薄く微笑んで、ティエリーは王妃の私室に向かうべく執務室を出た。
「避暑、ですか」
用件を告げた宰相に、王妃の侍女は様子を伺うような視線を向ける。
「えぇ。オーレリアの夏はたいへん厳しいので、毎年一か月ほど北の別荘に行っているんです」
「陛下もご一緒に?」
刺繍をしていた手をとめて、直接問うてきたのは王妃だ。
「はい。全日程は無理ですが、後半合流なさいます」
王妃と侍女は顔を見合わせる。
「いかがですか?」
「もちろん、喜んで」
こうして、結婚後初めての旅行が決まった。