8 突然の再会
王妃の元へ行く日は、侍医に相談して決めている。
月一回。
それ以上通うつもりはなかった。
今日も執務室でむなしい朝を迎えた。
机の上に山になった書類は、一向に減る気配がない。
うんざりした男は、急ぎの報告書だけに目を通し、気晴らしに散歩にでかけた。
ティエリーは少しでも時間があれば王妃をお茶に誘えとうるさいが、数時間前に行ったばかりだし、貴重な休憩を重苦しい空気でつぶす気にはなれない。
公式の場では王と王妃として過ごしたが、それ以外は努めていないものと思うことにしていた。
「王様ってのも、面倒なもんだね……」
城の者たちが働く姿を眺めながら、ぶらぶらと歩く。
昔はもっと自由だった。
毎日の食事にも事欠く日々だったが、仲間がいて、家族がいた。
このまま王妃の元に通えば、そのうち子どもができるだろう。
俺は、その子を愛せるのだろうか。
憎まずに、いられるのだろうか……。
目的もなく歩いていたラウルだったが、馬の手入れでもしてやろうと思いついて厩舎に向かうことにした。
すると、ラウルが覗いたのとは反対側の戸口のほうに、見慣れない人影があった。
特に珍しくもない、一般的な衣服。
皮のベルトで留められた細い腰。
ふわりと揺れる、栗色の髪。
男にとって特別な馬に、親しげに話しかけるあれは。
「おまえ……ふわふわ?」
はじかれたように振り向いた顔は、女性らしい丸みをおび、男物を着ていてももはや性別を間違えることはなかった。
「うちの国に来ていたのか。
あの時は本当に助かった……おい!?」
懐かしさに近づこうとしたが、ふわふわの子ども、いや少女はびくっと肩を震わせたかと思うと、身をひるがえして厩舎を飛び出してしまった。
「ちょっと待て! おい!!」
慌てて追いかける。
少女は迷いなく厩舎から通用門に向かう道を進み、納品を終えた商人たちの列をかきわけ、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
「王だ!」
「ラウル様!」
「ラウル様!」
ラウルはといえば、民に好かれるというのはいいことなのだが、こちらもあっという間に人々と彼を守ろうとする兵に囲まれて、まったく身動きがとれなくなってしまった。
「いや、ちょっと待て、おい!
そこの! 止まれ!!」
名前を聞かなかったことをこれほど悔いたことはない。
自分を取り囲むのが兵や民では、張り倒して追いかけるわけにもいかない。
ラウルは、ふわふわの少女が消えた方向にただ声を張り上げるしかできなかった。
「あなたね、私がさんざん休憩する暇があったら王妃に会えというのを無視しておいて、城下で何やらかしてんですか」
「好きでやらかしたわけじゃねぇよ」
「黙りなさい!」
「だいたいあなたはね……」
執務室に戻り、ティエリーの小言を右から左に聞き流して、ラウルは消えた少女のことを考えていた。
いつオーレリアに来たのだろうか。
デナーシェの民が自国から出るのは珍しい。
王妃との婚姻から、少しずつ両国の交流が始まっているから、来たとすれば最近か。
オーレリアの民の中には、デナーシェに恨みを持つものも少なからずいる。
嫌な思いをしていないといいが。
「ラーウル! 聞いてんのか、てめぇ!」
自分の王妃に対する態度は棚に上げて少女を心配していたラウルの耳を、ティエリーがひっぱった。
「痛ってぇな。
わかったよ、ちょいと王妃の顔でも見てくるよ」
本性を見せて怒鳴るティエリーを置いて、ラウルは王妃のいる東の宮へつながる渡り廊下を歩く。
途中会った侍女にこれから王妃の部屋を訪ねる旨を伝えると、めったにない昼間の訪問に慌てふためいて、急に周囲がばたばたし始めた。
「ラウル様、リュシエンヌ様はご準備にもうしばらく時間がかかります。
たいへん申し訳ありませんが、しばしお待ちください」
王妃の部屋の前に着くと、デナーシェからついてきた侍女――ユリアとかいう――が扉の前で頭を下げて待っていた。
そういえば、日中の王妃は何をしているのだろう。
自分の思いにばかり囚われて、妻とした女性のことを何も知らないことに気付く。
何を好んで何を厭うのか。
夜の寝室と公の場でしか会ったことのない彼女は、常に受け身で誰に対してもやわらかな態度で接し、己を出すようなことはなかった。
だから、王妃の個人的嗜好など、ラウルが知る機会はなかった。
いや、知ろうとすらしなかった。
王妃のことを考えると辛い過去ばかりが思い出されるので、あえて考えないようにしていたのもある。
彼女はこの半年、何を思い、何をして過ごしてきたのだろうか。
王妃の私室の簡易な応接室で待っていると、さほど経たずに彼女が現れた。
「お待たせして申し訳ありません、ラウル様」
背筋を正し、扇で口元を隠してしずしずと歩み寄る妻を、ラウルは改めて見やる。
複雑な形に結い上げられた黒い髪。
顔の横に一房だけ降ろして、肩から前に垂らしている。
濃い化粧に彩られた榛色の瞳は、確かデナーシェの若き王も同じ色だった。
リュシエンヌ。デナーシェの第一王女。
年は二十二だったか。
濃い化粧は好きではない。化粧を落とせばもう少し若くみえそうだが……。
「あの……ラウル様……?
ご用件はなんですの?」
ラウルに無遠慮に見つめられ、居心地悪そうに王妃は言う。
口元を扇で隠しているため、くぐもったような声だ。
そういえば、あの子どもの瞳も茶色っぽくはなかったかと、ふとラウルは思い出す。
今日みかけた、あのふわふわ……。
俺の顔をみて一目散に逃げ出した。
人違いだったのだろうか。
いや、そんなことはない。
なぜだろう。
礼を言おうと思っただけだった。
以前、最後に見た微笑み。
もう一度見たいと思った。
そう、俺は会いたかったんだ、あいつに……。
「用がなければ来てはいかんのか」
「いえ……そんなことはありません」
ラウルのぶっきらぼうなもの言いに、王妃の顔がこわばる。
いつまでも立っていられても落ち着かないので、ラウルが彼女に座るよう促したところに、侍女がお茶を運んできた。
一口飲んで、自分がいつも飲んでいるお茶と同じ味だな、と当たり前のことを思う。
「……デナーシェの民は、皆お前のような髪をしているのか。
そうでない者のほうが多いのか」
とりあえず何か話を、と思ったラウルは、目に留まったことを話題にした。
リュシエンヌはまっすぐな黒髪。
あの少女はふわふわとした栗色の髪をしていた。
お茶のカップを手に取ろうとしていた王妃は、珍しくがちゃりと音を立てて取り落とし、少量こぼれたお茶を慌てて手巾で拭いた。
気付いた侍女が、火傷の有無を確かめてお茶を淹れなおす。
改めて自分の前に置かれたカップをつかむ指は細く白く、よく手入れされた爪は桜色をしていた。
「髪は、私のようにまっすぐなほうが珍しいですわ。
兄は深いこげ茶色で、くせっ毛です。
妹は……」
「ラウル様、お茶のおかわりはいかがですか」
王妃の周囲を片づけ終わった侍女が、ラウルにお茶を勧めてきた。
カップの中には、まだ半分ほど残っている。
さして喉が渇いていたわけでもないし、そう長居をするつもりもなかった。
おかわりを辞し、別にラウルからわざわざ告げる必要のない今後の行事予定などを話して、席を立った。
「邪魔をした」
見送る王妃に背を向けて、扉を閉める。
会話ははずまなかったが、不思議とラウルの心は凪いでいた。
あんなにも憎くて仕方がなかったデナーシェの王族を前に、公用ではなく素の自分で冷静に話ができた。
口調がともなわないのは、まだ仕方のないところだろう。
あの少女のおかげか?
昼間の突然の出会いが、自分の心に何らかの影響を及ぼしている気がする。
女性らしく成長していたふわふわの面影が胸をよぎる。
また会いたい。そう思いながら、ラウルは仕事を再開すべく執務室へと戻った。