4 追憶
和平の調印から二年。
男は、馬上にいた。
「あぁ、面倒くせぇ」
何度目だろう。またつぶやいてしまった。
今日はデナーシェからの花嫁を迎えに行く日だった。
この俺に花嫁だと。はっ、ちゃんちゃらおかしいな。
オーレリア国王、ラウル=オーレリアは、馬を走らせデナーシェとの国境に向かう。
そこでデナーシェからの警備兵とオーレリアからの警備兵で引継ぎが行われ、王女は侍女一人だけを連れてオーレリアに嫁いでくることになっている。
本当なら、ラウルも仰々しい馬車に乗って王女を迎えに来るのが礼儀だったが、そんな面倒なことはしたくないと、騎馬で駆けてきた。
「あれから、もう十七年か……」
五人の男に村を焼かれたラウルたちは、ここを立て直すのはもう無理だと判断して、村を捨てることにした。
村を出て、初めに頼ったのは税を納めていた領主の元だった。
ラウルとティエリーが先頭に立ち、村人を引き連れてようやくたどり着いた館は、もぬけの殻だった。
荒らされた室内。
ところどころ焦げた跡がある。ここも焼かれたのだろう。
不安におびえながらも、村人同士で肩を寄せ合って領主の館で一晩明かした。
朝になり、長老を中心に、これからどうするか話し合った。
大陸全土に広がりつつある戦争。
どこまで行っても同じような状況だろう。
それならいっそ、大陸の北にある、永世中立国デナーシェに助けを求めてはどうか。
皆の意見が一致した。
デナーシェは遠かった。
途中の被害の少ない村々で、労働と引き換えに小さな子どもを預かってもらうこともあった。
どの村も男手は少なかったから、ラウルやティエリーは歓迎された。
村でしていたように、柵を補強したり井戸を直したりした。
ティエリーの鍛冶技術は、どこでも重宝された。
立ち寄った村で強く引き留められたこともあったが、たいていは若い衆だけで、故郷の村人全部を引き受けてくれるところはなかった。
オーレリア村の人々は、デナーシェを目指す。
野宿をすることも多かった。
山の中で力尽きた年寄りは、仕方なくその場に埋めた。
村を出て数年がたち、ラウルは傭兵、ティエリーは商人の真似事をして、人々の生活を支えた。
その頃には、一緒に来る村人もずいぶん少なくなっていた。
旅の間に、アディが子どもを産んだ。
ティエリーの子だという。
『おまえらいつのまに?』
『いや、まぁ、なんというか……』
『うふん、ティルったら照れちゃって』
ティエリーは母子をどこか安全なところに落ち着かせようと思ったが、アディは絶対についていくと言って譲らなかった。
彼女は持ち前の気の強さで、誰に頼ることなく赤子を守りきった。
結果的に、デナーシェはオーレリア村の人々を受け入れなかった。
ラウルは、あのときの悔しさをいまでも忘れられない。
固く閉ざされた門。
同じようにデナーシェを頼ってきた人々で、城下町を取り囲む高い塀の周りは埋め尽くされていた。
『おばぁ、ごめん……』
『いいんだよ、ラウル。
ここに来るって目的があったから、わしらは今まで生きてこれた。
もうおまえも自由におなり。
わしらの面倒をみることはないんじゃ』
デナーシェの塀際で、むしろを敷いて過ごして5日目。
ラウルの祖母は、息を引き取った。
彼は誓った。
絶対この国を見返してやる。
自分たちの都合で戦争を起こし、俺たちを、村人をこんな目にあわせた奴らに復讐してやる……!
ラウルはティエリーと相談して、村からついてきた比較的年長の子どもたちと、デナーシェの城壁前で会った有志で傭兵団を作った。
団長はラウルで、武器の調達や渉外などの細々したことはティエリーが受け持った。
アディは食料や生活物資などのまとめ役を担当した。
三人で力を合わせて、ひたすら生きるために戦った。
『ラウル。
一介の傭兵団としてまとまるには、この団は大きくなりすぎました。
国を作りましょう』
金銭の交渉をする際、若いと馬鹿にされるといって、いつのまにかティエリーはそんな話し方をするようになった。
眼鏡をかけ、落ち着いた物腰で話すティエリーは、年齢不詳でとても胡散臭い感じがする。
ある日、ラウルが冗談交じりにそう指摘したら、親友はこう言った。
『あなただって、あのかわいかった面影は全然ありませんよ。
まったく、こんな筋肉ばかりついて。
少しは頭の中も鍛えなさいね』
『うるせぇよ』
戦争のごたごたで、国の名乗りをあげるのは簡単だった。
国の名前はオーレリア。
故郷の村の名前だった。
どこかの国が放棄した城を根城にして、周辺の国を攻めていく。
少しずつ大きくなっていった国には、助けを求める人々が集まるようになった。
ラウルたちは、その人々をすべて受け入れた。
デナーシェのように切り捨てることはしなかった。
治安や食料のことなど、人が増えるほどに問題も増えて行ったが、いつでも手を取り合って乗り切ってきた。
お互いをわかりあえる、一番の親友。
オーレリアの王と宰相という立場になっても、それは変わらない。
国が落ち着くと、アディは城下町に孤児院を作った。
ラウルは、孤児院は人に任せて何か役職を、と言ったが、
『そんな柄じゃないわん。
私は私にしかできないことをやるから、あなたたちはあなたたちでがんばりなさい』
そう言って笑った。
大陸歴五五六年に、十五年続いた戦争が終わった。
オーレリアは、気付けば戦勝国と呼ばれていた。
気に入らない貴族や、民を守らない領主の治める土地を片っ端からつぶしていった結果だった。
ラウルたちを見捨てた領主への復讐も、きっちり果たした。
あとはデナーシェだった。
どうしてくれようかと思っていた矢先に、和平の申し出があった。
大陸の平和のため、諸国と手を結んで協定を結ぼうと。
冗談じゃない。
ティエリーは本気で和平を望んでいたが、ラウルは違った。
乗り気と見せかけてこっぴどく断り、恥をかかせてやろうと思った。
もしくは、馬鹿高い賠償金をふっかけて、溜飲を下げようと思った。
戦装束に身を固めて訪れたデナーシェの王城。
あのとき固く閉じられていた門は、大陸一の新興国の王という立場を手に入れたラウルの前で、あっけなく開いた。
同じくらいの年だろうか。
虫も殺したことがないような、きれいな顔をしたデナーシェの王は、和平の証しに妹を差し出すと言った。
辺境の村の出の俺に、デナーシェの王女!
ラウルは、思わず笑い出しそうになった。
いいだろう。
デナーシェのへの復讐は決まった。
暗い炎を胸に、ラウルは和平に調印した。
国境まであと半刻、という小高い丘の上まできて、ラウルは馬を止めた。
日ごろの鬱憤を晴らすかのように馬を走らせてきたため、後続の警備兵はしばらく追いついてはこないだろう。
久しぶりの解放感に、腕を伸ばして伸びをする。
視線の先には、国境となる森が見える。
城壁の外。
デナーシェの東西を守るように広がるその森は、デナーシェでは“天使の森”と呼ばれていたが、他国からは“魔の森”と呼ばれていた。
一度足を踏み入れたら最後、他国のものは二度と生きてはでられないという、魔の森。
デナーシェの民だけが、その不思議の力を持って、自在に行き来できるという森。
デナーシェの民が持つ不思議の力は、魔の森をなんなく通過できるだけではない。
王族に至っては周囲の者を癒すことができるという。
切り落としたはずの腕が、王族が手をかざしただけで生えてきたとか、瀕死の者を生き返らせたとか、はたまた何代か前の王は首を切られても自分の首をかかえて悠然と歩いたともいわれている。
そのほとんどは作り話だとしても、なんらかの力はあるのだろう。
自分の目で見たものしか信じないことにしているラウルだったが、デナーシェの民の力だけは信じている。
いや、信じざるを得ない出来事があったのだ。
時は戦時中に遡る。
『……っ痛……』
放たれた矢が腕をかすめる。
いつのまにか隊と引き離されラウルは、一人でこの地を駆けていた。
このままではやられる。
敵の手に落ちるか、魔の森へと逃げ込むか。
二者択一をせまられて、ラウルは躊躇なく後者を選んだ。
少しでも生き残れる方を選ぶのが、戦乱の世を生き延び学んだことの一つである。
生きていればなんとかなる。
何かの気配を感じたのか、森に入るのを馬は嫌がった。
鬱蒼と茂る森の中は、馬で進むには適さない。
また、馬を逃がせば敵の目をそらせるかもしれない。
そう考えたラウルは、痛む腕を押さえながら鞍に枝を括り付け、上着をかけてあたかも人が馬の背にもたれかかっているように見せかけた上で、馬の尻を叩いた。
甲高いいななきと共に、馬は猛然と駆けだす。
『すまないな。生きて帰れれば、墓くらい作ってやれるかもしれん』
木陰に体を滑り込ませ、辺りをうかがう。
しばらくして追手が馬の逃げた方へ向かうのが見えた。
とりあえずはごまかせたといえよう。
しかし安心するのはまだ早い。
空馬だとばれるのは時間の問題だ。
助けがすぐにくるともかぎらない。
少しでも身を隠す場所を探して、ラウルは森の奥へと足を踏み入れた。
『誰だ!』
近くに人の気配を感じて、反射的に剣を引き抜いて払った。
『わ……!』
浅かったか。
布を切った感触はあったが、倒してはいない。
ラウルは、かすむ目を細めてなんとか相手を見ようとする。
かなり血が流れたらしく、頭が朦朧とする。
『あの……あなた、ひどいけがをしてるんだ。
大丈夫、ここは天使の森。
私はあなたの手当てをしていただけだ』
天使の森。
ここをそう呼ぶということは憎っくきデナーシェの民か。
どれくらいの時かはわからないが、ラウルは気を失っていたらしい
でなければ腕や頭に布を巻かれ、今まで気付かないわけがない。
不覚……!
もしこれが敵の手のものだったら、首をとられていた。
まだラウルの手に握られたままの剣をちらちらと気にしつつも、声の主は薬草を足に巻き付け布で押さえていく。
『本当にひどいけが……。一体どうして……』
どうしてもこうしてもない。
苛々とした気分で、ラウルは胸の中で毒づく。
戦争のないお幸せな国の民には、命がけで戦う俺たちの気持ちなんてわかるわけもないだろう。
祖母も友人も失い、頼る国もなく、敵は容赦なく切り捨て、泥水をすすって生き延びてきた。
俺の元に集まる輩をまとめあげ、ティエリーやアディと共に国を作った。
今はその生まれて間もない国を守るために戦っている。
巨大な国となったのはいいが、大きくなれば大きくなるほど、わきが甘くなり、目が行き届かなくなる。
今回もそんな火種を消しに出張ってきて、このざまだった。
ラウルの心中など知るよしもなく、手当は進んで行く。
一通り毒を吐いて気が済んだラウルは、水筒の水で傷を清めている人物の観察を始めた。
ふわふわと揺れる髪は栗色。
背中側で一つにまとめ、細い紐でしばっている。
皮の手甲に胸当て。背には弓矢。
猟師の子だろうか。
ふと子どもの二の腕に、血がにじんでいるのが見えた。
さっきラウルが切りつけたところだろう。
人の手当てよりも自分の腕を先にすればいいのに・・・。
そんなことに思いあたり、警戒していた心がふっと軽くなった。
あきらかに兵士ではない子どもに、罪はない。
『うん。
緊張していると効くものも効かなくなるからさ。
ここにあなたを害するものはないよ。
ゆっくり休んで』
気を緩めた瞬間、花の香りが鼻先をくすぐった。
鳥の声が聞こえ、森を抜けたさわやかな風が髪をなでる。
ここは天国か……。
いや、そうか、“天使の森”だったな……。
柔らかな陽光を頬にうけ、ラウルは再び意識を手放した――
ぱしゃん……
水音に、のどの渇きを覚えた。
眠っていたのか気絶していたのかさだかではないが、体を休めたおかげで頭はすっきりした。
ラウルは、剣を杖がわりに体を起こす。
自分の体をあらためて見ると、いたるところに布がまかれ、ぐるぐる巻きになっている。
縛り方は、どうも器用とはいえないようだ。
それでも、腹と背の矢傷は、そのままにしていたら確実に致命傷だった。
先ほどの子どもはどこにいったのか。
立ち上がろうと、ぐっと足に力を入れたら、布に血がにじんだ。
……まだ無理はいけない。
それでも喉の渇きをうるおしたくて、這うように水音のする方へ向かった。
ぱしゃん、ぱしゃ……
泉は、すぐ近くにあった。
さほど大きくはない泉の中央で、栗色のふわふわが動いている。
『おい』
そういえば名前を知らなかった。
とりあえず呼びかけてみる。
『……!』
水浴びをしていた人物は、びっくりしたように振り向いて、ばしゃばしゃと音を立てながら、慌ててラウルの方に寄ってきた。
『動いちゃだめ!』
焦っている理由は、ラウルを心配したものだった。
それとは別の理由で、ラウルも焦る。
『おまえ……女か……!』
『え……わ……あわゎ……』
先ほど服と胸当てで隠れていた場所にはわずかなふくらみ。
ずいぶんとささやかだが、腰の細さといい、男とは違う。
『やだ……あっちむいて!
そこの服とって!!』
なんだか難しいことを要求された。
ラウルは、前者をきれいに無視して服を渡してやる。
『あっちむいてって言ってるのに!』
『あっちを向きながらどうやって服を渡すんだ』
当然のことを言われた子どもは、『うぅ』とうなりながらもさっと服を奪い取った。
そして濡れるのもかまわずに羽織る。
『心配しなくても、子どもに興味はない。
それより水をくれないか』
見たところ、12、3歳といったところか。
すらりと伸びた手足が子鹿のようだ。
ラウルが泉で顔を洗っているうちに、子どもはどこからか水をたっぷり入れた水筒を持ってきた。
『奥の岩場から湧き出てるんだ。
この水を飲むと10年寿命が延びるといわれてる』
傷もこの水で洗ったから、きっとすぐ元気になるよ、と無邪気に笑う。
『……痛っ』
子どもが、水筒を差し出そうとして急に顔をしかめた。
左腕を押さえる。
『さっき俺が切ったところか。すまなかった』
『ううん、大丈夫』
腰にぶら下げた鞄から乾燥させた薬草を取り出す。
泉の水に浸して軽くもんでから、袖をまくって傷口に塗りつけた。
右手と口を使って布を巻きつけようとするが、なかなかうまくいかない。
やはりこの子ども、かなり不器用である。
『貸せ。やってやる』
ラウルは、自分の傷も痛むが、なんとも見ていられなくて手をだした。
子どもと違い、手際よく布を巻いていく。
『ありがとう。上手いね』
素直に感心する声に、なんだか背中がむずむずした。
『おまえが下手すぎるんだ』
だからついそんな言葉が出た。
すると、ふわふわの子どもは、むっとすねたように唇をつきだし、横を向いてしまった。
幼い動作が笑いを誘う。
『……くっ……はは、ははははは』
ラウルがたまらず声をあげて笑う。
腹の傷にひびくが、一端笑い出したら止まらなくなってしまった。
こんなに笑ったのはしばらくぶりだ。
『な、なんだよ。そんなに笑うことないだろ!
ちょっと……おいったら……!』
からかわれたのがわかったのか、子どもは真っ赤になって怒っている。
栗色のふわふわと相まって、毛長の子猫が一生懸命自己主張しているようでなんとも愛らしい。
『いや、すまない。……くっ。くく……。
おまえは命の恩人だ。
今は何の礼もできないが、落ち着いたらオーレリアの城に来てくれないか。
俺の名はラ・・・』
『ちょっとまって』
名乗ろうとしたのを、子どもは止めた。
『ごめん、気持ちはうれしいけど、私は傷ついたあなたをほっとけなくて手当てしただけ。
デナーシェの民なら誰でもこうするよ。
でも、名を聞いてしまったら、私はあなたの味方をしたことになってしまう。
それはとってもまずいんだ』
そうだ、とラウルははたと気づく。
ここは魔の森で、子どもはあのデナーシェの民だった。
戦争の間ずっと中立を貫き、どこの国にも敵対しないかわりに、どこの国の味方もしていない。
たとえ隣国の難民が助けを求めて城門をたたいても、すべて無視を貫いている。
ラウルの胸に、苦い思いが広がる。
あのとき門があいていたら。
せめて物資を塀の外にいる者にも分け与えてくれていたなら、おばぁは死なずにすんだかもしれない。
急に押し黙ったラウルを見つめ、子どもは心底困った顔をする。
こいつに憎しみをぶつけても、何も解決しない。
胸の内の激動を深呼吸で鎮め、かつて村の子どもにしたように、ラウルは子どもの頭をぽんぽんと手の平でたたいた。
思ったとおり、ふわふわの、なんとも言えない良い撫で心地だった。
『あやまらなくていい。
おまえの事情もあるのに勝手を言ったのは俺だ』
言いつつも頭を撫で続ける。
『ううん、ごめんね……って、いつまで撫で続けるのさ』
微苦笑の後の呆れ顔。
表情がくるくると変わる様もおもしろい。
『いやぁ、つい、気持ちがよくてな。
昔こんなさわり心地の猫を飼っていたことを思い出した』
それは幼いころの幸せな思い出。
もう何年も思い出さなかったのだが、急にあの頃のことを思い出した。
『わ、私は、猫でも猿でも、亀でもなーーーーーーーい!!!』
今度はまた怒り出した。
猫とは言ったが、猿だの亀だのと言った覚えはラウルにはない。
……言われたことがあるのだろうか。
いや、あるんだな。
身近な誰かに猿呼ばわりされたに違いない。
こんなおもしろい生き物が側にいたら、毎日楽しいだろう。
この子の側にいるだろう家族や友人を思い、少し妬いた。
次は笑顔を見てみたいな。
『まぁもう少し育てば人間になれるさ』
子どもの胸当てをつるりと撫でた。
皮を鞣してあるとはいえ、あまりにも真っ平だ。
『&%▲○#$×~~~~~~~~~!』
今度は言葉にさえならなかった。
ラウルはまたひとしきり大笑いをし、再びすねた子猫をなだめることになった。
ピューィィィィ
遠くで仲間の指笛が聞こえる。
ラウルがもう戻らねばと言うと、子どもはぷんぷん怒りながらも、水筒と、なんと馬を貸してくれた。
『この子はアルノー。
とても利口な子だよ。
この子がいれば、天使の森で迷うことはない。
森の出口で離してくれれば、勝手に私の元に戻ってくるから』
ほどよい筋肉がついた、小柄な脚の太い馬だった。
これなら深い森や、多少の岩場も大丈夫そうだった。
ラウルはデナーシェの子どもに礼を言い、くしゃりと頭を撫でた。
やはり良い撫で心地だ。
『無理しないでね』
そういって子どもは、ふわっと微笑んだ。
ふわふわの髪そのもののような、柔らかい笑みだった。
森を抜け、仲間と合流するかしないかといったところでまた敵襲があり、ラウルは借りた馬にまたがったまま戦うことになった。
決して速くはないが、この馬が利口だというのは本当で、怪我をしていた彼をうまく助けて走った。
ふわふわの子どもに手当てしてもらった傷は、城に戻るころにはすっかりよくなっていた。
致命傷とさえ思った腹と背の傷でさえ、ほとんどふさがっていた。
デナーシェの民の不思議の力は本当にあったのだ。
それとも『10年寿命が延びる』と子どもが言っていた、あの湧き水のおかげか。
戦争が終わり、平和が訪れてからも、アルノーは城の厩舎にいる。
ラウルは、落ち着いたら魔の森……いや天使の森の近くで離してやろうと思っていたが、あの夢のようだった泉の一時を手の内に置いておきたいような気がして、手放せずにいる。
小高い丘から天使の森を見下ろし、思い出に浸っていると、後方から呼び声がした。
「ラウル様――!」
警備兵が、ようやく追い付いてきたようだ。
まさか俺がデナーシェの王女と結婚することになるとは思わなかったな。
さてどんな態度をとってやろうか。
あの森とは違う、暗い笑みが口の端に浮かぶ。
たった一人、好感を持てる民に会ったからといって、デナーシェに対する憎しみは消えない。
この苦しみを、いつか忘れられる日がくるのだろうか。
必死の形相でこちらに向かってくる兵士たちを振り返り、ラウルは一つ溜息をついてから、また「面倒くせぇな……」とつぶやいた。