もう一つの恋物語
リュシエンヌとマルスのお話です。
「ごめんなさい。私がもっと早く話していれば、そんな苦労を背負わせずにすんだのに」
「姉様、それは違う。
間に合ってよかった、と言うのよ」
恋人との最後の逢瀬、と思った夜。
妹が訪ねてきたときから、私の運命は変わった。
いつも私の後をついて歩いていた貴女。
戦後のごたごたも、妹だけは笑っていてほしいとできるだけ耳に入れないようにしてきた。
成長とともに、ダンスより乗馬、刺繍針より弓矢を選んでも、かわいい妹のやることと目を細めて見守った。
明るく、前向きで、はつらつとした貴女。
末っ子で、ずっと幼いと思っていたけれど、いつのまにかこんなにしっかりした女性になっていた。
「リズ……ありがとう。
ユリア、頼むわね」
「えぇ、姉様も、このあと大変だと思うけどがんばって」
「あとのことは、このユリアにお任せください。
……お幸せに」
マルス様が訪ねてくる日は、ユリアが早番で隣室には控えず、侍女用の部屋で休んでいるときを選んでいた。
察しのいい彼女のことだ、人払いをしたらすぐに見抜かれてしまう。
だから、夜中に呼び出して事情を話したときは、寝耳に水と驚き、その直後に水くさいと怒り出した。
それでも今、協力してくれるという。
明日の手はずを打ち合わせ、マルス様の待つ馬車へと乗り込んだ。
「このまま一端私の屋敷に向かいます。
父母には話をしなければなりません」
「侯爵様に……? 大丈夫?」
「父は私には甘いから……。
きっと協力してくれます。
どちらにせよ、何の力もない僕には、父母の協力なくしてあなたと暮らすことはできません。
リュシエンヌ様……戻るなら今ですよ」
馬車は闇夜をひた走る。
マルスの腹心、という御者は、無言で手綱をとっている。
偽装のため、質素に作られた馬車の中は、見た目通りにみすぼらしい。
それでも、傍らには決してかなわないと思っていた恋の相手。
「いいえ、私は国を捨て、家族を捨て、あなたを選んだの。
後悔はしないわ」
「リュシエンヌ様……」
手を重ね、そっと口づけた。
少し冷たかった彼の唇は、私の熱と溶け合い、すぐに温かくなった。
「マルス……! あぁ、リュシエンヌ様!
なんてこと……!」
侯爵家に着き、夜中に起こされた侯爵夫妻は、夜着のまま玄関前の広間に現れた。
まだ真冬の寒さの残るデナーシェ。
このままでは体に障る。マルス様の顔色も優れない。
応接室に通され、暖炉に火が入ると、ほっと一息ついた。
侯爵様とマルス様が、なにやらぼそぼそと話している。
オズバンド侯爵家は、デナーシェ王家に継ぐ血筋と権力を持っている。
知と武の両方を兼ね備えた今の侯爵様は、何代も続く侯爵家の中でもひときわ評判のいい方だった。
年老いてなお背筋はぴんと伸び、堂々とした体躯をしている。
顔に刻まれたしわも風格をいや増すばかりで、知性をたたえた瞳を損なうことはない。
侯爵夫人もおっとりとした話し方の包容力のあるご婦人で、陰になり日向になり侯爵家を支えてきたという。
惜しむらくは、長年子どもができなかったこと。
ようやくできた子どもは生まれつき心臓が悪く、二十歳まで生きられるかどうかと言われた。
待望のわが子をどうにか日のあたるところに、と幼いうちに私の許嫁としたけれど、それもあの戦争が起こって立ち消えてしまった。
それでも私たちは出会い、恋をした。
マルス様は今年二十六歳になる。
私の側にあることで、命永らえていると以前言っていた。
「あなたを愛していると言いながら、本当は自分の命が惜しいだけかもしれませんよ」
と、さびしそうに笑ったあなた。
それでもかまわない。
あなたを望んだのは私。
私の持つ不思議な力で、少しでも長く一緒にいられるのなら、いくらでも利用してほしい。
「……私もです。
どんなに卑怯者と言われようとも、あなたに嫌われようとも、あなたの側を離れるなんて、考えられない。
あなたが他の男に嫁ぐのを見るくらいなら、いっそこの壊れかけの心臓など今この瞬間に止まってしまえばいいのに……!」
抱き合うだけの夜。
王女である私が、死にゆく彼ではなく他のどこかの家や国に嫁ぐことはわかりきっていたから、純潔は守らねばならない。
想い合っても決して結ばれない恋。
それが一層二人を燃え上がらせることになっても、誰が責められようか。
「リュシエンヌ様、寒くはありませんか」
声をかけられ、はっとする。
侯爵夫人が、やわらかな布を肩に掛けてくれた。
暖炉の前で物思いにふけり、合わせた手を震わせる私を気遣ってくれたらしい。
「いいえ、大丈夫です。
このようなご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「そんな……とんでもない……。
ご迷惑をおかけしているのは私共のほうですわ。
まさか息子がこんなことをしでかそうとは……。
大恩あるリュシアン様や王妃様に、なんとお詫び申し上げればよいものか」
リュシアンとは私の父、前デナーシェ国王である。
私が生まれる前、戦乱の兆しが見えた国境で戦があり、共に出陣した父とオズバンド侯爵。
そこで大けがをした侯爵様を、父が不思議の力で治したという。
「あの子が生まれて、二十歳まで生きられないと知った時には、毎日嘆き悲しみました。
そんな私を王妃様は親身になって励ましてくださって……。
その後娘に恵まれたのも、王妃様の支えがあったからこそです」
そうだったのか。
それは知らなかった。
母も心優しい人だった。
そういえば、妹はきょうだいの中で一番母に似ている。
「二十歳を過ぎてからは、毎日、今日あの子の心臓が止まるのではないか、今日が無事終わっても明日止まるのではないかと、薄氷を踏むような気持ちで日々過ごしてまいりました。
それでも、神様に与えられたような日々がもう六年続き、私たちは幸せでした」
医者に言われた期限を過ぎてからは、マルス様はめっきり社交界に出なくなった。
そんなマルス様と私が出会ったのは、彼の妹アンジェリーヌのお披露目の会。
マルス様が二十二、私が十八のときだった。
その日社交界にお披露目された十四歳のアンジェリーヌは、清楚な雰囲気の美しい女の子だった。
でも私の目が釘付けになったのは、アンジェリーヌではなく、その隣に儚げにたたずむ一人の若者。
きらびやかな人々に囲まれてなお暗い影がつきまとい、やわらかく微笑みながらも冷めた瞳をしていた。
なぜそんな目をするのか。
その日はありきたりなあいさつを交わしただけだった。
数日たって、どうしても彼の目が気になり手紙を書いた。
時候のあいさつから始まる返事は、妹の披露宴に来てくれたお礼と、王家の繁栄を祈る一般的な文がきれいな字でつづられていた。
私は、もっと彼を知りたいと思った。
アンジェリーヌを、社交界でのマナーを教えるという名目で城に呼ぶようになり、ふさぎがちな息子を少しでも外に出させたい侯爵夫妻がマルス様を付き添わせた。
その時、彼が二十歳まで生きられないと言われていたことを知った。
私の幼い頃の許嫁であったことも……。
「同情はいりません。もう十分に生きさせてもらいました。
悔いがあるとしたら、両親より先に死ぬことです」
そう微笑む彼の瞳には、やはりあの冷めた色があった。
そんな風にいわないで。
あなたはまだ生きている。
医者のいう事なんて、あてにならない。現にもう6年も伸びている。
あなたの微笑みを翳りのないものにしてあげたい。
それは、すでに恋だった。
マルス様と侯爵様の話が終わったようだ。
「リュシエンヌ様、本当に……愚息が申し訳ありません。
マルスから話は聞きました。
今後の予定も。
ですが、私の口からもう一度だけ問わせてください。
本当に、よろしいのですか?」
一週間後に控えた婚儀。
代わりに嫁ぐといったリズ。
父母亡きあと、共に国を支えてきた兄リシャール。
全てを捨てて、マルス様と行く。
「えぇ。
もう決めたんです。
あとどれくらいかはわからないけれど、マルス様の命尽きるまで、おそばにいさせてください」
「リュシエンヌ様……」
老体が崩れ落ちる。
駆け寄った夫人とマルス様に背を撫でられながら、オズバンド侯爵は泣いていた。
「ありがとう……ありがとうございます……!
こんな、息子のために……ありがとうございます!!!」
「侯爵様……」
顔を上げてもらおうと近づくと、手を取られた、
「このご恩……たとえわが身にかえても、いつか必ずお返しします……!」
涙に濡れる両手で強く握られた。
剣だこのある節くれだった手は、爪の形がマルス様とそっくりだった。
侯爵様が用意してくれた服や食料を持って馬車に乗る。
冬でよかった。
まだ夜明けまでは時間があった。
マルス様と侯爵様の話し合いから、夜のうちに別荘まで行って身を隠すことになった。
「明日リゼット様と遠乗りに出かけられ、事故に遭う、ということでしたね。
侯爵家がお供することにいたしましょう。
事故に遭っても、ご遺体がなければ不審に思われます。
リシャール様もご自分の目で確かめられたがることと思います。
偽の遺体を用意してごまかします」
リズとユリアと相談して、私はリゼットとして死ぬことにしていた。
リズはうまくやると言っていたけれど、妹たちだけでできるのか、不安はあった。
侯爵様の申し出はありがたい。でも……。
「そんなことをしたら、万が一露見した時に侯爵様にご迷惑がかかります。
仮に見つからなくても、私を救えなかったということで罰せられる可能性が……」
「すべて、承知しております。
リュシエンヌ様のお心に少しでも報いたいのです。
この役目、務めさせてください」
「でも……!」」
なお言いつのろうとする私の肩に、マルス様がそっと手をおいた。
「リュシエンヌ様。
私たちがしようとしていることは、代償なしには成し遂げられないことなのです。
あなたも国と家族を捨ててくださった。
私も私の家族もあなたのためにすべてを投げ打ちます。
それが嫌だとおっしゃるのなら、このまま馬車に乗ってください。
城まで送ります」
「……マルス様……!」
肩に置かれた手に自分の手を添えて、ぐっと握りこむ。
「いいえ……いいえ。
侯爵様、お世話になります。
侯爵家の皆様に、幸多からんことを」
そうして乗り込んだ馬車は、城ではなくマルス様が隠棲するために用意された別荘へと向かった。
元から二、三日のうちに主を迎える予定だった屋敷は、きちんと手入れがされている。
入口に着くと、軽くなった馬車は音も立てずに闇の中を帰って行った。
馬車があっては人がいるのがわかってしまうからだ。
使用人は、信用のおけるものをごく少数、後で手配をするという。
ひとまず今夜一晩は二人きり。
マルス様の負担にならないよう、ほとんどの荷物を私が持って屋敷に入る。
ぶるり
火の気のない部屋。
寒さで肩が震えた。
マルス様に教えてもらって、寝室の暖炉に火を入れる。
これからはデナーシェの王女様ではないのだ。
なんでもできるようにならなければ。
「マルス様、お休みになって。
今日は一度発作を起こされてるし、早く休んだ方がいいわ」
「リュシエンヌ様こそ、お疲れでしょう。
……さっきはあんな風に言ったけれど、僕のためにすべてを捨てることになったこと、本当に後悔なさいませんか?
今なら……今ならまだ戻れます……」
馬車は帰ったが、距離があるとはいえ国内だ。
帰ろうと思えば日が昇るまでに城に戻れる。
いや、夜が明けたとしても、計画が実行される前ならば、いくらでも弁解できるだろう。
「マルス様は私の決意をお疑いになるの?」
「いえ、そういうわけではありません。
しかしあなたの払う代償があまりにも大きすぎます。
今ならまだ戻れるのです」
何度も『戻れる』と繰り返すマルス様に、苛立ちが募る。
私には、もう戻る気などないのに……!
「そんなにおっしゃるのなら……」
隠しに入れておいた短剣を取り出す。
王族たるもの、いつ賊の手にかかるかわからない。
国の不利益になるようなことがあるなら自害するよう教わっていた。
「リュ、リュシエンヌ様、何をっ」
ざく……!
頭頂部で結わえていた髪を、一気に切り落とした。
結ばれていたところから、ひとかたまりになって床に落ちる。
「あぁ……!」
「これで、もう戻れません。
こんな髪の女を娶る男はいませんわ」
特徴的だった私の髪。
黒くしなやかで、艶めく髪は、各国の使者に絶賛され、オーレリアに送られた絵姿にも描かれているはずだ。
「もう、戻れませんか」
「えぇ、戻れません」
「そんな髪の女性を娶る男はいませんか?」
「えぇ、あなたしか、いません」
「そうですね。
私なら、あなたの髪が長くても短くても、生まれ変わって姿形すら違っても、何度でもあなたを見つけ、恋をします」
「マルス様……!」
「残り短い命ですが、あなたにすべて捧げます。
私の妻になってください」
「はい……。
はい、マルス様!」
唇を合わせ、舌をからめる。
寝台に押し倒され、マルス様の手が服にかかる。
誰もいない別荘で。
その夜私たちは結ばれた。
妹の死と第一王女がオーレリアに向かって出発したと聞いたのはそれからすぐ。
侯爵様やリゼットたちはうまくやってくれたようだ。
危惧していた通り、侯爵家はリゼットの死の責任を取らされて降格。
領地の大部分を没収された。
侯爵夫妻は地方の領地に引っ越し、アンジェリーヌだけ城に奉公することになったという。
切った髪はユリアに送った。
うまく加工してかもじにしてくれるそうだ。
あれから一年。
余命半年と言われたマルスはまだ生きていた。
髪を短く切りそろえ質素な服を着て彼の車椅子を押す私は、彼の侍女か看護人に見えることだろう。
実際、この屋敷には管理を任されている老夫婦と私たちしかいなかった。
身の回りのことはすべて自分でやっている。
お城にいたころには考えられなったことだ。
「あぁ、スノードロップが顔をのぞかせているよ。
もうすぐ春だね」
マルスの部屋から見下ろす庭に、小さな白い花が見えた。
残雪をかきわけ咲いている。
花言葉は、希望。
「リュシィ、いままでありがとう。
僕はね、もうそろそろだと思うんだ。
夏までは……たぶんもたない」
「マルス、そんなこといわないで。
いままでだって、なんとかなったじゃない」
2人で迎えた初めての朝。
マルスは私を「リュシィ」と呼んだ。
私も「様」をつけるのをやめた。
最近発作が頻繁に起きるようになっていた。
私の力も、これ以上天命には逆らえないらしい。
「僕が逝ってしまったら、あなたはどうなるんだろう。
リシャール様は、僕のことは許してくれないだろうけど、あなただけなら話せばわかってくれるかもしれない。
あぁ、でも戻ってまた政略結婚をさせられたらどうしよう。
あなたに他の男が触れるのか……」
「マルス、やめて」
「それとも僕の両親を頼る?
領地はほとんどなくなってしまったけれど、まだまだあなた一人くらい十分に養える。
一生そこで暮らすんだ。
僕を想って、ずっと……」
「マルス……!」
歪んだ笑みを見たくなくて、私は私の唇で彼の唇をふさいだ。
「ん……」
「愛してるわ、マルス。私にはあなただけ……」
「リュシィ……」
私たちは体を重ね合い、言葉にならない想いを確かめ合った。
マルスが亡くなったのは、春の終わり。
庭にはスィートピーが可愛らしく咲いている。
花言葉は、優しい思い出。
死の間際。
あなたの瞳には、優しい色がたたえられていた。
私が見たかった色。
私が癒したかった心。
私の想いは、あなたに届いたと信じたい。
兄の元には戻れない。
髪を切ったあの日、もう戻らないと決めたのだから。
マルスの両親の屋敷にもいかない。
これ以上迷惑はかけられない。
マルスの名義になっていた別荘は、管理人の夫婦はそのまま残れるようにして売り払った。
手元にできたお金で、オーレリアの田舎町に向かうことにする。
オーレリアはデナーシェと違って集まる民は基本的に受け入れているから、女一人紛れ込むことは可能だろう。
妹にばかり負担をかけてしまった私だから、せめて同じ国で見守りたいという気持ちもある。
「あぁ、一人じゃなかったわね」
お腹をさする。
命を削るようにして求め合った結果、新しい命が宿っていた。
マルス。
あなたの生きた証がここに在るわ。
マルスへの燃えるような想いとは違う、確かな愛しさを感じる存在。
かけおちの夜、膝をついて涙した侯爵様の気持ちが今わかる。
私はこの子のためなら、どんなことでもしてみせるだろう。
若者が街へ出て行ってしまって、年寄りばかりだという村に行きついた。
村の人々は、事情もろくに話さない身重の私を訳ありと判断し、深くは聞かず親切にしてくれた。
「マリユス!
遠くに行っちゃだめよ!」
「はーい、母さん。
すぐ戻るからー!」
「男の子は元気ねぇ」
「本当に……」
野菜片手に近所の人とたわいもない会話をする。
マルスの忘れ形見――マリユスと名付けた――は八歳になっていた。
心臓に異常はなく、いたって元気だ。
小さな家に小さな畑。
母子二人の生活には十分だ。
村人の気遣いで空き家になっていたところをもらったから、屋敷を売ったお金にはほとんど手をつけていない。
いつかマリユスのために使おうと思う。
庭にはスノードロップとクレマチスを植えた。
季節ごとに咲き、目を楽しませてくれる。
今はバイカラーローズが揺れている。
自分が選んだ人生に、後悔はない。
マルス。
あなたの分まで私は生きるわ。
もう少し待っててね。
再び会えるその日まで。
『生まれ変わって姿形すら違っても、何度でもあなたを見つけ、恋をします』
と言ってくれたあなた。
あの時言えなかったけれど、私だってあなたを見つけるわ。
どちらが先に、見つけるかしら。
バイカラーローズの花言葉は、変わらぬ愛――




