2 大陸歴五六○年~デナーシェ~
デナーシェ王国の第一王女、リュシエンヌが死んだ。
遠乗りに出かけ、飛び出してきた子兎を避けようとして落馬したのだ。
運悪く、リュシエンヌが落ちた先には、藪の影になってわからなかった崖があった。
全身を打った彼女は、そのまま亡くなってしまった。
「リュシエンヌ……。こんなことになるとは……」
デナーシェ城の地下にある、王族の墓所。
リュシエンヌの兄で、若き国王でもあるリシャールが、妹の棺を愛おしそうに撫でている。
リシャールが知らせを聞いたとき、彼は国境近くの街道にいた。
そのときはまだ、妹が怪我をしたようだ、としか聞かなかった。
怪我と聞いて思い浮かべたのは、リュシエンヌではなく、もう一人の妹リゼットだ。
今年十八になるリゼットは、何歳になっても落ち着きがなく、城を抜け出してはそこここに擦り傷を作って帰ってきた。
大方、今回もお忍びで出かけて足でもひねったのだろう。
そう思った。
何せ、裁縫と読書が趣味であるリュシエンヌと違い、リゼットの趣味は狩りだった。
森に分け入っては、兎や鳥を獲ってくる。
そんなことをする王女なんて、どこにもいない。
城の料理人は新鮮な食材を喜んでいたが、リシャールにとっては頭の痛い行動だった。
だから、彼は国境での仕事を終えてから城に戻った。
仕事とは、街道の安全確認である。
通常なら警備隊のものにやらせることだったが、この道は、リュシエンヌが一週間後の婚儀の日に通る道だった。
そう。
リュシエンヌは、一週間後に婚儀を控えていた。
十五年続いた戦争で大陸一の大国となったオーレリア国の若き国王と。
――十五年戦争。
今ではそう呼ばれる戦争が終わって早四年。
大陸中を巻き込み、たくさんの命が落とされた。
唯一の中立国であったデナーシェも、戦争とまったく無縁でいられたわけではなかった。
リシャールたちの父、すなわち前国王は、戦争が終わるまでずっと心を痛めつづけた、やっと終結した二年後に病に倒れ、はかなくなった。
さらに一年後には、王の後を追うように、王妃も亡くなった。
それゆえに、二十七歳という若さでリシャールが即位した。
十五年戦争の戦勝国は、戦争のさなかに建国の宣言をし、ばらばらになった国々をまとめてあっという間に力をつけた、オーレリアだった。
オーレリアは、勝利を宣言するとすぐに、敗戦国に戦争の賠償を求めた。
敗戦国は、大小合わせると二十以上にのぼった。
それらとオーレリアが個別に条約を結んでいては、どれほど無理難題をふっかけられるかわからない。
敗戦国の国王たちは、ない知恵を絞って話し合い、結果、デナーシェを頼ってきた。
すなわち、唯一の中立国であるデナーシェが、敗戦国のまとめ役となり、オーレリアと交渉をしてくれないかと。
デナーシェに、それを引き受ける義理はなかった。
しかし、戦勝国と敗戦国がごたごたしている間に、戦後二年がたち、父王は倒れ、いまだ落ち着かない大陸の様子に人心が荒れ始めていた。
即位したてのリシャールは、敗戦国であろうと多くの国々に貸しを作ることを目的とし、代表を引き受けた。
和平交渉の日。
使者を通じてある程度のやり取りはしていたが、リシャールは内心不安だった。
敗戦国側がこれ以上出せないと言って提示してきた金額は、賠償とするにはあまりにも安すぎた。
さらにデナーシェからは、和平の象徴として、デナーシェの王女との婚姻をあげていた。
地盤を固めたいリシャールにとっては、妹を嫁がせてでも、オーレリアとのつながりが欲しかったからだ。
そんな見え透いた手を、オーレリア側はどうとるか。
交渉の為、デナーシェ城にあらわれたオーレリアの王は、若かった。
たぶん、リシャールと同じくらいの歳だ。
髪は黒。マントも黒。
引き締まった体を包む軍衣も黒で、瞳だけ真っ青だった。
気に入らない。
一目見て、リシャールはそう思った。
今は王を名乗っているが、所詮戦争のどさくさに紛れて起った王だ。
どこの馬の骨かわからない。
その証拠に、言動は粗野で、上品さのかけらもない。
三百年以上の歴史をもつデナーシェの王城において、少しも委縮する様子もなく、自信に満ち溢れた表情をしているのも気に入らない。
さらにいえば、もっと気に入らないのが、その瞳だ。
森の湖を思わせる青い瞳は、はじめは挑むようにリシャールを睨んできた。
なんだと思って睨み返したら、つぎは嘲笑するように細められた。
そして最後は満足そうに、リシャールを見つめてきたのだった。
こんな奴に大事な妹をやるのか。
国の為、己の治世のためとはいえ、リシャールは少し後悔した。
オーレリアの王のほうから難癖をつけてくれればいいとさえ思った。
しかし、オーレリアの王は、安すぎる賠償金にさえ文句一つつけることなく、和平に調印をした。
そうして迎えた婚儀。
二人いる妹のうち、どちらが嫁ぐかという話になった。
すると、当然のようにリュシエンヌが自ら嫁ぐと言った。
王族の務めであるし、年も自分の方が近いから、と。
リュシエンヌは、二十二歳であった。
婚儀の準備は着々と進んだ。
あの日の連絡を聞くまでは。
「兄様、あの……」
「!」
リュシエンヌの棺の前でリシャールが物思いにふけっていると、背後から遠慮がちに声をかけられた。
驚いたリシャールが振り返る。
「あぁ、リズ。おまえか……」
墓所の入口には、悄然とたたずむリゼットがいた。
「ごめんなさい。お邪魔だったかな」
「いや、ちょうどいい。話がある」
「話?」
リシャールが国境から帰ってきたとき、妹たちのどちらの出迎えもなかった。
もう夜なのに城にいないのはおかしと思ったら、つきっきりで怪我人の看護をしているのだという。
そんなに酷い怪我だったのかと、リシャールは旅装を解く間もなく見舞いに行こうとした。
しかし、妹の部屋にたどり着く前に、老体をかがめて平身低頭するオズバンド侯爵に遭遇した。
オズバンド侯爵家は、デナーシェ王家に継ぐ血筋と権力を持ち、父王の代から家族ぐるみで付き合いのある男である。
なぜそんなことをするのかと聞けば、未だ誰にも秘密にしているが、王女は怪我をしたのではなく死んだのだという。
『死んだ!? どちらが?』
そう尋ねたときのリシャールは、兄としてではなく王として頭を働かせていた。
『……リュシエンヌ様でございます』
『そうか……』
『私がついていながら……。
誠に申し訳ありません』
遠乗りには、リシャールが国境に向けて旅立った日に、リュシエンヌとリゼットで連れ立って出かけたのだという。
付き添いは、オズバンド侯爵家。
リュシエンヌたちは、姉妹の最後の思い出にとオズバンド侯爵に遠乗りをねだり、オズバンド侯爵も快く引き受けて、家をあげて警護にあたったという。
しかし、事故は起こった。
『此度の責任、どうとるつもりだ』
『はっ。陛下の御心のまま、どのような処分も受ける覚悟でございます』
たとえ王女たちの望みだったとしても、髪の毛一筋とて傷をつけたら大問題だ。
それどころか今回は、王女の一人が死んでしまった。
責任をとって、侯爵本人は断首。
家督を取り上げ、一族の国外追放あたりが妥当か。
『そうか。追って、沙汰を知らせる。
とりあえずは、婚儀をどうするかだな』
腕組みをし、思考をめぐらせる。
答えはすぐに出た。
『陛下……。
僭越ながら、まだ発言を許されるのであれば、方法は一つしか』
『わかっている。それしか方法は、ない』
和平の調印では、“デナーシェの王女”としか約束しなかった。
しかし、そのあとリュシエンヌの絵姿を、オーレリア側に送ってしまっていた。
国同士の婚姻では、盛大な披露宴やパレードが行われることが恒例だ。
その際に、花嫁の髪の色や瞳の色に合せて、調度品や花が選ばれる。
リュシエンヌの髪は黒。リゼットの髪は栗色だった。
さらに婚儀一週間前ともなれば、互いの名前入りの記念品なども作られているはずだった。
いまさら、下の妹が嫁ぎますとは言いにくい。
『リゼットを、リュシエンヌの身代わりとして嫁がせよう』
「兄様? あの、話って?」
「あぁ。
リズ、一週間後、おまえが第一王女としてオーレリアに嫁げ」
「……!」
リュシエンヌの棺の前。
そう告げた兄に、リゼットは驚く。
「それは、姉様のふりをしてってこと?」
「そうだ」
兄の言葉にリゼットが戸惑ったのは一瞬だった。すぐにこくりとうなずく。
いくらおてんばとはいえ、リゼットもデナーシェの王女だ。
ある程度予想をしていたのだろう。
もしかしたら、リシャールが帰ってくるまでに、オズバンド侯爵と話をしていたのかもしれない。
「急な話で悪いな」
「ううん。私も王女だもん。
この婚儀がどれくらい大事なものかはわかってるつもり。
でも、もしあちらの方に気づかれたら……」
「そこはおまえ次第だ。うまくやってくれ」
「……わかった」
けなげに微笑む妹を抱き寄せる。
胸の前で合された両手が、わずかに震えていた。
「リズは、リュシィが落ちたところを見たのかい?」
髪を撫でながら聞く。
昨日の夜、城に着いてすぐにオズバンドに遭った。
その後は対策に追われ、妹の顔を見たのは今が初めてだった。
彼女はリシャールがリュシエンヌの死をどうするかを決めるまで、城の奥に身を隠していたのだ。
リュシエンヌの死を隠し、リゼットの存在を隠し、王が戻るまで待った。
オズバンドの采配だった。
「私、姉様の前を走っていたの。
悲鳴が聞こえて、慌てて戻ったときには、姉様も、姉様の馬の姿もなかったわ。
オズバンド侯爵様が駆けつけて、みんなで見つけたときには、もう……」
「そうか。このことを知っているのは、リズとオズバンドと、オズバンド家の従者だけだったな」
「うん。
あの、オズバンド侯爵様はどうなるの? 遠乗りについてきてくれた従者たちは?
兄様、まさか口封じなんてしないわよね?
私が、私が悪いの。
姉様を遠乗りになんて誘ったから……」
遠乗りは、リズが言い出したことだったのか。
肩を震わせ、涙を流す妹を抱きながら、リシャールは得心がいった。
さして好みでもないのに、この大事なときに遠乗りにでかけたリュシエンヌ。
よりによってリシャールがいないときに出かけたのは、普段リゼットの奔放ぶりにいい顔をしていなかったからか。
姉と遠乗りなんて、リシャールに言ったら許してくれないと思ったのかもしれない。
でも、どうしても最後の思い出に行きたい。
オズバンドは、そんなリゼットの心情を察して、付き添いを引き受けた。
陽光の下、楽しそうに馬を走らせる二人を、年老いた侯爵は微笑みながら見つめていたことだろう。
こんなことにさえならなければ、姉妹のいい記念になったはずだった。
「処罰は、まだ考え中だ。
しかし他の貴族の手前もあるから、そう軽いものにはできないな」
「……そう。そうよね……。あぁ……」
苦しそうに息を吐くリゼットを、リシャールは優しく撫でる。
ふわふわの綿毛のような髪と妹のぬくもりが、少しずつ彼の心に兄としての悲しみを呼び起こした。
「リュシエンヌ……。
死んでしまったのか」
「……」
リシャールはリゼットを離すと、そっとリュシエンヌの棺に手を掛けた。
「まだ、顔を見てやっていなかったな」
「あ!」
ぎしっと蓋をあけようとして、釘が打たれているのに気付いた。
「なんだ? どうしてもう封じてある?
通常、埋葬までは開くようにしてあるはずだが」
「あの、兄様。
実は姉様のお顔は、崖から落ちた衝撃で酷く腫れてしまっていて……。
私が、そうしてくれるようにお願いしたの。
みんなに、一番きれいなお顔で覚えていてほしいと思ったから」
そんなに酷いのか。
見れば、釘がしてあったのは上半身だけで、蓋の途中に切れ目が入れてあり、下半分は開くようになっていた。
リゼッとの懇願を受け、リシャールは足元だけを確認する。
見覚えのあるドレス。
リュシエンヌが気に入ってよく着ていたものだ。
そのまわりには、彼女が好きだった花が敷き詰められていた。
利発で、しっかり者だったリュシエンヌ。
若くして即位した兄を、いつも励まし支えてくれていた。
あふれそうになる涙を、ぐっとこらえる。
泣いている場合ではない。
「リズ。もう一つ頼みがある」
「はい」
「リズは”リュシエンヌ”としてオーレリアに嫁ぐ。
そして”リゼット”は……リュシエンヌの代わりに死んでくれ」
「……はい」
兄と共に墓所を出て、リゼットはリュシエンヌの部屋に行く。
これからは、リゼットがリュシエンヌとして過ごすためだ。
扉を閉めると、ほぉっと息をついて、革張りの白いソファに身を沈めた。
もうすぐリシャールがリゼットの死を発表する。
遠乗りにでかけて怪我をしたのはリゼットだ。
怪我が悪化して、死んだのもリゼット。
第二王女は死んだことにして、六日後には予定通り第一王女が嫁ぐ。
「お疲れ様です、リゼット様。
リシャール様のご様子はいかがでしたか」
「ユリア……」
最も信頼のおける侍女が差し出したお茶を、身を起こして受け取る。
薫り高いお茶は、疲れた心をふんわりと溶かしてくれた。
「リゼットではなくて、リュシエンヌよ。
これからは、私のことはリュシエンヌと呼んでちょうだい」
「あ、はい。申し訳ありません」
ユリアはリゼットたちの乳母の娘であり、幼いころから共にそだった乳兄弟である。
リゼットにとっては、いつも自分の幸せを願ってくれる、優しくも頼もしい、もう一人の姉であった。
もちろん、隠し事など何一つできない。
そう、隠し事なんて……。
「兄様、泣いてたわ。
涙こそ見せなかったけど、あれは絶対泣いてた。
兄様に……本当のことを言ってあげられたらいいのに」
「リゼ……リュシエンヌ様。
それは……」