19 真実もしくは懺悔
夏の強い日差しに瞼を射られ、リゼットは我慢できずに目を開けた。
見覚えのない天井。
記憶を呼び起こそうとするが、うまくいかない。
「リゼット様!
あぁ! お目覚めになられたのですね!」
「ユリア…………。ここ、は……どこ?」
喉がからからに乾いていて、言葉が紡げない。
ユリアが水差しを差し出して水を飲ませる。
リゼットが体を起こすと、背中側に枕を入れてよりかからせた。
「オーレリア城と山間の別荘の間にある馬屋番の塔です。
リゼット様は三日三晩眠ってらしたのですわ」
「あぁ、そっか……」
ユリアに言われて、リゼットはようやく思い出す。
襲撃を受けたあの夜。
助かったと思い、気を失ってしまったのだ。
いや、それより何か辛いことがなかったか。
そう、きれいな夢を見て――
無意識のうちに腹を押さえたリゼットを、ユリアが沈痛な面持ちで見つめる。
「お子様は……森にお還りになられました。
きっと、リゼット様を守ってくださったのですわ」
「そう……。やっぱりあのときの痛みは……」
デナーシェでは死ぬことを森に還るという。
いままで感じたことのないほどの痛み。
山道を走り、壁に背中をぶつけた直後に感じた激痛。
顔も知らない我が子は森に還ってしまったのかと思ったリゼットは、ユリアの言葉に何かひっかかるものを覚えた。
「守ってくれた?」
「えぇ。
リゼット様も一時はたいへん危ない状態でした。
お子様が、きっと守ってくださったのです」
デナーシェの王族の不思議の力は、自分自身には使えない。
王族同士なら効果はある。
つまり、共に死にかけていた自分を、あの子が守ってくれた?
実感のないまま逝ってしまった子。
こんな身勝手な私を守ってくれたの?
つ……とリゼットの頬を涙が伝った。
一度流れ出た涙は、次から次へとあふれてくる。
……どうすればよかったのだろう。
あのまま大人しく、部屋で敵が鎮圧されるのを待っていればよかったのか。
けれどラウルがすぐ近くで戦っているというのに、ただ守られていることなどできなかった。
リゼットの胸に浮かぶのは、深い喪失感と後悔の念。
いくら悔やんでももうおなかの中に子どもはいない。
己の自覚のなさが、芽生えた命を失くしてしまった。
「……っ
ラウルに、なんて言おう……」
きつく瞳を閉じて、涙を塞き止める。
漏れそうになる嗚咽は、両手で顔を覆うことで堪えた。
「あの、ラウル様は御存じです。
侍医の説明を私と一緒にお聞きになられて……。
その、すみません。お姿のことも話してしまいました。
これ以上ごまかせなくて」
そんなリゼットに、ユリアは濡らした手巾を差し出しながら心底申し訳なさそうに言う。
「うん、いいよ。話そうと思ってたんだ。
子どものことは……知っていても私の口から話したい」
「そうですか。わかりました……」
涙を拭いたリゼットは、静かに寝台に身を横たえると、じっと天井を眺めた。
その胸の内にどれほどの思いが渦巻いているのか、幼い頃から共に育ったユリアにも読み取ることはできなかった。
「……リゼット様が気が付かれたことは知らせましたから、もうすぐ侍医が来ると思います。
その前に何か召し上がられますか?」
「ううん……いい」
「わかりました」
部屋の中に沈黙が降りる。
ユリアがいたたまれない思いで息を詰めていると、部屋の扉が控えめにノックされた。
侍医かと思って扉を開ければ、黒の軍衣に身を包んだ男がいた。
――まるで喪服のよう。
ユリアは、はじめて男の選ぶ色に意味を感じた。
「あの、リゼット様。
ラウル様がお越しです。どうなさいますか?
侍医の診察を受けられてから、お会いになりますか?」
枕元に寄って小声で指示を仰ぐ。
「……今、会うよ。
後回しにしても仕方ないし。
彼とは、話をしなければいけないから」
ラウル、と聞いてぴくりと反応したリゼットは、ゆっくりと瞬きをしてからそう言った。
「……」
リゼットの部屋を訪れたラウルは、半身を起こして自分を迎える彼女を見て、ほっと胸をなでおろした。
彼女が生きて目の前に在る。
まずはそのことに感謝をしたかった。
リゼットも、不思議な気分でラウルを迎えていた。
姉の身代わりではない。
かといって、何も知らないはずの“リズ”でもない。
どんな顔をしていいのかわからないまま、ただ男を見つめていた。
ラウルが寝台横の小さな椅子に腰かける。
自分の膝に肘をつき、両手を組んで俯く。
そんなラウルをじっと見つめるリゼットは、組まれた両手が、指先が白くなるほど力が込められていることに気付いた。
肩も、震えているような気がする。
泣いているのだろうか。
リゼットは、男のたくましい体がやけに小さく見えて、握られた両手に自分の手を添えた。
はっとしたようにラウルが顔を上げ、リゼットの手をおずおずと握り込む。
男の目に涙はなかったが、青い瞳はこれまでにない悲痛な色を浮かべていた。
「リズ、子どものことは……。
いや、あの、なんと呼べばいい?
リュシエンヌは姉なのだろう?」
意を決したように口を開いたラウルが、まずはそう問う。
「リズと、呼んで。私の名だから。
お腹の子は、森へ還ってしまったの。
私のせいで……ラウル、ごめんなさい……」
リゼットは、きゅっとラウルの手を握り返す。
言葉にしたら、止まったはずの涙が次から次へとあふれてきた。
「うっ……くっ……。
私、あなたの赤ちゃん……。
私たちの赤ちゃん、守れなかった……私のせいで……」
ユリアは休めと言ったのに。
みんな気遣ってくれたのに。
自分勝手な行いが、一番か弱いものを犠牲にした。
「ユリアに聞いたのか。
違う。おまえのせいじゃない。
俺が悪いんだ」
ぽつぽつと、ラウルが語る。
故郷の村のこと。
家族のこと。
村を出て、何があったのか。
どうしてデナーシェの王女を娶ろうとしたのか。
ラウルはリゼットの気持ちを思い、デナーシェが何をしたかははっきりとは口にしなかった。
ただ漠然と、自分の人生と大事な人たちを翻弄した“運命”というものに仕返しをしたかったと話した。
「おまえのせいじゃないのに。
全部おまえのせいにして、自分だけ楽になろうとしていた」
「ラウル……。
私だって、自分のことしか考えていなかった。
あなたを、オーレリアのみんなを騙して、姉様のためとか国のためとか言って。
自己満足だったの……」
そうつぶやいたリゼットに、ラウルはゆるく頭を振る。
「婚儀の直前に姉が亡くなったのだろう?
辛い思いを抱えて、それでも和平のために俺の元へ来たおまえに、俺は酷い態度をとり続けた。
おまえはもっと怒っていいんだ。
俺に怒りをぶつけて、罵ってくれ」
「そんな……。
え? 姉様のことを、ユリアは何て言ったの?」
「ん? 事故で亡くなったと。ティエリーに、おまえもそう話しただろう」
「あ……そうだった……。
ごめんなさい、ラウル。あのときはそう話すしかなかったんだけど実は……」
リゼットもまた、自分がなぜオーレリアに来ることになったかをラウルに話した。
「だから、自己満足だと言ったの。
こんな私を、ラウルこそ軽蔑していいんだよ」
敬愛する姉のためとはいえ、自国の国民も、兄も、夫も騙したのだから。
あのころの自分は、王族だと言いながらも本当の職責など理解せず、人々に守られ甘やかされて育った“お姫様”でしかなかった。
絵物語のような姉の恋に浮かされ、自分もまた物語の主人公になったような気分を味わいたかっただけだ。
それゆえに夫にどんなに酷い仕打ちをされたとしても、自分に酔っていたから普通にしていられた。
「この子はそれに気づかせてくれたけど、その代償はあまりにも大きかった……。
ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
自分の腹部に手をあてて、ぽろぽろと涙をこぼすリゼット。
ラウルは予想もしていなかった話に驚きつつも、不可解だった“リュシエンヌ”の行動すべてに得心が行った。
「おまえの事情はわかった。
それでも、俺がしたことは許されることではない。
おまえが望むなら、この婚姻を解消しよう。
もちろん、和平はそのままだ」
「え……」
「立場上すぐにとはいかないが、おまえにとっては俺の顔などもう見たくはないだろう?
しばらくこの塔で休んで、体調が戻ったら一端城に来てくれ。
けれどおまえの部屋には近づかないから安心していい。
公式行事も出なくていい」
「でも、そうしたら王妃の役割が……」
「なんとかごまかすさ。
婚姻の解消理由も、デナーシェに不利にならないようにする。
おまえの名誉も傷つけない」
「ちょ、ちょっと待って、ラウル」
「俺は、どう償ったらいいか、この三日ずっと考えていた。
謝罪の言葉をいくら重ねても、身も心も傷つけたおまえには到底届かないだろう。
いい案は浮かばず、そのうちにおまえが目覚めたと聞いた。
とにかく謝るのが先決と訪ねたが……今の話を聞いて、おまえを解放してやることが一番だと思った。
どうだろうか。こんなことしかできなくて、本当にすまない」
リゼットの両手を捧げ持ち、額を押し当てるようにしてラウルは謝罪の言葉を口にする。
「リズ……本当にすまない」
「あ……ラウル……。
そうだよね。こんな私、いらないよね」
「リズ?」
「姉様じゃない私なんて……。
赤ちゃんを死なせてしまう私なんていらないよね」
ぽろぽろぽろ。
一度は止まっていた涙がまたこぼれる。
「ごめんなさい、ラウル。
私、デナーシェに帰る。兄様にはちゃんと話すから。
ラウルは悪くないって。全部私が悪いって……」
「そうじゃない。話を聞いていたか? 悪いのは俺だ。
おまえが謝ることはない」
「だって……っ
婚姻の解消って、離縁ってことでしょう?
ラウル、私のこと、いらないんでしょう?」
榛色の瞳が、潤んだ涙で金色に煌めいて見える。
長い睫を濡らしながら、リゼットはラウルを見つめる。
「おま……っ
いらないのは俺のほうだろう?
俺のことなんて、見たくもないだろう?」
「違……そんなことないっ
私、やり直そうって、ラウルに本当のこと話して、やり直そうって……っ」
握り合った手にリゼットの涙が落ちる。
ラウルは信じられない思いで、その涙を見つめた。
「リズ? 本当に……?
俺を許してくれるのか……?」
「許すも許さないも……私の方こそ……」
リゼットの手がほどかれる。
細かく震える指先が、男の頬に触れた。
「あぁ……」
自分の頬に当てられた手に、ラウルも手を重ねる。
彼女からこんな風に触れてくれるのは初めてだと思いながら、目を閉じた。
「離縁するなんていわないで。
私、子どもを持つにはまだ早かった。
自分のことも、あなたのことも、何もわかってなかった。
あなたさえよかったら、もう一度やり直させて」
「リズ……ふっ……俺は……っ」
ラウルの閉じた目じりに水滴が光る。
リゼットがその涙に触れようとしたら、手を強く引かれて抱きしめられた。
「俺は……くっ……
許されて、いいのか……?」
折れそうなほど力を籠められる。
けれどリゼットは抗うことなく身を任せ、男の背中に腕をまわした。
「わからないよ……私にも、わからないけど、
あなたが“私”を必要としてくれるなら、私は二人で幸せになりたい……っ」
ラウルの髪に片手を伸ばす。
頭に触れると、びくっと男の肩が揺れた。
「ラウル、お願い。
要るって言って。姉様の代わりじゃない私のことを、あなたに必要としてほしい」
復讐相手のリュシエンヌではなく。
森の少女としてのリズでもない。
“リゼット”を見てほしい。
「リズ、あぁ、俺のほうこそ……」
二人で、やり直す。
どこかで掛け違えたボタン。
もしかしたら、初めから狂っていたのかもしれない歯車。
それを、自分たちの手で直してみせる。
“運命”だなんて、あきらめない。
リゼットは、ラウルの髪を撫でる。
涙を流すラウルの髪を、背を、何度も撫でる。
「ラウル、いままでごめんね……」
「俺も、すまなかった」
「ううん、だって私が……」
「いや、俺が」
ラウルもリゼットも、自分が悪いと言って譲らない。
繰り返し謝り合ううち、涙は止まり、自然と笑みがこぼれた。
どうやら似たような部分があるようだと、ラウルは発見する。
これもやり直すための第一歩か。
リゼットはリゼットで、ラウルが穏やかな瞳で自分を受け入れてくれたことが嬉しかった。
彼の苦しみ、私の想い。
それらは、これから二人で乗り越えていく。
ねぇ、もう少し待っていてね。
こんな私を守ってくれたあなたのためにも、やり直してみせるから。
そうでなければ、報われないよね。
夢の中、天使の森で笑っていたあの子。
必ず迎えに行くから。
もう少しだけ、待っていて。
微笑みあい、どちらともなく身を寄せた二人は、互いの存在を確かめるようにいつまでも抱き合っていた。