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10 別荘




深い森を背にして湖のほとりに立つ、白い別荘が見えてきた。

供も連れず、思うままに馬を飛ばした結果、予定より一日早くついた。

王妃は体調を崩したとかで、床についていた。


「微熱と、お体がだるいそうなのです。

 慣れないお城での生活に、知らず知らずのうちにお疲れがたまっていたのかもしれません。

 お夕食のときにごあいさつをしたいとのことです」


別荘の玄関ホールまで出迎えた王妃の侍女が言う。


「……無理をすることはない。ゆっくり休ませてやれ」


ラウルは、たいした不調ではないと聞き、ほっとした自分に戸惑った。

王妃の体調がなんだというのだ。

ほっとしたのは会わねばならないと気負っていたせいだと自分を納得させ、毎年使っている部屋へと向かおうとする。

すると古参の使用人が慌ててやってきて、部屋の準備ができていないと体を縮こませた。


「何、早く来たのは俺の方だ。

 散歩でもしてくるさ」


「申し訳ありません。夕刻までには整えておきますので」


恐縮する使用人に気にするなと手を振って、ラウルは荷物を預けて外に出た。

先ほど通ったばかりの門をくぐり、森と湖、どちらに行こうかとしばし考える。

避暑地とはいえ夏の日差しは容赦なく肌を焼き、汗をしたたらせる。

ならば、と木陰を求めて森を散策することにした。

小鳥のさえずりを聞きながら、森の小道を進み、より奥へと足を踏み入れる。


これから一週間、あの別荘で王妃と過ごすのか――


さわやかな森の空気とは異なる、陰鬱な気持ちがラウルの胸に湧き起こる。

義務的な夜と他人行儀な手紙のやりとりは、多少はお互いの距離を縮めてくれてはいたが、親しみだとか仲良くだとかとは程遠い。

ティエリーのおかげで、身を苛むほどの憎しみはなりを潜めていても、まだどこかにくすぶっている。


いっそ、王妃が体調を崩しているからと言って、城に帰ってしまおうか。


「そんなことしたら、ティエリーのやつに張っ倒されるな」


がりがりと頭を掻き、うーんと伸びをする。

濃厚な緑の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、体の隅々まで清められるような気がした。


このまま、俺の胸の内まできれいさっぱり清めてくれればいいのに。


そう思いながら、木漏れ日が地面にきらきらと揺れるのをなんとはなしに見る。

すると、ふいに鳥の鳴き声がやんだ。


「? なんだ?

 ……うっ」


バサバサバサーーー!

周囲の木々から鳥が一斉に飛び立ち、ラウルの目の前に茶色の野兎が飛び出してきた。


「わーーー!

 ちょっと、そこのあなた、どいてーーー!」


ラウルが木陰に身を寄せるのと、キィと鳴いた野兎が矢に貫かれ絶命するのとはほぼ同時だった。


「やぁ、ごめん。

 まさかこんなところに人がいるとは。

 罠にかけたところまではよかったんだけどさ、捕まえようとしたときに逃げられちゃって……」


藪をかきわけ声の主が姿を現す。

森に小鳥の鳴き声が戻り、木漏れ日がきらきらと揺れる。

緑はなお濃く香り、男を包む。


先ほどまでと同じ森。

城からほどよい距離で、自然が多いのが気に入り、去年も一昨年も訪れた別荘。

それが、彼女を見た瞬間、色を変えたような気がした。


その人は、頭についた葉っぱを払い落とそうとしたが、髪にからまってうまくいかず、結わえていた紐をほどいて、無造作に頭を左右にふった。

栗色の髪が空気を含んでふわりとふくらむ。

森の匂いとは違う、甘い香りが鼻孔をくすぐる。

額にうかぶ汗を袖でぬぐって、髪を結いなおす。

腕をあげた拍子に、以前よりずっと育った服の上からでもわかる胸のふくらみが、誘うように揺れた。


出会った時は子どもだった。

この間、ふいに見かけたとき、少女になったと思った。


彼女は、仕留めた野兎の耳をつかんで持ち上げる。

矢は急所を貫いていた。

木立の中、狙い通りだとすれば、いい腕だ。

生きるために獲物を狩る彼女は、生命力にあふれ、まぶしいほどに美しかった。


「え? あれ?

 おーい、今、人がいたよね?

 まさか、熊……」


「誰が熊だ」


まだ木陰に身を隠したままだったラウルは、少女の問いかけについ顔をのぞかせて答えてしまった。


「……! ラウル!」


少女の顔色が変わる。

しまった、また逃げられる!

そう思った男は、木陰を飛び出し必死で腕をつかんだ。


「痛っ……!」


「あ、す、すまん」


短い悲鳴とつかんだ腕の細さに驚き、手を放す。

しかしここで逃げられるわけにはいかないと思ったラウルは、少女の腰に手をまわし、その腕の中に抱きこんだ。


「……なにをする……!」


身をよじる少女は気付いていない。

逃げようとする動作が、男の腹にその胸をこすりつけるような結果になっていることに。

揺れる髪が、誘うような甘い香りを振りまいていることに。


「おまえ、なんでここにいる」


柔らかな胸の感触と、少女の香りがラウルの心臓を高鳴らせる。

今すぐにでも押し倒したい衝動と必死に戦う男は、少女が不自然に固まったことに気付かなかった。


「な、なんでって?」


「この森は王の領地だ。勝手に入っていい場所ではないぞ。

 それに、なぜデナーシェの民がなぜオーレリアにいる?」


「え……あ……何、そゆこと?

 えーと、あのね……」


答えを探すためか、大人しくなった少女の細い肩を、ラウルは抱く。

身をかがめてふわふわの髪に顔を寄せれば、なお強く少女の香りを感じた。


「狩りを、そう、狩りをしてて、ごめんね、迷い込んじゃって。

 えと、オーレリアに来たのは」


言いながら、少女は男との間に滑り込ませた左手で、厚い胸板をぐいぐいと押す。

右手は野兎を持っているため使えないようだ。

邪魔な手を避け、ラウルが少女の言葉の先を紡ぐ。


「最近、デナーシェとの交流がさかんになってきたからな。

 出稼ぎにきたのか?」


「う、うん、そう。そんなところ」


少女は男を見上げ、お愛想程度に口の端をあげる。

その間にも、抱き寄せたいラウルと身を離したい少女の攻防が、お互いの間で繰り広げられていた。

少女の腕をとらえつつ、ラウルはついさっきまでの暗い気持ちなど吹き飛んで、手の内に飛び込んできた思いがけない出会いに夢中になる。


「俺の名前を知っていたな」


「え、あの、そりゃそうだよ。

 王様の名前を知らない国民なんていないでしょ」


そうか。

おまえは俺の民か。


たったそれだけのことなのに、ラウルの胸にはじわっと喜びが広がる。

ラウルの手から逃れた少女の手が、ぐいーっとつっぱろうとするのを押しのけて、頭を抱え込み撫でる。

密着した体の柔らかさが心地よく、髪は覚えていたとおりの撫で心地だった。


「ちょ……あの、やめて……」


腕の中に閉じ込められ、くぐもって震える声は、どこかで聞き覚えがあるような気がした。

が、ラウルはそれを追及するよりも、目の前の感触を楽しむほうを優先する。

頭を上から抑えるように顎をのせ、後頭部をひと撫でして結い直されたばかりの紐をほどく。

ふわりと広がった髪に指を差し入れ、汗ばんだうなじをたどってから耳の後ろを通って顎を掬いあげた。


「んん……」


すくぐったそうに首を振る、少女のしぐさが愛らしい。


「おまえの名は?

 あの時は名乗り合うことはできなかったが、オーレリアに来た今ならいいだろう?

 おまえは俺の名を知っているのに、俺がおまえの名を知らないのはおかしいよな」


頬を撫で、下唇を指の腹でなぞる。

うすく開けられた口が、口づけをねだっているようだ。


「リ……」


「リ?」


問いかけながらも、指は少女の髪の感触を楽しみ、目は唇から離すことができない。


「リズだ! この変態!!」


ラウルの後頭部に衝撃が走った。

目の前が真っ赤に染まる。

野兎で殴られたと気付いた時には、男は意識を手放していた。






あぁ、またユリアに怒られる。


倒れた男を見下ろして、リゼットは頭を抱えた。

体や後頭部を撫でまわされ、つい手にしていた獲物で殴ってしまった。

なんの処理もしていなかった野兎からは、矢を抜いた場所から血が飛び出し、ラウルの髪をべっとりと汚していた。

このままでは死体のようだ。

仕方なく大きな体をずるずるとひっぱって木の幹に寄りかからせると、近くの小川で手巾をぬらし、丁寧に血を拭った。


「どうしよう……。ここに置いていくわけにはいかないよね……」


本当はそのまま放りだしていきたかった。

さっきの様子では、リゼットとリュシエンヌが同一人物とは気付いていなかったようだが、長くいれば気付くかもしれない。

それにあの指。

数年前に頭を撫でられたときには、大きな手で気持ちがいいなとしか思わなかった。

それが今日はどうしたことだろうか。

男の指が髪をすいたり首筋をなぞったりするたび、ぞくりと腰のあたりが震えた。

顔が近くて、胸がどきどきと鳴った。

もうすでに何回か、一部分だけはこれ以上ないというほど接触してきたのに、それよりも一般的な部分の触れあいが、なぜか苦しかった。


「うう……ん」


髪がすっかりきれいになって乾き、手慰みに近くの固い木の枝で矢を何本か作り終えたころ。

男が目を覚ました。


「大丈夫? ……ごめんね」


とりあえず謝っておこう。

そう思ったリゼットは、男の顔を覗き込み、謝罪の言葉を口にする。


「あぁ、いや……。俺も悪かった」


まだ半分ぼおっとした様子だったが、許しの言葉は聞いた。

これ幸いとその場を後にしようとしたリゼットだったが、がっしりとした腕が足首をつかんでいた。


「こら、また逃げる気だな」


そんなに力が入っているようにも見えないが、まったく動くことができない。


「なんだよ。名前は教えたでしょ。」


木の幹にもたれかかったまま、男が見つめてくる。

あぁ、彼の瞳は青かったんだ。

リゼットは、唐突にそのことに気付いた。

いや、今までも知っていたはずだったけれども、こんなにまっすぐに覗き込んだことはなかった。

木々の間を抜ける心地よい風に揺れる黒髪。

長めの前髪が端正な顔にかかる。

先ほどまで、血をぬぐうために散々触れたというのに、今はなんだか思い出すだけでどきどきする。

いつも夫の前にいるときは、ボロがでないようにと自分の身ぶりにばかり気にしているリゼットである。

だから、こんなにじっくり男のことを見つめたことはなかった。


「それ……リズが作ったのか」


手にもっていた矢を、ラウルが目で指す。

いきなり本名のほうでよばれて、リゼットの心臓がはねた。

店屋のおかみに呼ばれたときとは違う、なんだかくすぐったいような居心地が悪いような心地がして、リゼットは目をそらせて意味もなく矢を上下させた。


「う、うん。

 買うと高いし、自分の獲物をとるくらいなら十分」


「へぇ……たいしたものだな」


ラウルは、心底感心したようにリゼットを見つめる。

目覚めてから、男は一時も少女から目を離さない。

これもリゼットが落ち着かない一因だ。


「明日も来るか」


リゼットがもじもじしていると、突然、男がそんなことを言った。

明日って、そうだ、ラウルは明日来るはずではなかったか。

いきなり森でばったり会って、気が動転していたけれど、リゼットはユリアからそう聞いていた。

だから羽を伸ばせるのは今日までと思い、森に来ていたのだ。

昨日仕掛けた罠を確認して野兎がかかっているのを見つけ、追いかけてきたらラウルがいた。


「もう来ないよ」


来られるわけがない。

避暑休暇の残りの一週間は、別荘でラウルと過ごす予定なのだから。

しかしその答えを拒絶ととったのか、穏やかだった青い瞳に剣呑な光が宿った。


「来ないとはどういうことだ。

 俺に会ったからか」


はい、そうです。なんて誰が答えられるというのか。

困ってしまったリゼットに、ラウルは畳み掛けるように言う。


「ここは王領だと言っただろう。

 勝手に入ったおまえは普通なら牢にぶちこまれても文句はいえないんだぞ。

 あまつさえ狩りをしていたな。この森に住む生き物はすべて俺のものだ。

 それを害したとなったら……」


「わあぁ、はいはい、ごめんなさい。

 これ返す! 返すから許して」


本当は王妃なんだから、自由にしていいのだ。

でも今のリゼットはリュシエンヌではなく“リズ”だ。

口が裂けても、あなたの妻です、なんて言えない。

血抜きをし、下処理をして大きな葉でつつんだ野兎の肉をラウルの腹の上に置いて「これでいい?」とそろりと顔をのぞきこんだ。

しかし男は無情にも、


「許さん」


と一言言ってのけた。


「そんな……どうすれば」


「そうだな。明日も来るなら許してやる。

 そこの小川を上に辿っていくと、ちょっと開けた場所がある。

 そこで待っていろ」


困り果てたリゼットを楽しそうに見て言った男は、少女の髪を一房つかみ、口づける。

どくんとはねた心臓に声を出すこともできず、リゼットはこくこくと頷きだけ返して、いつのまにか自由になっていた足を精一杯動かしてその場から逃げた。

残された男は、少女の姿が消えるまでじっとその背中を目で追っていた。






どれほどそうしていただろうか。

はらりと落ちてきた葉に、我に返る。

全く変わらぬ森の様子に、夢でも見ていたような気分になった男は、上着の隠しに手を入れた。

取り出されたのは、細い糸を複雑に組んで作られた一本の紐。

彼女の髪をほどいたときに、つい仕舞い込んでしまったものだ。


「リズ……」


ようやく、名前を聞けた。

少女の髪にしたように、男はその紐に愛おしそうに口づけた。





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