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世界はなぜ現在を否定するのか

作者: 天秤座
掲載日:2026/07/31

 


 現在の世界は、誰か一人が完成図を描き、その通りに作り上げたものではない。


 政治も、経済も、医療も、教育も、その時代に生じた問題へ対処するため、継ぎ足すように形作られてきた。


 問題が起きる。


 制度が作られる。


 制度によって人の行動が変わり、当初は想定されていなかった利益や不利益が生じる。その結果へ対処するため、さらに新しい規則や組織が加えられる。


 一つの結果が、次の原因になる。


 しかも、その影響は一つの分野だけで完結しない。


 政治判断は経済へ影響する。経済状況は家庭や教育を変える。人口構成の変化は、医療や社会保障へ返ってくる。技術の発展は情報環境を変え、情報環境の変化が政治判断にまで影響する。


 原因と結果は直線ではつながらない。


 互いに絡み合い、遠回りし、ときには元の場所へ戻りながら、以前とは違う状況を作る。


 私は、この連鎖を無限螺旋構造として捉えている。


 螺旋と呼ぶのは、世界が似た問題を繰り返しながらも、完全に同じ場所へ戻るわけではないからだ。


 格差は何度も生まれる。


 しかし、土地や身分による格差と、資本、教育、情報、技術による格差は同じではない。


 権力は何度も腐敗する。


 だが、武力によって異論を抑える時代と、制度、情報、経済的不利益によって異論を抑える時代では、その方法も見え方も異なる。


 過去は消えない。


 法律、文化、知識、成功体験、恐怖、利害関係として残り、次の時代へ持ち越される。


 世界は繰り返す。


 ただし、過去に積み上げたものを抱えたまま繰り返す。


 現在とは、その長い螺旋が、一時的に形を結んだ地点である。


 現在は偶然だが、無秩序ではない


 歴史上の出来事を一つずつ見れば、現在は偶然の積み重ねにも思える。


 ある人物が選挙に勝った。


 ある発明が成功した。


 ある交渉が決裂した。


 ある災害や感染症が、社会制度を変えた。


 どこか一つでも結果が違えば、今とは異なる世界が成立していた可能性はある。


 しかし、別の可能性があったことは、すべての可能性が同じ確率で起こり得たことを意味しない。


 社会には、特定の結果を生じやすくする条件がある。


 権力が一部へ集中すれば、それを私物化する者が現れる可能性は高くなる。


 生活が不安定になれば、急進的な主張に救いを求める者も増えやすい。


 教育と情報への接触が広がれば、制度の矛盾を見つけ、言葉にする者も増える。


 もちろん、個人単位では例外がある。


 貧困の中でも犯罪を犯さない者はいる。強い権力を持ちながら、それを私益に使わない者もいる。高い教育を受けても制度を疑わない者がいれば、専門教育を受けずに本質的な問題へ気づく者もいる。


 人間は、統計の中へ完全には収まらない。


 だが、多くの人間へ同じ条件が繰り返し与えられれば、偏りは傾向として現れる。


 統計や確率は、個人の運命を決めるものではない。


 その代わり、どのような条件が、どのような結果を増やしやすいかを示してくれる。


 現在の世界も同じである。


 過去から受け継がれた条件が、人々の選択を少しずつ偏らせた。その選択の結果が次の条件になり、さらに別の選択を偏らせた。


 偶然はある。


 だが、偶然は条件から自由ではない。


 現在とは、無数の偶然が、過去から続く条件によって一定の方向へ傾けられた結果である。


 それは一つの収束ではあるが、完成ではない。


 現在が過去の結果であることと、現在が正しいことは別だからだ。


 むしろ、現在という結果が新しい問題を生み始めた瞬間から、次の収束はすでに始まっている。


 政治が民意を受け取れなくなるとき


 政治は、本来、社会全体の利益を調整するために存在する。


 法律を定め、税を集め、安全保障、福祉、教育、インフラを整える。国民から権限を預かり、その権限を国民の生活へ還元する。


 理念としては、分かりやすい。


 しかし、政治は理念だけでは動かない。


 選挙に勝つには票が要る。


 政党を維持するには資金と人員が要る。


 政策を実行するには官僚機構の協力が必要であり、専門分野を扱うには業界団体から情報を得なければならない。


 政治と組織が結びつくこと自体は避けられない。


 すべての国民から同じ密度で意見を聞くことはできない以上、社会の一部を代表する団体と協議する必要はある。


 問題は、その関係が固定された後である。


 国民全体の利益は広く、効果も見えにくい。


 一方、制度改革によって損をする業界や地域は、誰が、どれだけ、何を失うのかが明確である。


 広く薄く利益を得る多数より、狭く深く損をする少数の方が、強く政治へ働きかける。


 政治家にとっても、将来の国民全体より、次の選挙で確実に支えてくれる集団の方が近い。


 その積み重ねによって、政治は少しずつ変質する。


 国民の意思を実現する仕組みから、衝突する利害を処理し、現在の支持関係を壊さないための仕組みへ。


 必要性が薄れた制度でも、廃止すれば反発が起きる。


 行政組織の統合が合理的でも、権限、予算、雇用を失う側は抵抗する。


 国民には改革の痛みを求めながら、政治側の慣習や特権には手を付けない。


 一つずつを見れば、事情はあるだろう。


 だが、事情を考慮し続けた結果、全体の不合理だけが残るなら、国民はやがて疑い始める。


 政治は、本当に国民のために動いているのか。


 制度は問題を解決するためではなく、制度に関わる者を守るために残されているのではないか。


 政治への否定は、ここから生まれる。


 その批判が、すべて正しいわけではない。


 制度の複雑さを無視し、あらゆる失敗を腐敗や陰謀で説明する者もいる。実現可能性を考えず、壊すことだけを要求する者もいる。


 だが、批判者の説明が不正確だからといって、批判を生んだ経験まで消えるわけではない。


 公約と実行が何度も食い違った。


 問題が起きても、責任の所在が曖昧なまま終わった。


 国民には制度への理解を求めながら、その制度は専門用語と複雑な手続きの中へ埋もれていた。


 失敗するたびに、制度上の問題ではなく、運用上の問題、担当者個人の判断、想定外として処理された。


 それが一度なら、例外として受け入れられる。


 何度も続けば、制度そのものへの評価に変わる。


 政治を否定する者は、政治の外から現れた敵ではない。


 現在の政治が、自らへの否定を育てたのである。


 経済合理性が社会の不合理へ変わる


 経済では、別の形で現在の自己否定が起きる。


 企業が利益を求めることには合理性がある。


 利益がなければ、設備を維持できず、研究開発も雇用も続かない。需要に応じて商品を作り、競争によって価格や品質を改善する市場の働きは、人間社会を大きく豊かにしてきた。


 問題は、個々の主体にとって合理的な判断が、社会全体にとっても合理的とは限らないことである。


 一つの企業だけを見れば、人件費を抑える判断は正しい。


 余剰人員を減らし、仕入れ価格を下げ、短期間で利益を生まない事業を整理する。数字だけを見れば、経営は改善する。


 では、多くの企業が同じ判断を続けたらどうなるか。


 賃金を抑えられた労働者は、同時に消費者でもある。


 雇用が不安定になれば、大きな買い物、結婚、出産、教育への支出をためらう。


 下請けへ負担を移せば、大企業の利益は守られるが、取引先では設備更新も人材育成も難しくなる。


 短期利益を優先して研究や教育を削れば、数年後の収益は守れても、さらに先の技術力や生産性が失われる。


 誰か一人が不合理な判断をしたわけではない。


 それぞれが、自分の範囲では合理的に動いている。


 その合理性が積み重なった結果、需要が縮小し、人材が育たず、出生率が下がり、社会保障を支える人口も減っていく。


 局所的合理性が、全体の持続可能性を壊す。


 それでも、経済は数字によって正常さを説明できる。


 企業利益が増えた。


 株価が上がった。


 雇用者数が維持された。


 国内総生産が成長した。


 どれも重要な指標であり、無意味ではない。


 だが、指標が示す成長と、生活者が経験する豊かさは同じではない。


 利益が賃金へ回らず、資産を持つ者へ集中すれば、経済全体が成長しても、多くの人間の生活は楽にならない。


 雇用が存在しても、一つの仕事だけで生活を安定させられなければ、雇用の量だけでは現実を説明できない。


 物価上昇によって名目上の売上や税収が増えても、同じ収入で購入できるものが減れば、生活は後退している。


 ここで生じるのは、数字と実感の対立である。


 制度を説明する側は、統計上は改善していると言う。


 生活する側は、以前より苦しくなったと感じる。


 どちらか一方が必ず嘘をついているとは限らない。


 見ている場所が違う。


 だからこそ、生活者の困難を数字だけで否定してはいけない。


 統計は現実を理解するための道具であって、現実を黙らせるための道具ではないからだ。


 働いても豊かになれない。


 努力しても、住居、教育、子育て、老後への不安が消えない。


 それに対して、能力不足、努力不足、自己責任という説明だけが返される。


 一人の失敗なら、個人の判断に原因があるかもしれない。


 同じ条件の下で、似た困窮が大量に発生しているなら、個人の責任だけでは説明が足りない。


 それでも個人へ責任を押し戻し続ければ、現在の経済を否定する者は増える。


 資本主義そのものを疑う者。


 過剰な規制や税負担を批判する者。


 企業の利益配分に問題を感じる者。


 政府の介入不足を問題にする者もいれば、介入しすぎだと考える者もいる。


 解決策は一致しない。


 しかし、異なる立場の人々が、


 現在の経済は正常に機能していない。


 という一点で重なり始めるなら、その一致には意味がある。


 同じ思想へ染まったのではない。


 異なる場所から、同じ異常を見つけ始めたのである。


 専門性が権威へ変わるとき


 医療の問題では、政治や経済とは異なる壁が現れる。


 専門性である。


 医療制度は、一般的な感覚だけで変更できるものではない。


 診断、治療、薬剤、安全管理、感染症対策。判断を誤れば、制度上の損失ではなく、人命そのものが失われる。


 医師会をはじめとする専門職団体が、行政へ現場の意見を伝え、医療の質や職業環境を守ることには必要性がある。


 専門家を排除した改革は危険である。


 外部の人間には見えない制約も多い。


 だから医療への批判は、簡単に退けられる。


 現場を知らない。


 専門知識がない。


 人命に関わる問題を軽く考えている。


 実際、その通りの批判もある。


 医療従事者の負担や安全上の制約を無視し、費用や待ち時間だけを見て単純な改革を求めれば、結果として医療の質を損なう可能性がある。


 しかし、専門性が必要であることと、専門家集団の判断が常に公共の利益を優先していることは同じではない。


 どの組織にも、構成員の生活、地位、収入、権限を守る働きが生まれる。


 医療を守るために作られた組織であっても、長く続けば、既存の医療機関、診療報酬、病床、権限、影響力を維持しようとする。


 オンライン診療。


 病床や診療科の再編。


 医師の地域偏在。


 医学部の定員。


 診療報酬や薬価の配分。


 予防医療と治療医療の比重。


 どの問題にも、患者の安全、現場の負担、財政、既存事業者の利益が重なっている。


 そのため、安全上の慎重論と、組織防衛のための抵抗を完全に分けることは難しい。


 患者のため。


 地域医療を守るため。


 医療の質を落とさないため。


 どれも正しい言葉である。


 正しい言葉だからこそ、自らの利益を覆い隠すためにも使える。


 問題は、医師会が善か悪かではない。


 専門性を持つ組織が、自らの判断をどこまで検証可能な形で社会へ示しているかである。


 専門家にしか理解できない領域があるなら、社会は一定の判断を専門家へ委ねなければならない。


 だが、判断を委ねられることは、説明を免除されることではない。


 むしろ逆である。


 社会の側が詳細を検証しにくいからこそ、専門家には、自らの利益と公共の利益をどのように区別したのかを示す責任が生まれる。


 国民は税や保険料を負担し、患者として制度の影響を受けている。


 医療費の増大、地域格差、待ち時間、受診の難しさ、説明不足へ疑問を持つ資格がある。


 その疑問に対し、知識がないという理由だけで退場を命じれば、専門性は社会を守るための能力ではなく、批判を拒むための権威へ変わる。


 医療制度を否定する者の中には、誤解や偏見を持つ者もいる。


 だから、批判の中身は検証しなければならない。


 一方で、批判者の誤りを理由に、制度側の自己検証まで止めてしまえば、医療を守る組織は、現在の医療制度を守る組織へ変質する。


 患者を守ることと、現在の制度を守ることが一致しなくなったとき、その矛盾から否定が生まれる。


 制度は自らの目的を食べ始める


 政治では、支持と利害の固定化が、国民全体の利益を後回しにした。


 経済では、個別の合理性が積み重なり、社会全体の不合理へ反転した。


 医療では、必要な専門性が、説明を拒む権威へ変わる危険を持った。


 問題の形は違う。


 根にあるものは似ている。


 制度は、何らかの目的を果たすために作られる。


 政治は、社会を統治するため。


 企業は、商品やサービスを生産し、利益を得ながら活動を継続するため。


 専門職団体は、知識と職業環境を守り、社会へ貢献するため。


 制度が機能するには、人材、資金、権限、規則が必要になる。


 長く続けば、その制度によって生活する人間が増える。制度を前提に事業を行う組織も生まれる。内部には専門知識が蓄積し、外部から簡単には変更できなくなる。


 そこで制度は、本来の目的とは別の目的を持ち始める。


 自らの存続である。


 存続自体が悪いわけではない。


 有効な制度を安易に壊せば、社会は蓄積した機能や知識を失う。そこで働く人々にも生活があり、変化には失敗の危険がある。


 現状維持を選ぶ理由は理解できる。


 理解できることと、正しいことは同じではない。


 制度が本来の目的を損なってまで自らを守り始めれば、存続は手段から目的へ反転する。


 国民を守るはずの政治が、政治的関係を守る。


 豊かさを生むはずの経済が、利益指標を守る。


 患者を守るはずの医療制度が、現在の提供体制を守る。


 制度は、目的を達成するための道具として生まれながら、やがて目的そのものを食べ始める。


 その変質によって不利益を受けた者が、制度を疑う。


 制度側は、その疑いを自らへの攻撃として受け取る。


 内容を検証するより、批判者の信頼性を落とした方が、制度を変えずに済む。


 ここから封殺が始まる。


 封殺という自己正当化


 反対意見は、存在するだけで正しいわけではない。


 少数派だから先進的とも限らず、多数派だから現実的とも限らない。


 現在の制度を否定する思想が、現在より悪い構造を生み出す可能性もある。


 だから反対意見に必要なのは、賞賛でも排除でもない。


 検証である。


 前提は事実か。


 原因と結果は、本当につながっているか。


 一部の事例を、全体へ拡大していないか。


 自分に都合の悪い情報を無視していないか。


 代替案は、現行制度の問題を減らす代わりに、どのような問題を生むのか。


 反対意見が誤っているなら、その誤りを示せばよい。


 ところが現実には、主張そのものではなく、発言者を処理することで議論を終わらせることがある。


 素人だから。


 過激だから。


 現実を知らないから。


 社会経験がないから。


 陰謀論者と似た言葉を使っているから。


 信用できない集団に属しているから。


 発言者の経歴や所属は、情報の信頼性を判断する材料にはなる。


 だが、発言者が信用できないことは、その主張が必ず誤っていることを証明しない。


 内容へ答えず、属性によって発言権を失わせる。


 不都合な数字を出した者を、危険人物として扱う。


 制度上の矛盾を指摘する者を、秩序を乱す存在とみなす。


 これは反論ではない。


 現在の問題を、見えない場所へ押し込んでいるだけである。


 封殺する側は、自らを正義と考えやすい。


 誤情報から社会を守る。


 専門家への不当な攻撃を防ぐ。


 混乱や差別を広げない。


 秩序を維持する。


 目的として正しい場合もある。


 だからこそ、自分の欲望を正義の中へ隠しやすい。


 支持してきた制度が間違っていると認めたくない。


 利益を得ている構造を失いたくない。


 所属組織の権威を疑われたくない。


 未知の変化を恐れている。


 その欲望を、常識、安全、専門性、社会秩序という言葉で覆い、論理的に検討できる反対意見まで排除する。


 それが、封殺による自己正当化である。


 世界を理解するために論理を使う者と、自分を守るために論理を使う者は、表面上よく似ている。


 どちらも証拠を示し、整合性を語り、誤りを指摘する。


 違いは、自分に不利な情報が現れたときに表れる。


 世界を理解したい者は、情報に合わせて自分の結論を修正する。


 自己正当化を目的とする者は、結論を守るために情報の価値を下げる。


 論理を語れるかどうかではない。


 論理によって、自分自身を否定できるかどうかである。


 増加する否定は、世界からの情報である


 一人の人間が制度を否定したなら、その人の誤解や個人的経験で説明できるかもしれない。


 同じ集団に属する者が似た意見を語っているなら、互いの影響や思想的な偏りも考えられる。


 しかし、異なる地域、世代、職業、政治的立場の人々が、別々の経験を通じて似た疑問へ到達しているなら、共通の原因を疑う必要がある。


 政治家を信頼できない。


 働いても生活が安定しない。


 専門家や業界団体が、公共より自らの利益を守っている。


 制度は利用者のためではなく、制度を運用する側のために存在している。


 こうした認識が広い範囲で同時に生まれるとき、すべてを無知、扇動、流行だけで説明するのは難しい。


 もちろん、情報環境は人間の認識を歪める。


 SNSでは、怒りや恐怖を刺激する情報ほど広がりやすい。複雑な制度を説明する文章より、分かりやすい敵を一人置く主張の方が受け入れられやすい。


 現実の問題が誇張され、誤った原因へ結びつけられることもある。


 だが、誤情報が広がったという説明だけでは足りない。


 なぜ、人々はその誤情報を信じたのか。


 なぜ、公式の説明より、粗雑な別解を選んだのか。


 制度への信頼が十分に残っているなら、極端な説明だけで大勢を動かすことは難しい。


 公式の説明が、自分の経験している苦しさを説明してくれない。


 専門家は制度の必要性を語るが、その制度によって生じている負担には答えない。


 政治は成果を示すが、責任や不利益は曖昧にする。


 その空白を埋める言葉として、誤った説明が選ばれることがある。


 ならば、誤情報を訂正するだけでは終わらない。


 誤った答えを否定しても、答えを求めさせた疑問が残っていれば、人々は次の答えを探す。


 現在を否定する思想が増えているなら、個々の思想の正誤だけでなく、その増加自体を観察しなければならない。


 増加とは、世界の内部で同じ条件が繰り返し働き、似た結果を生み始めたという情報だからだ。


 反対意見は、必ずしも世界の答えではない。


 だが、その発生と増加は、現在を読み解くための資料である。


 世界は人間を通じて自らを否定する


 世界そのものに、人間のような意思があるわけではない。


 政治制度が考え、経済が苦しみ、医療制度が反省するわけでもない。


 それでも、現在の構造が人間へ影響を与え、その人間が構造を否定し、その否定が次の制度を形成するなら、世界は人間を通じて自らを変えていると言える。


 現在の政治が、政治不信を育てる。


 現在の経済が、経済構造への否定を生む。


 現在の医療制度が、専門家組織への疑念を強める。


 否定を抑えるために行われた封殺が、制度への不信をさらに増やす。


 結果が次の原因となり、現在を守るための行動が、現在を否定する力へ変わって戻ってくる。


 無限螺旋構造とは、単に世界が複雑だという話ではない。


 自らが生み出した結果によって、現在の構造そのものが変化を迫られるという話でもある。


 現在は、外部の敵だけによって壊されるのではない。


 内部に蓄積した矛盾が、人間の認識と行動を通じて現在を否定し始める。


 制度は、法律や権力だけで維持されているわけではない。


 多くの人間が、不完全ではあっても従う価値があると考えているから維持される。


 政治への信頼が失われれば、法律が残っていても正統性は弱くなる。


 経済への期待が失われれば、努力、投資、消費を促す力が落ちる。


 医療への信頼が失われれば、専門家の正しい助言まで疑われる。


 制度が崩壊する前に、その制度を支えていた前提が崩れる。


 この仕組みは、不完全ではあっても、自分たちのために存在している。


 その認識である。


 世界転換の特異点


 現在を否定する者が増えたからといって、必ず世界が変わるわけではない。


 不満があっても、代替案がなければ現状は続く。


 変化を求める者同士が対立し、力を失うこともある。


 既存制度には、資金、法律、組織、専門知識、社会的権威が蓄積している。問題があっても、未知の仕組みより安定している場合は多い。


 変化によって、状況が悪化する可能性もある。


 だから、現在への否定が増えたという理由だけで、その否定を正しい未来とみなすべきではない。


 しかし、未来が確定していないことと、兆候を無視してよいことは別である。


 同じ否定が繰り返し現れる。


 異なる集団へ広がる。


 制度側の説明や権威では納得させられなくなる。


 一部の異常者の意見とされていたものが、社会の共通認識へ近づいていく。


 制度を信頼することが常識だった社会で、制度を疑うことが常識になる。


 この変化は、革命の日に突然始まるのではない。


 小さな違和感が蓄積する。


 一度の失敗なら例外として受け入れた者が、同じ説明と同じ失敗を何度も見る。


 自分だけの不満だと思っていた者が、他者も同じ経験をしていると知る。


 違和感が言葉になり、言葉が共有され、共有された認識が新しい判断基準になる。


 そして、ある地点を越えたとき、現在を維持する力より、現在を否定する力の方が強くなる。


 それまで制度を支えていた者が離れ始める。


 組織の内部からも、外部の批判と同じ疑問が語られる。


 現在を守っていた常識や権威が、現在を守る理由として機能しなくなる。


 私は、その地点を世界転換の特異点と呼ぶ。


 それは、政権が倒れた瞬間や、制度が廃止された瞬間だけを指すのではない。


 世界が、現在を正しい前提として維持できなくなった地点である。


 政治は国民のために機能している。


 経済成長は生活を豊かにする。


 専門家組織は公共の利益を優先する。


 そうした前提と現実の乖離を、多数の人間が見過ごせなくなる。


 制度そのものは残っていても、信頼、正統性、期待が失われたなら、次の世界への収束はすでに始まっている。


 現在は未来から検証されている


 私たちは、現在の内部で生きている。


 現在の制度によって教育を受け、働き、税を払い、医療を受け、法律に従う。


 そのため、現在の仕組みを世界そのものと混同しやすい。


 だが、現在は世界の最終形ではない。


 過去の問題と選択が、一時的に収束した状態にすぎない。


 そして現在も、新たな問題と選択を生み続けている。


 論理や構造を根拠として現在を否定する者が現れることも、その流れの中にある。


 彼らの意見が正しいとは限らない。


 だから検証する。


 否定を無条件に受け入れるのではなく、否定が生まれた原因と、その主張の妥当性を分けて考える。


 反対意見が間違っていても、反対意見を生み出した問題まで存在しないとは限らない。


 反対意見を封殺しても、その条件は残る。


 見えない場所へ押し込められた矛盾は、別の言葉、別の集団、別の運動となって現れる。


 それでも現在を守りたいなら、何を守ろうとしているのかを区別しなければならない。


 制度の名称か。


 組織の権威か。


 そこで利益を得る者の地位か。


 それとも、その制度が本来果たすはずだった目的か。


 現在を否定する者を消すことでしか維持できない制度は、すでに本来の目的を見失っている可能性がある。


 世界が現在を否定し始めるとは、世界に意思が宿ることではない。


 現在が生み出した人間たちが、現在の論理だけでは現在を正当化できないと気づき始めることである。


 その気づきが、現在を修正する力になるのか。


 より悪い混乱へ向かうのか。


 次の構造を生み出す転換点になるのか。


 未来はまだ決まっていない。


 ただし、現在はすでに問われている。


 過去が生み出した一時的な答えとして、未来から検証されている。


 その問いを封じれば、現在を守れるわけではない。


 答えを出す機会を失い、矛盾だけを次の時代へ送り出すことになる。


 現在とは、過去が残した最後の回答ではない。


 世界が次の答えへ移るまでの、検証途中の仮説なのである。



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