ねずみ
八月の終わりだった。
大学二年の夏休みも残りわずかとなり、私は数年ぶりに祖父母の家を訪れていた。
祖父母の住む村は山間部にある小さな集落だ。
最寄り駅から車で一時間以上。道中にはコンビニすらなく、見えるのは田んぼと山ばかりだった。
子供の頃、私は毎年のようにこの村を訪れていた。
夏になれば虫取り網を持って祖父の後ろをついて歩き、夜は祖母と一緒に縁側でスイカを食べる。祖父は寡黙だったが、釣りや野菜の育て方を教えてくれたし、祖母はいつだって私の好物を用意して待っていてくれた。
高校に入ってからは部活や受験で忙しくなり、大学進学後はアルバイトも始めたことで、自然と足が遠のいていた。
それだけに、久しぶりの帰省を二人とも心から喜んでくれた。
「大きくなったなぁ。最後に来た時より背が伸びたんじゃないかい」
祖母はそう言いながら、次から次へと料理を運んでくる。
「もう大学生なんだから、そんなに変わらないよ」
「いや、変わったさ。顔つきが大人になった」
祖父が珍しく笑った。
照れ臭くなった私は曖昧に笑ってごまかした。
夕食は相変わらず豪華だった。祖父の畑で採れた野菜、川魚の塩焼き、煮物に漬物。都会で一人暮らしを始めてから、これほど品数の多い食事をする機会はほとんどない。
「ちゃんと食べてるのか?少し痩せたんじゃないかい?」
「一人暮らしなんてそんなもんだよ」
祖父は眉をひそめた。
「若いうちはちゃんと食わないと駄目だ」
「そうだよ。ほら、しっかり食べなさい」
祖母は私の空いていた茶碗にご飯を山盛り追加した。
祖父母はいつも私を吐く手前まで食べさせようとする。昔から変わらないやり取りだった。
そんなやりとりをしている時、テレビのニュースが始まった。
『県内では農機具や金属類の窃盗事件が相次いでおり――』
画面には盗まれた軽トラックや、バルブを抜かれ水のなくなった田んぼが映し出されていた。
「えぇ……都会でも自転車泥棒とかいるけど、田舎は軽トラを盗まれるのか」
私は思わずニュース映像を二度見した。都会で自転車や傘が盗まれる話はよく聞くが、軽トラックが盗まれるというのは想像したこともなかった。
「不届き者が増えたもんだ。近所の佐藤さんも、前に軽トラを持っていかれた」
「最近では育てた米や果物まで盗まれるんだから、嫌になっちゃうわね」
祖父母は顔をしかめた。二人にとってはニュースの中の出来事ではなく、明日にも自分たちの身に降りかかるかもしれない現実なのだろう。
「ここじゃ生活がかかってる。軽トラ一台なくなれば仕事にならん」
「犯人、早く捕まるといいのにな。人の生活を壊してまで盗みをするなんて、ろくでもない人間だな」
自分でも少し熱くなっているのが分かった。
一人暮らしを始めてから、生活に必要な物のありがたみが身に染みていたからかもしれない。
「ごちそうさま」
祖父は食べ終わると、足早に風呂へ向かった。
私も夕食を終えると、祖母が一階の客間へ案内してくれた。
「布団は敷いてあるからね。何かあったら呼びなさい」
「ありがとう」
「明日帰るんだろ?早くねなきゃ駄目よ」
「心配しなくても大丈夫だよ。もう子供じゃあるまいし」
私は冗談めかしく言うと祖母は「そうね、おっきくなったもんね」と嬉しそうに笑い、部屋を出た。
一階の客間は昔とほとんど変わっていなかった。
家具こそ新しくなっていたが、窓から見える景色は子供の頃のままだ。
私は布団に寝転がると、スマートフォンを取り出し、明日の起床時間にタイマーをセットする。
その時、ちょうど大学の友人から着信が入った。
「今どこ?よかったら飲みに行かない?」
「祖父母の家。悪いけど行けそうにないわ」
「ああ、そういえば田舎に行くとか言ってたな」
「明日には帰るけどな」
「いいなぁ。飯とか美味そう」
「めちゃくちゃ食わされた」
そんな他愛もない話を十分ほど続け、通話を切った。
窓の外では虫の声が絶え間なく響いている。久しぶりの田舎の夜だった。
私はスマートフォンを枕元へ置き、部屋の明かりを消した。
移動で疲れていたこともあり、すぐに眠気が訪れる。
あと数分で眠りに落ちようとした時、小さな音が響いた。
――カリ。
私は目を開く。
――カリ、カリ。
気のせいかと思った。しかし再び何かを引っ掻くような音が響く。
音は床下から聞こえているようだった。
私はしばらく耳を澄ませる。
――カリ、カリ、カリ。
一定ではない。
何かを必死に掻いているような、不規則な音だった。
「……ねずみか?」
古い家だし、不思議ではない。だが自分の寝ている床下にねずみがうろついているのを想像すると、気味が悪かった。
――カリ、カリカリ。
二階で寝ている祖父母を呼ぼうとも考えたが、こんな事でわざわざ夜起こすのは申し訳ない。私は布団を頭まで被り、音が止むのをじっと待った。
――カリカリカリ、カリ。
しばらく音は続いた。
だが、しばらくすると何事もなかったかのように音は止んだ。
私はホッと安堵の息を吐き、安心して眠りについた。
※※※
翌朝、窓越しに差し込む朝日で私は目を覚ました。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえてくる。
都会の喧騒とは違う、田舎らしい穏やかな朝だった。
私は顔を洗おうと台所へ向かうと、祖母が味噌汁を温めながら朝食の支度をしていた。
「おはよう。朝ごはん作ってるから、ちょっと待っててね」
「おはよう。朝からみそ汁を飲むなんて久しぶりだ」
台所に広がる出汁の香りに、私は自然と頬を緩めた。ふと、食卓へ目を向けた私は、いつもなら先に席についているはずの祖父の姿がないことに気が付いた。
「あれ、じいちゃんは?」
「朝早くに呼ばれて出て行ったよ。急ぎの用事らしくてね」
「そうなんだ。大変だね」
「先に食べてなさい。いつ戻れるかわからないって言ってたからね」
食卓には焼き鮭に卵焼き、味噌汁、それに昨夜の煮物が並んでいた。
どれも素朴な料理だったが、一人暮らしの私にはそれだけでご馳走だった。
「うわ、朝から豪華だね」
私は手を合わせると箸を取った。どれも昔から変わらない、懐かしい味だった。
「そういえば、昨日はちゃんと眠れたかい?」
「あー……眠れはしたけど、なんか床下から音がしてさ。気になって寝るのに時間は掛かっちゃったかな」
「音?」
「うん。何かを引っ掻くような音。ねずみかな?」
祖母の箸が止まった。
「古い家だからねぇ……後で見ておくよ」
祖母はそう言うと穏やかに笑った。
朝食を食べ終えた後、私は家を出る荷造りを始めた。元々、一泊だけの予定だった為、大した荷物はなく直ぐに準備は終わった。
駅まで向かうバスの時間はまだ先だが、なにせ田舎のバスだ。午前中のバスを乗り過ごしたら次は昼過ぎになる。
乗り遅れないためにも、予定より早く家を出ることにした。
「少し早いけど、そろそろ行くよ」
「そうかい。またいつでも帰っておいで」
「うん。また来るよ。じいちゃんにもまた来るって伝えておいて」
私はそう言うと、祖母に見送られながら村を後にした。
しかしバス停まで半ば程歩いた時、時間を確認しようとスマートフォンを取り出そうとした時だった。
「あれ?スマホどこいった?」
ズボンのポケットにも荷物のなかにも見当たらない。そうなると、祖父母の家に忘れてきてしまった。最後に使ったのは昨夜の客間だ。
私は舌打ちしそうになるのを堪え、慌てて来た道を引き返す。
真夏の日差しの下を早足で歩きながら、どうか見つかってくれと祈る。
ようやく家が見えてきた時だった。
玄関を開けると、田舎には似つかわしくない量の靴が玄関にあった。
近所の人が来ているのだろうか。
何か集まりがあったら邪魔するのも申し訳ない。私はそっと、静かに家に上がり、スマホを探しに客間に向かう。
客間に入ると、家の床下に続く戸が開いていた。
その周囲を祖父と数人の近所の人達が囲んでいる。
「こんなところに逃げ込みやがって!」
何事だろうか。近所で揉め事でもあったのか。そう思った私は、恐る恐る人垣の隙間から中を覗き込んだ。
祖父は床下から、一人の男を引きずり出していた。
男は痩せていた。
顔は腫れ上がり、服は泥と血で汚れている。一目でまともな状態ではないと分かった。
私は声も出せず立ち尽くした。
男が私に気がついたのか、ゆっくりと顔を上げ、男と私の目が合った。
その目は苦痛、怯え、恐怖を孕んだ助けを求める目だった。
男は口を開いた。
だが、声は出ない。喉を潰されたのか、声にならない空気が漏れるだけだった。
私は息を呑んだ。目の前の光景が現実のものだとは到底思えなかった。
男は血だらけの指を床板へ伸ばした。
――カリ。
――カリ、カリカリ。
床を引っ掻いた。
私は昨夜の音を思い出し、全身から血の気が引いていった。
あの音は、ねずみではなかったのだ。
私はその場から一歩も動くことができなかった。
男の様子から祖父が振り返り、私に気がついた。
「……戻ってきたのか」
その目には驚きこそ浮かんでいたが、取り乱した様子はなかった。
周囲にいた老人たちも同様だった。誰も慌てることなく、ただ気まずそうに視線を逸らしている。
「ス、スマホを、忘れて……」
自分でも驚くほど掠れた声だった。
祖父は小さく息を吐いた。その仕草には、見られてしまったことへの諦めのようなものが滲んでいた。
その間にも、引きずり出された男は必死に床板を掻き続けていた。
――カリカリカリカリ。
血で濡れた指先は既に爪が何枚も剥がれ落ち、肉が露出している。それでも男は掻くことをやめない。
男の目はじっと私を見ていた。
――助けてくれ。
男は一言も発していない。
しかし、私は確かにそう感じた。
「……居間に行こうか」
祖父は静かに言った。
私は反論することも、その場から逃げ出すこともできなかった。背後では今も床を掻く音が聞こえている。
私は祖父に促されるまま居間に通され、座卓を挟んで祖父と向かい合う。
窓の外では蝉が喧しいほど鳴いていた。いつもなら懐かしく感じるはずのその音が、今は妙に耳障りだった。
「あれは、ねずみだ」
私は思わず顔を上げた。
「に、人間じゃないか……」
「人の形はしてはいる。だが、物を盗み、作物を荒らし、時には人を傷つける。やってることはネズミと変わらん」
祖父は険しい顔のまま続けた。
「あの男は昨夜、農機具を盗みに来たところを捕まえた」
「だったら!警察に引き渡そうよ!」
「半殺しにしておいて、今更警察に突き出せん」
「それでも……警察に任せるしかないだろ……」
「警察も頑張ってくれてはいるが、この広い山村を守り切ることはできん。しばらくすれば、また別のねずみがやって来るだけだった」
祖父はそこで一度言葉を切った。
「それに、ねずみは見つかると牙を剥いてくる」
「牙?」
「突き飛ばしたり、殴ったり、車で轢いてこようとする奴もいた」
祖父は苦々しげに顔を歪めた。
その時のことを思い出したのか、握りしめた拳には力がこもっている。
「皆、怖くなったんだ。やられる前にやるしかない。そう考えるようになった」
祖父はゆっくりと息を吐く。
話を聞き終えた私は、唇を噛み締めた。
「でも……だからって、こんなことをしていい理由にはならないだろ……」
祖父は怒らなかった。
ただ、ひどく疲れたような顔で頷いた。
「そうだな。だが、俺たちはここで生きていかなきゃならんのだ」
その返答に、私は何も言えなくなった。
私は俯いたまま考え続けた。
警察を呼ぶべきだ。そんなことは分かっている。このままではあの男がどうなるのかくらい、私にも分かった。
仮にあの男が犯罪者だとしても、殺していい理由にはならない。助けなければならない。
しかし、本当に通報していいのだろうか?
祖父母は逮捕されるだろう。
それに通報すれば、村人全員を敵に回すことになる。もし私が口封じのために消されたら――。
そんな考えが頭を過った瞬間、私は言いようのない恐怖に襲われた。
警察を呼ぶべきだ。そうしなければならないことくらい、頭では分かっている。だが、もし通報すれば、私も無事では済まないかもしれない。
しばらくの間、私は黙り込んだ。
「……帰る」
私はゆっくりと立ち上がる。
祖父が何か言いかけたが、結局口を閉ざした。
ふらつく足取りで玄関に向かう。
玄関で靴を履いていると、祖母がスマートフォンを差し出してきた。
「忘れ物だよ」
私は黙って受け取った。
「また来てもいいからね」
祖母はいつもと変わらぬ口調で、優しく告げる。
私は、返事をすることができなかった。
玄関を出る直前、振り返る。そこにいたのは、私がずっと大好きだった祖父母だった。
しかし、もう以前と同じように二人を見ることはできない。
私は逃げるように村を後にした。
バスに乗り、アパートへ帰り、ベッドに倒れ伏し、泥のように眠った。
それから数日がたった。
結局、私は警察には行かなかった。
何度もスマートフォンを手に取り、通報しようとした。だが、その度に指が止まった。
自分が村人たちに報復される光景が脳裏をよぎり、何もできなかった。
祖父に正しい事を説いておきながら、私は何もしなかった。
私には祖父母の事を、あの村の人間の事を、責める資格などない。
私自身、自分の身が一番大事な、ろくでもない人間なのだから。
そう考えるたび、あの男の顔が脳裏に浮かぶ。
私が友人と電話していた時、あの男は床下にいたのだろうか。
『明日には帰る』
『祖父母の家』
そんな会話を聞いて、私が村の人間ではないと気付いたのではないか。
そして、私なら助けてくれるかもしれないと、そう思ったのではないか。
もしそうだとしたら私は――。
テレビで行方不明のニュースが流れた。
私は反射的にテレビを消した。
リモコンを放り投げ、全てから目を背けるためにベッドに潜り込む。
あの日以来、夜が怖くなった。
眠ろうとすると、決まってあの男の顔を思い出す。血だらけの指、助けを求める目、そして――。
――カリ、カリ。
めくれ上がった爪で、必死に床を掻く音。
その音は、毎晩、毎晩私の頭の中を木霊するようになった。
――カリ、カリカリ。
静かな夜ほど、はっきりと木霊する。
――カリカリカリ、カリ。
私は耳を塞ぐ。
――カリカリカリ、カリカリ、カリ。
それでも、音は止まない。
まるで今も、誰かが助けを求めているかのように。




