寝正月撲滅委員会
正月だというのに、私は叩き起こされた。
目覚まし時計ではない。人間に、だ。
「起きて。寝正月は禁止」
禁止、という言葉がまずおかしい。
私はまだ、何かを違反するほど今年を生きていない。
「……何時?」
「5時半」
早すぎる。
正月に5時半は、もはや労働だ。
布団の中で丸まり、聞こえなかったふりをするという高度な防御姿勢を取ったが、その判断は甘かった。
布団が、はがされた。
「ほら、元旦なんだから」
元旦であることと、私が起きることの因果関係が不明だ。
誰か、図で説明してほしい。
目を開けると、部屋の前に人が並んでいた。
全員、なぜかやる気に満ちた顔をしている。
この顔、知っている。
「善意」という名の暴力を振るう直前の顔だ。
「今年は変わろうと思って」
「正月から動かないと一年そのままだよ」
「寝正月は甘えだから」
知らない間に、私の布団が思想教育の場になっていた。
「いや、別に寝たいわけじゃなくて……」
そう言いかけたところで、
「言い訳は起きてから」と遮られる。
強い。
正月テンションの人間は、理屈より勢いで殴ってくる。
私は上半身だけ起こされた状態で、ぼんやりと天井を見上げた。
白い。
とても平和だ。
ここから一歩も動かなければ、今年は穏やかに始まるはずだった。
「初日の出、見に行こう」
その一言で、すべてが終わった。
「見なくても、太陽は出るよ」
精一杯の抵抗だったが、誰の心にも届かなかった。
すでに彼らの中では、「寝正月撲滅委員会」が発足している。
委員長は不明だが、全員がやたら積極的だ。
私はため息をつきながら、布団を手放した。
正月早々、敗北である。
――このときの私は、まだ知らなかった。
この一日は、
「有意義」という言葉で殴られ続ける地獄になることを。
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外はまだ暗かった。
にもかかわらず、全員が「間に合う」「もうすぐ出る」と根拠のない自信を持っている。
「初日の出って、そんなに急がないとダメ?」
「気持ちの問題だから」
気持ち。
人は気持ちを理由に、いろいろなことを強行する。
私は半ば引きずられるようにして外に出た。
正月の空気は冷たく、頭だけが妙に冴えていく。
この状態で人生について語られるのは、正直つらい。
「ほら、空が明るくなってきた」
言われて見上げると、確かに空は薄く色づいていた。
だが私は思う。
これは昨日の続きではないのか。
「きれいだねえ」
誰かが感動した声を出す。
私はうなずくタイミングを完全に逃した。
やがて太陽が顔を出した。
拍手が起こる。
なぜ拍手なのかは分からないが、毎年そうらしい。
「よし、次いこう」
次。
正月に“次”があることを、私はこのとき初めて知った。
「書き初め、やろう」
「福袋も見に行きたい」
スケジュールが、勝手に埋まっていく。
誰も私の同意を取らない。
正月とは、民主主義が一時停止する期間なのかもしれない。
書き初めでは、「挑戦」「成長」「変化」といった漢字が並んだ。
私は「眠」と書こうとして、止められた。
「縁起悪いから」
縁起という言葉は、便利だ。
反論をすべて封じる力がある。
福袋売り場では、全員が妙に真剣だった。
中身が分からないのに、なぜこんなに本気になれるのか。
昼過ぎ、私はもう限界だった。
足は棒、頭は重く、心は静かに死んでいる。
「でもさ、正月から動くと一年が変わるんだよ」
その一言で、空気がまた前向きになる。
私は前向きという方向に、もう進めなかった。
この時点で、私は気づき始めていた。
これはレジャーではない。
寝正月を、撲滅するための何かだった。
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夕方、ようやく全員が腰を下ろした。
私はソファに沈み込み、もう二度と立ち上がれない覚悟を決めた。
「今日、充実してたね」
誰かが満足そうに言った。
私は笑顔の練習を、脳内で三回やってからうなずいた。
「やっぱりさ、一年の計は元旦にあり、だよ」
来た。
今日、何度目か分からない正論だ。
「正月から動ける人って、結局一年ちゃんと動けるんだよ」
その理屈が正しいかどうかは分からない。
だが少なくとも、今この場で私が反論すると、
「動けない人」というレッテルが貼られることだけは分かった。
だから私は黙った。
黙ることは、負けではない。
今日はもう、勝負をしていないだけだ。
「目標、ちゃんと決めた?」
聞かれて、私は少し考えた。
目標。
紙に書けるようなものを、今すぐ差し出す必要があるのだろうか。
「……特には」
そう答えた瞬間、空気が一段階、やさしくなった。
このやさしさは、たいてい危険だ。
「大丈夫だよ、今からでも遅くない」
「小さくていいからさ」
「まずは一歩だよ」
一歩。
今日はもう、かなり歩いた気がする。
私はふと、昼間の自分を思い出した。
初日の出を見せられ、
漢字を書かされ、
福袋に並ばされ、
未来を考えさせられた自分。
それでも、なぜか何も始まっていない感覚だけが残っている。
不思議だった。
こんなに「前向きなこと」ばかりしているのに、
私はずっと後ずさりしている気分だった。
エスカレーターを逆走しているみたいに。
「本当はさ」
誰かが言った。
「正月って、人生を考えるいい機会なんだよ」
人生。
正月一日で考えきれるほど、軽いものだったらよかった。
私は口を開きかけて、閉じた。
今ここで話す言葉は、
たぶん、誰かを困らせる。
だから私は、笑ってやり過ごすことにした。
今日一日で、何度目か分からない選択だ。
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「ねえ」
自分の声で、はっとした。
思ったよりも、落ち着いていた。
「どうしたの?」
全員の視線が集まる。
私は逃げ場のない場所に立っている気分だったが、不思議ともうどうでもよかった。
「誤解しないでほしいんだけど」
前置きは大事だ。
こういう場では特に。
「別に、寝たいわけじゃないんだ」
一瞬、間があいた。
誰かが安心したような顔をした気がする。
「ただ」
私は続けた。
「何も始めたくないだけなんだよ」
全員の視線が、私から動かなかった。
「正月だからとか、今年こそとか、そういう言葉で押されるとさ」
自分でも驚くほど、言葉が素直に出てくる。
「始めなきゃいけない人間みたいに扱われるでしょ。それが、しんどい」
誰も、すぐには口を開かなかった。
正論を振りかざしていた人たちが、少しだけ困った顔をしている。
理解された、という感じではなかった。
私は言い切った。
「今日は、ただ終わらせたい。それだけ」
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最初に動いたのは、誰だったか。
たぶん、委員長だった人だ。
「……まあ、正月だしね」
その一言で、空気がゆるんだ。
「確かに、ちょっと詰め込みすぎたかも」
「一年は長いし」
「今日くらい、いいか」
不思議なものだ。
たった一言で、あれほど固かった「有意義」が、簡単にほどけていく。
誰かが布団を出した。
それを見て、別の誰かも布団を敷いた。
気づけば、部屋には人と布団が転がっていた。
「……寝る?」
「寝よっか」
合意形成が、異様に早い。
私は仰向けになり、天井を見た。
静かだった。
誰も目標を語らない。
誰も未来を急かさない。
ただ、正月が、正月らしく過ぎていく。
私は目を閉じながら思った。
今年は、何も始めなくても、
案外、悪くない年になるかもしれない。
少なくとも――
今日は、これ以上はいらない。




