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『 春分の日の約束』

作者: 小川敦人

『 春分の日の約束』


## Promise on the Spring Equinox


春分の日の午後3時、野村隆介は窓から差し込む斜めの光を眺めていた。市営団地の6畳間に置かれた小さなテーブルの上には、今朝妻の三津子が買ってきた小さなケーキが置かれていた。結婚して丸1年。そんな記念日を祝う余裕など、本当はなかったのかもしれない。

「もったいないよ」と言いかけた言葉を隆介は飲み込んだ。三津子の嬉しそうな顔を見ると、何も言えなくなる。今日くらいは、贅沢してもいいだろう。

1975年3月20日。世界が混乱の中にあっても、この小さな部屋だけは平和だった。


---


隆介が会社から帰ると、三津子はダイニングキッチンで晩ご飯の支度をしていた。狭い台所で手際よく動く姿を見ながら、隆介は「ただいま」と声をかけた。

「お帰りなさい。今日はちょっと早いね」

三津子は振り返らずに答えた。彼女の黒髪が首筋で揺れる。その姿を見るだけで、隆介の疲れは吹き飛んだ。

「早めに切り上げてきたんだ。今日は特別な日だからね」

隆介は三津子の背中に近づき、そっと肩を抱いた。三津子はほんの少し体を硬くしたが、すぐにリラックスして隆介の胸に寄りかかった。

「ありがとう、ケーキ」

「気づいてた?」

「朝、冷蔵庫を開けたとき見ちゃった」

三津子は少し残念そうな顔をした。

「でも嬉しかったよ。本当に」

二人は6畳の和室に座り、テレビを見ながら夕食を食べた。NHKのニュースでは、ベトナム情勢の悪化が伝えられていた。サイゴンはまだ陥落していなかったが、その時は近いと誰もが感じていた。

「あの戦争、もうすぐ終わるのかな」三津子がつぶやいた。

隆介は黙ってテレビを見つめた。大学生の頃、新宿で行われた反戦デモに参加したことがある。積極的ではなかったが、友人に誘われて数回足を運んだ。「We shall overcome」を歌いながら行進した記憶が、今でも鮮明だった。

「終わるだろうね。でも、終わり方が...」

言葉を続けられず、隆介は箸を置いた。

「戦争はいつの時代も似たようなものなのかな」

三津子の言葉に、隆介は顔を上げた。

「人間はいつも同じ過ちを繰り返す。平和を願うのに、争いをやめられない」


---


翌日、隆介は出勤前に郵便受けをチェックした。電気代の請求書が入っていた。先月より1000円ほど高い。物価は上がる一方なのに、給料はほとんど変わらない。「スタグフレーション」という言葉を、最近よく耳にするようになった。

印刷会社に務める隆介の仕事量は減っていなかったが、会社の経営状態は芳しくなかった。同期入社の山田は先月解雇された。隆介も明日は我が身かもしれない不安を抱えながら、毎日を過ごしていた。

しかし、そんな不安は三津子の前では見せないようにしていた。二人の小さな幸せを守るために、隆介は必死に働いた。残業も厭わなかった。

その日の夕方、帰宅途中の電車の中でラジオから流れるニュースを聞いた。アメリカ軍の撤退が加速しているという。

「平和だって?冗談じゃない」

隣に座っていた中年のサラリーマンがつぶやいた。隆介は何も言わず、窓の外を見た。夕暮れの空が赤く染まっていた。

「どこかで戦争が終わっても、また別の場所で始まるんだろうな」

隆介は心の中でつぶやいた。人間の歴史とは、そういうものなのだろうか。


---


4月30日、サイゴンが陥落した。テレビでは、アメリカ大使館から脱出しようとする人々の映像が繰り返し流れていた。ヘリコプターに必死にしがみつく人々。残された者たちの絶望的な表情。

「Peace, Peace, Forever!」というテロップが画面に表示される。

隆介と三津子は、呆然とテレビを見つめていた。

「これが平和なの?」三津子がつぶやいた。

隆介は答えられなかった。大国アメリカが敗れるという現実を、まだ受け入れられないでいた。

「平和って何だろう」彼は静かに言った。「勝利する側にとっては平和かもしれないけど、敗れる側にとっては屈辱でしかない」

「でも戦争が終わることは、それでも良いことじゃない?」

「もちろんそうだよ。ただ...」隆介は言葉を探した。「平和を願いながら、人はまた新しい争いを始めるんだ」


---


その夜、三津子は眠れなかった。隣で寝息を立てる隆介を見ながら、彼女は考えていた。

自分たちの未来はどうなるのだろう。この不安定な世界で、二人の幸せは守れるのだろうか。子供を産み育てることなど、できるのだろうか。

三津子は静かに布団から抜け出し、窓辺に立った。外は静かで、星がきれいに見えた。

彼女は手を腹に当てた。まだ隆介には言っていない。2週間前の検査で、三津子は妊娠していることがわかっていた。喜びと不安が入り混じる気持ちで、彼女は星空を見上げた。

「この子の生きる世界は、どんな世界になるのかしら」

遠い国の戦争のニュースを見ながらも、彼女の日常は変わらず続いていく。そこに不思議な安堵と罪悪感を感じた。


---


翌朝、隆介が出勤準備をしていると、三津子がキッチンから声をかけた。

「ねえ、隆介。あなたの学生時代の話を聞かせて」

「急に何だ?」

「あの...デモに参加したって言ってたでしょ。どんな気持ちだったの?」

隆介は髭を剃る手を止めた。鏡に映る自分の顔を見つめながら、当時のことを思い出した。

「特別な思いなんてなかったよ。友達に誘われて行っただけさ」

「でも、何か感じるものはあったでしょ?」

隆介は黙って考えた。

「そうだな...みんなで歌った歌があるんだ。『We shall overcome』って知ってる?」

三津子は首を振った。

「『いつか勝利は来る』って意味さ。当時は、その『勝利』が何なのか、よくわかっていなかった。ただ、何かが変わることを願っていたんだと思う」

「今は?」

「今は...」隆介は言葉に詰まった。「今は、この小さな家で、君と平和に暮らせることが勝利なのかもしれない」

三津子は微笑んだ。

「隆介、あなたに話があるの」


---


6月、隆介は昇進した。前任者が突然退職したため、思いがけない出世だった。給料も少し上がった。

「おめでとう!」三津子は隆介を抱きしめた。少しずつ大きくなるお腹に、命が宿っていることを感じる。

「運が良かっただけさ」

「そんなことないよ。あなたが頑張ったから」

隆介は微笑んだが、複雑な気持ちだった。自分が昇進したのは、会社が人員を削減した結果だ。喜んでいいのか、罪悪感を感じるべきなのか。

その夜、二人は近所の定食屋で祝いの食事をした。贅沢とは言えないが、二人にとっては特別な夜だった。

「あのね、私も考えたの。『We shall overcome』の意味」

隆介は三津子の言葉に驚いた。

「私たちは毎日小さな困難を乗り越えてるよね。大きな戦争や経済危機は私たちにはどうしようもないけど、私たちの小さな世界では、毎日が『overcome』の連続なんだと思う」

三津子はお腹に手を当てた。

「この子が生まれる世界が、少しでも良くなるように。私たちにできることをしていきたい」

隆介は三津子の手を握った。窓の外では夕立が始まっていた。雨音を聞きながら、隆介は思った。

この不安定な世界で、確かなものは目の前にいる人だけだ。それを守るために、自分は何ができるだろう。

「世界は常に混乱しているけど、それでも人々は生きていくんだね」

三津子の言葉に、隆介は静かに頷いた。


---


12月31日、年の瀬。6畳2間の団地の一室は、暖房で温かかった。

三津子のお腹は大きく膨らみ、出産は2月の予定だった。二人は小さなテーブルを囲んで、年越しそばを食べていた。

テレビでは、この1年を振り返る特集が放送されていた。ベトナム戦争の終結、天皇陛下の訪米、沖縄海洋博の開催...激動の1975年が、今終わろうとしていた。

「来年はどんな年になるかな」三津子はつぶやいた。

「きっといい年になる」隆介は自信を持って答えた。「この子が生まれるんだから」

三津子は微笑んだ。「名前、決めなきゃね」

「そうだな...」

二人は静かに考え込んだ。外では、除夜の鐘が鳴り始めていた。

希望のぞみはどう?」隆介が言った。「男の子でも女の子でも使える名前だし」

「希望...」三津子はその言葉を味わうように繰り返した。「いいね。この子が希望を持って生きていけますように」

隆介は三津子の肩を抱いた。来年もきっと大変だろう。世界情勢は不安定で、日本経済の先行きも明るくない。

でも、この小さな幸せを守るために、二人で力を合わせていく。それが彼らの「We shall overcome」だった。

窓の外では、新年を告げる花火が上がり始めていた。新しい命と共に迎える1976年。未来は不確かでも、二人の心には確かな希望があった。

「世界中の争いがいつか終わると信じたい」三津子がつぶやいた。

「人間は愚かだけど、それでも少しずつ学んでいくさ」隆介は言った。「すぐには無理でも、いつか...その日が来ることを信じて生きていくしかない」


***


三月二十日、春分の日。野村希望が生まれた。3200グラムの元気な男の子だった。

隆介は小さな息子を腕に抱き、窓の外を見た。柔らかな春の光が部屋に差し込んでいた。

「We shall overcome...」

隆介はそっと歌った。息子の顔を見つめながら、彼は思った。

この子の未来のために、自分たちは何ができるだろう。激動の時代を生き抜く力を、どうやって伝えていけるだろう。答えはまだわからなかった。ただ、一歩ずつ進んでいくしかない。

三津子がベッドから微笑みかけた。隆介は息子を抱いたまま、妻の隣に座った。

「来年の春分の日は三人で祝おうね」

三津子はそう言って、隆介の手を握った。窓から差し込む陽の光が、三人を優しく包み込んでいた。


---


2025年3月20日。春分の日。

野村希望は父の形見の時計を見た。ちょうど午後3時を指している。

「お父さんとお母さんの結婚記念日だったんだよね」

隆介と三津子は10年前に他界していた。希望は今、自分の娘と一緒に実家を整理していた。

テレビからはロシアとウクライナの戦争に関するニュースが流れていた。もう何年も続く争いに、終わりは見えないようだった。

「パパ、これ何?」5歳の娘、"なごみ"が古いアルバムを手に持っていた。

希望はアルバムを開いた。そこには若い頃の両親の写真があった。市営団地の狭い部屋で撮られたもの。二人とも笑顔だった。

「おじいちゃんとおばあちゃんだよ」

娘は写真を興味深そうに見つめた。

「"なごみ"という名前は、おじいちゃんが付けてくれたんだよ」

「そう。おじいちゃんは、いつか世界が平和になることを願って、君にその名前を付けたんだ」

テレビからは、爆撃で破壊された街の映像が流れていた。50年前のサイゴンの映像と重なって見えた。

「いつになったら戦争は終わるの?」

娘の素朴な質問に、希望は言葉に詰まった。父が自分に語ってくれた言葉を思い出した。

「わからないよ。人間は時々愚かなことをする。でも、それでも私たちは毎日を生きていくんだ」

窓の外では、桜の蕾が膨らみ始めていた。世界のどこかで争いが続いていても、季節は巡り、人々の日常は続いていく。

「We shall overcome...」

父から教わった歌を、"なごみ"は小さな声で歌った。その歌が本当に意味するものを、今でも完全には理解していないかもしれない。

でも、希望を持ち続けることの大切さだけは、確かに父から受け継いでいた。

娘は写真から顔を上げ、父を見上げた。

「パパ、今日はケーキを食べようよ」

希望は微笑んだ。

「そうだね。今日は特別な日だからね」

外の世界がどれほど変わろうとも、この小さな幸せを大切にしていく。それが、父から学んだ最も大切なことだった。



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