第9話 レモンの味かはわからないけど
「女性……?」
「えぇ」
呆然とつぶやく俺に、夏希は苦笑しながらうなずく。
「ほら、前に話したでしょう。微妙な空気になったときに助けてくれた先輩マネージャーがいたって。椎名悠先輩」
「あぁ……」
確かにそんな記憶がある。
「あの人、背も高いし雰囲気も中性的だから、確かに男の人と間違えられることも多いみたいよ」
「ま、マジなのか?」
信じられなかった。
夏希ではなく、俺自身が。
「えぇ……まさか、私が浮気すると思ってるの?」
夏希がスッと瞳を細める。怒っているようで、どこか寂しげな眼差しだ。
俺は思わず目を伏せて、拳を握りしめた。
「するわけないよな……ごめん」
「……いえ、こっちこそ、言い方が悪かったわ」
夏希が気まずそうに視線を逸らす。
「いや、夏希は何も悪くないよ。本当にごめん、よく確かめもせずに疑って」
ベッドに座り直し、額が膝につくくらい深く頭を下げた。罪悪感で、とても夏希の顔を見れなかった。
夏希は口の端を緩めて首を振る。
「そんなに自分を責める必要はないわ。その……ちょっと、嬉しかったもの」
「……えっ?」
思わず顔を上げると、夏希は髪を耳にかけながら、視線を合わせずに小さく笑った。
「だって、本気で好きじゃなきゃ、拗ねたりしないでしょ?」
「ま、まあ……そうだけど」
俺は頬を掻いた。恥ずかしさに、顔がじんわりと熱くなる。
夏希が揶揄うように瞳を細め、ふふ、と笑った。
「澪って、意外とテンパるわよね」
「う、うるさいな……。というか、重いとか思わないのか?」
「一週間もサボった私が、そんなこと言えると思う?」
「……あぁ」
妙に納得してしまった。
「でも——」
夏希がふと表情を引き締め、そっと俺の拳に手を重ねた。
「事情は聞いてほしかったわ。これ以上……すれ違いたくないもの」
責めているわけではなく、夏希はただ、正直な思いをぶつけてきていた。
……強いな。
素直ではないかもしれないけど、夏希は俺なんかよりもずっと、精神的に強い。
(なんで、もっと信じてあげられなかったんだ……)
申し訳なさで、胸がいっぱいになった。
膝の上で拳を握りしめ、もう一度頭を下げる。
「……ごめん。光惠さんにも、コミュニケーション大事って言われてたのに」
「今回は仕方ないわ。でも——」
夏希は俺の拳を包む手に力を込め、力強い眼差しを向けてきた。
「また同じ失敗をしたら、許さないわよ」
「うん……ごめん」
夏希の言葉が胸に沁みて、不覚にも目尻が熱くなってしまう。
「——よしっ」
夏希が気まずい空気を切り裂くように、張りのある声を出した。
「明日、悠先輩に会いにいきましょう」
◇ ◇ ◇
「ごめん、遅れたー!」
週明け、月曜日の昼休み。
俺と夏希が中庭のベンチに座っていると、軽やかな声が聞こえた。
スカートの裾をひらひらさせながら駆けてくるその女子生徒は、間違いなくあの「イケメン」だった。
昨日、夏希は実際に彼女——椎名先輩に連絡をとってくれた。そこで、どうせなら一緒に昼食を取ろうという話になり、今に至る。
ちなみに、中庭を指定したのは先輩だ。
「いやいや、お待たせ! 先生があとちょっととか言って、七分も伸ばしてくれちゃったからさー」
「お疲れ様です。今日はありがとうございます、悠先輩」
「お時間を取らせてすみません」
夏希に続いて、頭を下げる。
「そんな畏まらなくていいよー。どのみち夏希の彼氏さんなら興味あったから、渡りに船って感じだし!」
椎名先輩はバタバタと弁当を広げつつ、柔和な笑みを浮かべた。
お互いに自己紹介を済ませ、改めて簡単に状況の整理をすると、先輩は俺に向かって申し訳なさそうに手を合わせ、片目をつむった。
「ホントごめんねー。せっかくの休日に、彼女とラブラブしちゃって」
「あっ、いえ……」
想像以上に砕けた人で、逆に返答に困ってしまう。
椎名先輩はふっと頬を緩めたあと、一転してキリッとした表情を浮かべた。
「でも、安心して。私、れっきとした女だから」
「あっ、はい。それはもう、わかってます」
「男の子っぽい格好が好きでさ。紛らわしくてごめんね? お詫びとして、おっぱい触って確かめてもいいよ」
「ゆ、悠先輩っ!」
夏希が思わずといった様子で、ベンチから腰を浮かせて叫んだ。
先輩はケラケラと笑いながら、肩をすくめた。
「はは、冗談だよ。夏希はほんとかわいいねぇ」
「なっ……!」
夏希の顔がみるみる赤くなる。
「れ、澪の前で揶揄わないでください!」
「あはは、ごめんごめん。白石君もごめんねー、またイチャついちゃった」
椎名先輩がこちらに顔を向け、ぱちっとウインクを決めた。
「はあ……」
「でも、そっちの気もないから安心してねー。彼氏もいたかし! ま、ついこの前に別れちゃったけど」
「……すみません。俺、勝手に誤解してました」
わざわざ別れた話までしてくれて、心苦しいばかりだ。
「いいのいいの」
椎名先輩は柔和な笑みを浮かべて首を振った。
イタズラっぽく笑って、
「それだけ私が麗しいってことでしょ?」
「はは、そうですね」
俺も笑いながらうなずいた。
こういう気遣いもできるのか。すごい人だ。夏希が懐くのもわかる。
——ふいに、隣から強烈な視線を感じた。
夏希は目が合うと、すぐに視線を逸らしたが、その唇は不満そうに尖っている。
「夏希、どうした?」
「……別に」
鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
(なんなんだ?)
俺が首を傾げていると、正面からふふ、という笑い声がした。
椎名先輩がニヤニヤと夏希に目を向けて、わざとらしい口調で、
「私には、そういうこと言ってくれないのにぃ」
「ゆ、悠先輩っ!」
「おっ、図星か〜」
真っ赤になる夏希を見て、先輩は楽しそうに笑う。
(……本当に、愉快な人だな)
でも、次の瞬間には、ふっと表情を引き締めた。
「でもさ。真面目な話、こうやってちゃんと誤解を解こうとするのはえらいよ。私が別れたのもコミュニケーション不足が原因だったと思うし、長く付き合ってく上では、一番大事なことだからさ」
椎名先輩は柔らかい口調のまま、どこか本気の色をにじませる。
「好きな人には察してほしくなるけど、やっぱり言葉にしないと伝わらないことって多いじゃん。だから、不満とか疑念は溜める前にぶつけ合いなよ。ただでさえ、一回危うかったんだから」
「「うっ……」」
俺と夏希は、思わず視線を背けた。
「……お母さんにも、言われました」
夏希がぽつりとこぼすと、先輩はにっこりと笑った。
「みんな、経験することなんだよ。大丈夫。完璧なカップルなんていないし、不器用でも前に進めてるなら、それで充分だから」
それは先程までのような揶揄いではなく、まっすぐな励ましだった。
「「——はい」」
異口同音に返事をした俺と夏希は、「そこで息ぴったりなのはさすがだねぇ」と笑われ、揃って赤面することになった。
それからは普通の雑談をしていると、昼休み終了時間が近づいてきた。
椎名先輩は弁当箱を手に、明るい笑みを浮かべたまま言った。
「じゃ、そろそろ行くね——あっ、そうだ」
先輩がニヤリと口の端を吊り上げる。
「白石君、最後に一つ」
「あっ、はい」
俺は嫌な予感を覚えた。
——それは的中した。
「私に負けないくらい、夏希とイチャイチャするんだぞ?」
「っ……!」
しかし、予想していたからといって、あしらえるわけではなかった。
「ちょっ、な、何言ってるんですか先輩っ!」
夏希が慌てて抗議の声を上げるが、
「それじゃ、末長くお幸せに〜」
椎名先輩は意に介した様子もなくひらひらと手を振り、軽やかな足取りで去って行った。
「全くもう、先輩は……」
夏希は唇を尖らせて、ぶつぶつと文句を言っている。
俺も気恥ずかしくはあったが、
(夏希、先輩の前だとちょっと幼くなるんだな……)
恋人の新たな一面を見せてくれて、密かに椎名先輩に感謝していた。
◇ ◇ ◇
「お待たせ」
「おう、お疲れ」
サッカー部の練習が終わり、一緒に帰宅をする。
椎名先輩が落とした爆弾の余波で、ほんのりと気まずい空気が流れていたものの、居心地は悪くなかった。
夕飯まで少し余裕があったので、俺は夏希を家に呼んだ。
「疑って本当にごめん。冷静に考えれば夏希が浮気なんてするはずないし、愛想尽かされても文句言えないくらい、愚かだったと思う」
「そんなに思い詰めなくていいわよ。それに、これで安心できたでしょ?」
夏希はどこかイタズラっぽく笑った。
「あぁ……夏希、本当にありがとう」
「大袈裟よ。悪気がないのはわかっていたし、何も言わなかった私にも責任はあるもの。それに、その……」
夏希は手元をもぞもぞといじりながら、ほんのり上目遣いで見上げてきた。
「澪の気持ちも、知ることができたから」
「夏希っ……」
俺は少し躊躇ってから、そっと夏希の肩に手を添えた。
彼女は息を呑んで頬を染めつつ、おずおずと体重を預けてくる。
「これからは絶対、夏希のこと疑ったりしないから」
「えぇ……ちょっとでも違和感を覚えたら、ふて寝する前にちゃんと聞きなさい」
命令口調だが、こちらを見上げるその目元は、ほんのり弧を描いている。
俺は大きくうなずいた。
「あぁ、夏希もな。絶対に悲しませるようなことはしないから」
「べ、別にそんな心配してないわよ。……澪には、そんな度胸ないもの」
「そこは信頼してるって言ってくれよ」
「ふふ」
夏希はくすっと笑いながら、肩を小さく揺らす。
それから、視線を落として、囁くように言った。
「……そうじゃなきゃ、付き合わないわよ」
「っ……ありがとう」
愛おしさが込み上げて、俺はますます力強く抱きしめた。
「それと——」
夏希がそっと頬を寄せながら、トンと俺の胸を叩く。
「前にも言ったけど、澪はもう少し自信を持ちなさい。私は、告白されて付き合ってるわけじゃないんだから」
「っ……」
胸の奥から、熱いものが込み上げる。
同時に、夏希を疑ってしまった自分に対する怒りがふつふつと湧いてきた。
浮気を疑うなんて、二度目は許されないかもしれない。
これ以上、優しさに甘えるわけにはいかない。
——信じよう。
夏希のことも、彼女が好きになってくれた俺自身のことも。
すぐに自信をつけるのは難しいけど、それならなおさら、今から踏み出さないといけない。
「なぁ、夏希」
「な、なに?」
夏希は戸惑うように視線を彷徨わせた。
こうやって見つめ合うことも苦手なのに、彼女はちゃんと想いを言葉にしてくれたんだ。こっちも恥ずかしがってる場合じゃない。
「俺も、夏希が一番かわいいって、本気で思ってるから」
「なっ……!」
夏希が息を呑んだ。
「な、なにいきなりバカなこと言ってるのよ⁉︎」
俺の視線から逃れるようにうつむいて、ポカポカと胸を叩いてくる。
俺は自然と笑みを浮かべながら、
「だって、昼休み不満そうにしてただろ? だからその、ちゃんと伝えておかないとって思ってさ」
「あ、あれは悠先輩が勝手に言っただけだからっ!」
夏希は頬を膨らませながら、ぷいっと視線を逸らした。
俺の言葉で、こんなにも照れてくれてる。もはや、抱きしめるだけじゃ足りなかった。
「——夏希」
頬に手を添え、潤んだ瞳を見つめる。
「あっ……」
夏希は小さな声を漏らし、オロオロと視線を泳がせた。
ややあって、覚悟を決めるように唇を噛みしめると——、
まぶたを閉じてあごを持ち上げ、控えめに唇を突き出した。
(その顔、やばい……っ)
胸の高鳴りを抑えながら、ゆっくりと顔を近づける。
そして、夏希のほんのり甘い香りを感じ取りながら、静かに唇を重ねた。
「ん……」
触れるだけの、短いキス。
レモンの味どころか、感触すらも緊張でよくわからなかった。
——それでも、俺の胸は幸せで満たされた。
「好きだ、夏希」
その言葉は、自然と口からこぼれ落ちていた。
「な、な……っ!」
夏希が耳まで真っ赤に染めて、口をパクパクさせる。
……こんな反応をしてくれる恋人を疑う愚か者なんて、地球上のどこにもいないだろうな。
俺は苦笑を浮かべつつ、その愛おしい表情ごと、再び夏希をぎゅっと抱きしめた。
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