第8話 天国と地獄
「早めにやることを終わらせると、気持ちいいわね」
夏希が小さく伸びをする。
動作に合わせて、柔らかな髪がふわりと揺れた。
「そうだな」
俺も口元を緩めてうなずいていた。
今日はサッカー部の放課後練習がなかったため、俺の家で宿題をしていた。
つい先程終わり、今はソファーに並んで腰掛けて休んでいる。
(……今、だよな)
夏希はこのところ、土日もサッカー部の練習や練習試合で忙しそうだった。
でも、今度の日曜は珍しく完全なオフだ。
「なぁ、夏希」
「なに?」
俺は小さく息を整えた。
「今度の日曜、久々にオフなんだろ? 一緒に出かけないか?」
「あっ……」
夏希はそれまでの穏やかな表情から一転、視線を落とした。
「……ごめんなさい。その日は、マネージャーの先輩とショッピングの約束をしてるの」
「あっ、そうなのか……」
声がかすれたのが、自分でもわかる。
久しぶりのお出かけデートだと浮かれていた分、平静を装うのが難しかった。
——その落胆は、夏希にも伝わってしまったらしい。
眉を下げて、ますます申し訳なさそうな表情になる。
「本当にごめんなさい。その日しか予定が合わなくて……」
「あっ、いや、夏希は何も悪くないよ。俺が誘うの遅かっただけだし」
俺は慌てて言い添えた。
もっと早く打診していれば済んだ話だ。罪悪感なんて、抱かせたくなかった。
「気にせず楽しんできてくれ。デートはまた別の日にすればいいしさ」
そう笑いかけると、夏希は思案げに瞳を伏せた。
「その……次の一日オフは、必ず空けておくから」
「あ、あぁ……ありがとう」
その一言だけでも十分すぎるほど嬉しかったけれど、夏希の言葉はさらに続いた。
「それと、明日も、ショッピングのあとなら……別に会ってもいいけど」
「え……?」
思わず夏希を見つめてしまう。
「いえ、その……澪が暇ならってだけの話よ? 強制じゃないから」
言いながら、夏希は顔をぷいと背けた。
でも、その横顔はほんのり赤く染まっている。
その姿がたまらなく愛おしくて、俺は思わず手を伸ばしていた。
——そっと、夏希を抱き寄せる。
「ちょ、ちょっと⁉ な、なに急に……っ!」
焦ったような声が耳元で震えるけど、彼女は逃げない。
むしろ、少しだけ力を抜いて、俺に身を預けてくる。
「嬉しかったから。……ありがとう」
そう囁くと、夏希は唇を噛んでから、
「……ばか」
小さく呟き、ぎゅっと俺の裾を掴んだ。
触れた肩から温もりが伝わってきて、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
俺は反対の手も背中に回して、夏希の体をすっぽり包み込んだ。
しばらくそのまま、言葉のいらない時間が流れた。
——そして、日曜日。
夕方までは暇だが、やることはいくらでもあった。
俺は机にノートを開き、スマホで「高校生 デート おすすめの場所」と検索する。
夏希は次の一日オフは空けてくれると言っていた。その想いに応えるためにも、準備は万全にしておかなければ。
気になったスポットをメモしたりブックマークしていると、階下から母さんの声が飛んできた。
「澪ー! ちょっとお使い、頼んでいいー?」
「了解ー」
俺は大きな声で返事をした。弾んでいるのが自分でもわかる。
いつもは少しだけ感じてしまう億劫さは、微塵も湧いてこない。
すぐに外出の支度をして、近所のスーパーまで自転車を飛ばす。
日差しは柔らかくて、気持ちのいい午後だった。
「……うん、オッケーだな」
レシートと買い物メモを見比べて見落としがないことを確認し、退店して自転車にまたがった、その時だった。
ふと、見慣れた後ろ姿が視界に入った。
(あれ……?)
長い髪。華奢な肩。見間違えるわけがない。
夏希だった。
(こんな偶然、あるのか——)
「なつ……えっ?」
声をかけようとして、俺は言葉を失った。
息が苦しくなる。
「嘘、だろ……?」
——夏希の隣に、男がいた。
斜め横から見えるのは、アイドルのように整った甘い顔立ちの、スラッと足の長い長身のイケメンだった。
その男が、揶揄うような笑みを浮かべながら、夏希の頬を指で軽くつついた。
夏希が少し照れたように頬を染め、その手を叩く。
二人は俺の視線に気づく様子もなく、イチャイチャしながら歩いていった。
その間、夏希は俺には滅多に見せない素直な照れ笑いを、惜しげもなく向けていた。
「な、んで……っ」
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
エコバッグをぶら下げた手が震えているのを、どうすることもできなかった。
なんとか無事に家までたどり着くと、無言で母さんに袋を渡し、そのまま自室に入る。
そして、布団に潜り込んだ。
何も考えたくないのに、脳裏に焼き付いた夏希の笑みが消えてくれない。
胸の奥がズキズキと痛む。
(……でも、見限られて当然かもな……)
これまでのことを思い返すと、全部自分のせいだと思えてきた。記念日も気づいてあげられなかったし、告白すらまともにできなかった。
テンパってばかりで——男として、頼りなさすぎた。
夏希の隣にいた男は、体つきこそ華奢だったが、見目も整っていて、明らかに「慣れて」いた。
自信があって頼れるオスにメスが惹かれるのは、人間であっても動物であっても変わらない、生物の普遍の原理だ。
(やっぱり、俺なんかに夏希はふさわしくなかったのか……?)
そんなことまで考えてしまった時、携帯が通知を告げた。
反射的に画面を見て、俺は携帯を放り投げた。夏希からだった。
しばらくして、チャイムが鳴った。
母さんと夏希の話し声が聞こえてくる。内容までは聞き取れない。
頼むから追い返してくれ——。
そんな俺の願いも虚しく、階段を登ってくる足音がした。
間もなくして、トントンとノックされる。
答えないでいると、キィ、と控えめに扉の開く音がした。
「ちょっと澪。会う約束だったでしょ……って、寝てるの? 具合悪い?」
「いや……別に」
俺は背を向けたまま、素っ気なく答えた。
夏希の声が、スッと低くなる。
「……何か、あったの?」
本気で心配しているらしい。
(なんでだよ……っ)
一段と胸が痛んだ。
答えを聞くのが怖い。でも、尋ねずにはいられなかった。
「……誰だよ、あの男」
「えっ?」
俺は体を起こし、夏希の瞳を真っ直ぐ見据えた。
「誤魔化さなくていい。今日の相手、男だろ。アイドルみたいな顔立ちだった」
「へっ? ……あぁ」
夏希は瞬きをしたあと、肩の力を抜いた。
それは、納得しているようにも、あきらめたようにも見えた。
(一ヶ月も経たずにフラれるのか……っ)
夏希の口がゆっくりと開く。
——そして、思いもよらない真実が告げられた。
「あの人、ボーイッシュなだけで、女性よ」
「……へっ?」
その時、俺は人生で一番、間抜けな表情を浮かべていたと思う。
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