第7話 彼女は意外と積極的でした
——夏希に、距離を取られている。
登校前に顔を合わせた時からずっと、感じていることだ。
無視されているわけじゃない。話しかければちゃんと返事もしてくれる。
でも、目が合うたび、すぐに逸らされる。
それでもチラチラと様子を窺ってくるあたり、嫌われたわけではなさそうなのだが、
(……わからん)
今日はサッカー部がオフだったため、放課後は夏希の家で勉強していた。
けれど、その間もずっと、空気はどこかぎこちなかった。
「なぁ、今日どうしたんだ?」
たまらず尋ねると、夏希はノートの文字をにらんだまま、少しだけ口を尖らせる。
「……本当に、気づいてないの?」
「え、なにが?」
「……今日が、何の日なのか、よ」
夏希の指先が、コツコツと机を叩く。
「……テスト四十四日前?」
夏希がわざとらしくため息を吐く。
「不吉かどうかもわからないじゃない……じゃなくて、本当に思い当たる節はない?」
こちらを見つめる瞳は、悲しげに揺れていた。
——今は、ふざける時じゃない。
俺はすぐに態度を正し、必死にぐるぐると頭を回す。
しかし、何も浮かばなかった。
「……悪い。ヒントくれないか?」
夏希は瞳を伏せ、ぽつりとこぼした。
「記念日よ……一週間の」
「……へっ?」
俺はポカンと口を開けて、まじまじと夏希を見つめてしまった。
「な、なによ」
「いや……そういうのって普通、一ヶ月とか一年の節目じゃないのか?」
「い、一週間だって……ちゃんと、大事でしょ」
夏希がほんのり頬を染めつつ、唇を尖らせた。
「まあ、言われてみれば確かに……それで、朝からソワソワしてたんだな。ごめん、気づかなくて」
「……別に。面倒くさいのなら、記念日とかは考えなくてもいいけど」
夏希がそっと瞳を伏せる。
俺は慌てて首を振り、
「いや、全然。むしろ嬉しいよ」
「……そう?」
夏希が不安げに眉を上げた。
「あぁ」
今度は、大きくうなずいてみせる。
一週間記念日なんてかわいいことを言われて、テンションが上がらないはずがない。
けど、どうするか。
今からデートプランを考えて外に出かけるには、遅すぎる。
(とはいえ、なにか……なにかないか……)
一発芸なんて持ち合わせていないし、下手なサプライズで場が冷えるのも嫌だ。
それでも、ふと一つ、頭に浮かんだものがあった。
(いや……まだ歌を贈るくらいのほうがマシかも……でも……)
チラと視線を送ると、夏希の眉がわずかに動いた。
表情こそ澄ましているが、その奥に期待が隠しきれていないのが伝わってきて、俺は決断した。
「……夏希。ちょっと、目をつむってくれ」
「えっ? ……まさか、変なこと考えてないでしょうね」
じっとりとした目線を向けてくるが、その耳の先はわずかに赤みが差している。
「ち、違うって。いいから、頼むよ」
「……わかったわよ」
夏希は小さく息を吸って、そっと目を閉じた。
肩に力が入っていて、呼吸が浅くなっている気がする。
……いや、それは俺のほうか。
(大丈夫。これはそういうものじゃないし、即興のサプライズとしては悪くないはず……)
俺は自分に言い聞かせ、深呼吸をした。
そして、顔を近づけ——
想いを乗せるように、夏希の頬にそっと唇を押し当てた。
「っ……!」
ハッと息を飲む音と同時に、夏希の瞳が見開かれた。
「……ダメ、だったか?」
硬直している夏希に、おそるおそる問いかける。
彼女は、慌てたようにパッと顔を背けた。
「こ、今回だけは……特別よ」
消え入りそうな声で囁く彼女は、耳元まで真っ赤になっていた。
……良かった。
俺はホッと胸を撫で下ろした。
「あっ、でも——」
夏希が語気を強める。
「一ヶ月記念は、もっとすごいのを期待してるから……って、別にそういう意味じゃないわよっ⁉︎」
「わかってるよ。そんな勘違いはしないから、安心してくれ」
言い訳めいた口調で慌てて付け加えるその姿に、俺は自然と笑みを浮かべていた。
どうやら、彼女はナチュラルにそう聞こえる発言をしてしまうらしい。
だったら、こっちが曲解しないように気をつけないとな。
勝手に盛り上がって暴走してしまえば、きっと嫌われてしまうだろう。
ちゃんと距離を見誤らず、大事にしていこう——。
そう、あらためて心に誓った。
……はずだったのだが。
どうやら俺は、少々夏希という女の子のことを見誤っていたらしい。
◇ ◇ ◇
平日は基本的にサッカー部の練習があるため、登下校以外ではあまり一緒にいられない。
その分、部活のない放課後は、なるべく一緒に過ごすようにしていた。
その日は学校帰りにカフェに寄ったあと、夏希の部屋でベッドに並んで腰かけて、彼女のおすすめの映画を見ていた。
「ふわぁ……」
夏希があくびを噛み殺す。
家に帰ってきてから、ずっとこの調子だ。
「止めるか?」
「ううん、見てる……」
眠そうに瞬きを繰り返す彼女は、口調まで少し幼くなっている。
間もなくして、夏希は俺の肩にコテンと頭を乗せ、すぅすぅ寝息を立て始めた。
(疲れてるんだな……)
部活も信頼回復のためと、人一倍頑張ってる。
映画を見たいと言い出したのは夏希だが、強引にでも休ませてあげるべきだったかもしれない。
——そうすれば、俺がゴリゴリに理性を削られることもなかっただろうに。
(まずい……っ)
かすかな呼吸とともに伝わってくる、女の子らしい甘い匂いや柔らかさ。それらを感じていると、どうしても男としての欲が頭をもたげてしまう。
シャツの胸元から、抜けるような白肌と魅惑的な狭間がこちらを誘うように顔を覗せているのなら、なおのことだ。
辛いのなら離れればいい話だが、夏希を起こしてしまうかもしれない。
何より、許されるのならいつまでも触れ合っていたい。
(まあ、いずれ収まるだろう)
そう楽観的に考えていると、
「——ねぇ、澪?」
「っ……!」
冗談抜きに、心臓が宙返りした。
そろそろと視線を向けると、夏希がぱっちりと目を開けて、肩口からこちらを見上げていた。
「な、夏希、いつ起きたんだ……⁉︎」
「ついさっきよ」
夏希は一瞬だけ視線を下に落とし、イタズラっぽく瞳を細めて見上げてくる。
「ふふ。澪も男の子なのね」
「そ、そりゃそうだろ」
俺は布団を引き寄せ、太ももにかけた。
しかし、隠したからといって、羞恥がなくなるわけじゃなかった。顔が火照り、心臓がバクバクと跳ねる。
「二人とも、ご飯よー」
そのとき、階下から光恵さんの声が聞こえた。
今日は篠原家で夕食いただくことになっていた。
「ほら、降りましょう? ……あ、澪はまだ無理そうね」
「う、うるさい。早く行ってくれ」
「はいはい」
夏希は含み笑いをこぼしてから、どこか軽やかな足取りで部屋を出て行った。
「……はぁ」
一人になり、そっと息を吐き出す。
(まさか、夏希がここまで積極的だったとは……)
これまでの語弊を招く物言いも、もしかしたら意図したものかもしれない。
だからと言って向こうもそういうことを求めている、とまでは思わないが、どうしても期待はしてしまう。そもそも——
(次も同じように揶揄われたら、我慢できる自信がない……)
今だって、光惠さんが声をかけてくれなかったら、手を出してしまっていたかもしれない。
ちょっとずつでもいい。いずれはそういうスキンシップもできるようになっていけたらいいな——。
俺はそう、期待に胸を膨らませた。
(って、ダメだ)
そんなことを考えていたら、一生ここから動けない。
「……あれ?」
っていうかこれ、夏希の布団じゃないか?
そういえば、なんか甘い匂いも……
「っ——!」
俺はパッと布団を跳ね除け、スクワットを始めた。
太ももに張りを感じるころには、昂りもほとんど鎮まっていた。
夏希のおかげで筋肉がつきそうだと苦笑しながら、慌てて階段を駆け下り、光恵さんに頭を下げる。
「すみません。ご馳走になるのに遅れてしまって」
「ううん、気にしないで。眠いなら寝てても良いわよ?」
「えっ?」
「澪、熟睡していたものね」
夏希はわざとらしく肩をすくめ、光惠さんに気づかれないように、かすかに口の端を吊り上げた。
腹が立つが、そのおかげで光恵さんを誤魔化すことができたのも事実なので、俺は憮然とした表情を浮かべることしかできなかった。
(そもそも夏希のせいなんだけどな……って、やめよう)
思い出してしまえば、今度は椅子から立てなくなる。
俺は慌てて卓上の料理に意識を向けた。
「すごい……どれも美味しそうですね」
「澪君に食べてもらうのは久しぶりだからね。張り切っちゃった」
「ありがとうございます」
その後はさすがに夏希も揶揄ってくることもなく、光恵さんの腕によりをかけた料理を、満腹になるまで堪能した。
ただ、危惧していたものとは違う、少々情けない理由で、食後しばらくは椅子から立ち上がることができなかった。
夏希が揶揄うような眼差しで見下ろしてきて、
「安心して。バイキングでは、私がしっかり監視してあげるから」
「うるさい」
俺がそっぽを向くと、夏希はくつくつと喉を鳴らした。
(今日は、翻弄されてばかりの一日だったな……)
男として、リードしたいという気持ちはもちろんある。
でも、夏希が積極的でいてくれるのなら——、
こんなふうに振り回されるのも、悪くないと思ってしまうのだった。
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