第6話 幸せにしてよ
——週明けの月曜日。
篠原家のインターホンを鳴らすと、すぐに夏希が姿を見せた。
一週間ぶりとはいえ、見慣れた制服姿だ。肌の露出も少なく、清楚な見た目であることは変わらない。
……それなのに、どうしてこんなに魅力的なんだろう。
「お、おはよう」
なんてことない挨拶のはずなのに、緊張して声が震えてしまう。
「……えぇ」
夏希の声も、普段より小さい。
目が合った瞬間、夏希はハッとしたように視線を外し、さりげなく耳に髪をかけた。
(……やばい、どうしよう……っ)
全く言葉が出てこない。こんなことは初めてだ。
夏希もうつむきがちに前髪をいじっている。
「い、行くか」
「そ、そうね」
肩を並べ、ぎこちなく歩き出す。
相変わらず重苦しい沈黙が流れる中——そっと、手の甲同士が触れ合った。
「「っ——」」
思わず、肩が跳ねる。夏希も同じように小さく反応して、こちらを見た——かと思えば、すぐにそっぽを向いた。
だが、手を引っ込めようとはしなかった。
(嫌がってはないってこと、だよな)
おそるおそる、指先を伸ばしてみると、触れた手がゆっくりと重なり合う。
「っ……」
夏希の指先が、一瞬だけためらうように揺れて——それでも、ゆっくりと俺の手を握り返してきた。
視線は下を向いたまま、唇をぎゅっと引き結んでいる。その横顔は耳まで赤く染まっていた。
(……俺も、似たような顔してるんだろうな)
一応すでに抱きしめたこともあるというのに、たったこれだけの触れ合いで、胸がこんなに忙しくなるとは思わなかった。
「一週間ぶりだけど……どうだ?」
なるべく自然に言おうとしたけど、声が少しだけ上ずってしまった気がする。
「部活よりは緊張しないわ……勉強も、ある程度は追いついたし」
「なら、良かった。昨日も頑張ってたもんな」
「えぇ……でも、まだ完璧じゃないところもあるかもしれないから、また教えなさいよね。そもそも、澪のせいでもあるんだから」
夏希は強気な口調とは裏腹に、不安げにちらちらと俺の反応を伺っている。
俺は自然と笑みを浮かべていた。
「わかってるよ。人に教えるのは嫌いじゃないし」
「……そう」
口調は淡々としていたが、つないだ手から、夏希がホッと肩の力を抜いた気配が伝わってくる。
それが嬉しくて、俺は指先にほんの少し力を込めた。
ずっとそうしていたかったが、無情にも学校は近づいてくる。
そろそろ、手を離すべきタイミングだ。
(わかってる。でも、もう少しだけ……)
俺が未練がましくそう思った瞬間——、
スッと、夏希が手を引いた。
「あっ……」
思わず、情けない声が漏れる。
夏希がビクリと反応して、焦ったようにこちらを向いた。
「い、いえ、見られたくないとか、そういうわけじゃないわよ? ただ、その、揶揄われたりしたらお互いに面倒だと思っただけで……っ」
「大丈夫。嫌がってるわけじゃないのはわかってるから」
にやけそうになる口元を慌てて引き結び、何とか真顔を保つ。
お願いだから、そんなかわいい言い訳はしないでほしい。手をつなぐどころか、抱きしめたくなるから。
俺と夏希が教室に入ると、一斉に視線が突き刺さった。
夏希はサッカー部には付き合ったことを告げているはずなので、すでにみんなにも広がっているだろう。
しかし、思ったよりも俺に対する嫉妬の視線は多くない。
どちらかというと、呆れたような生暖かいものが大半だ。
『澪がいるから、みんな諦めるんでしょ』
今更ながら、夏希の言葉の真実を目の当たりにすることになった。
思わず皮肉げな笑みを浮かべてしまう。
「白石——」
名前を呼ばれて顔を上げると、予想通りの人物——神崎陽斗がそばに立っていた。
「やっと付き合ったらしいな。遅いとは思うけど……おめでとう」
「おう、サンキュー」
笑みを浮かべてみせるが、頬は引きつってしまっているだろう。
神崎は苦笑したあと、ふと女子の一団に目を向けた。
「部活でも、体調不良ってことで良かったんじゃねえのか?」
夏希はクラスメイトに対しては、休んでいた理由を体調不良で押し通していた。
「サッカー部には、迷惑かけた責任を感じてるんだろ」
「……篠原らしいな」
神崎がふっと息を吐く。その笑みは、少しだけ寂しそうに見えた。
「なぁ、神崎」
「なんだ?」
「背中を押してくれて、ありがとな」
夏希に会いに行くように言ってくれたのは、神崎だ。
あの言葉がなければ、どうなっていたかわからない。
神崎は瞳を伏せ、肩をすくめた。
「そんなんじゃねえよ。仲良いやつに励まされたほうがいいってのは、普通の考えだろ。……それじゃあ、お幸せに」
神崎は軽く手を上げると、他の友達のところへ歩いて行った。
その背中が、妙に格好良く見えた。
◇ ◇ ◇
「あぁ、神崎君? 先生から頼まれて、プリントを届けてくれたのよ。学級委員だし部活も同じだったからだと思うけど、ゼリーとかも買ってきてくれたし、気が利くわよね」
夏希と一緒に勉強してる時に、ふと思い出して神崎のことを尋ねてみると、あっけらかんとした答えが返ってきた。
「そ、そうだな」
俺は曖昧な笑みを浮かべた。
もし夏希を悲しませるようなことがあったら、夜道じゃなくても刺されそうだ。
……あいつの分まで、頑張らないとな。
「どうしたの? 真面目くさった顔して」
夏希が怪訝そうに眉を寄せる。
俺は半ば無意識に答えていた。
「いや……絶対、幸せにするから」
「……えっ? はあ⁉︎」
驚きの声とともに目を見開いた夏希は、口をパクパクさせながら固まっていた。
俺もすぐに、自分が何を口走ったのか理解した。
「あぁいや、これは違くてっ! その、なんていうか……っ」
焦りすぎて声がひっくり返るのを自覚しつつ、必死に弁明の言葉を並べる。
すると、夏希は目元を伏せ、ぽつりとつぶやいた。
「……じゃあ、冗談だったってこと?」
「えっ? ……あっ、いや、そうじゃないけどっ……」
勢いで否定してしまったが、紛れもない本心だ。
むず痒い沈黙が流れる中、夏希が顔を背けたまま、潤んだ瞳を向けてきて——、
「なら、幸せにしてよ」
「……へっ?」
俺は間の抜けた声を出して、固まってしまった。
(えっ⁉︎ い、今のって……!)
否応なく、思考がそちらに引き寄せられてしまい、顔面が一気に熱くなる。
俺の反応で、夏希もどのように受け取られたのか気づいたらしい。頬を真っ赤にしながら、手をバタバタと振る。
「あっ、いや、別に変な意味じゃないわよ⁉︎ ただ、普通に大切にしなさいよってだけの話!」
「あ、あぁ、そういうことか……」
俺は無意識のうちにためていた息を吐き出した。
「当たり前でしょ、澪のバカ!」
夏希は両手で拳を作り、ぽかぽかと何度も二の腕を叩いてきた。
「ご、ごめんって」
俺は手のひらで受け止めながら、謝罪の言葉を繰り返した。
大前提として、勘違いしてしまった俺が悪いのは間違いない。だが——、
(夏希も、色気のある感じで言わないでくれ……)
あんな表情で言われたら、勘違いもしてしまう。
もっとも、口に出したところで、余計に殴られるだけなのはわかっているが。
満足したのか、バカらしくなってきたのか、夏希は少し経つと手を止めた。
頬杖をついて、少し遠くを見ながらぽつりとこぼす。
「……でも、あんたにもそういう欲はあったのね」
「そ、そりゃ、健全な男子高校生だからな」
一昨日、何のために筋肉痛になったと思っているんだ。まだ少し残ってるんだぞ。
夏希がニヤリと口角を上げて、
「でも、こんなかわいい幼馴染がずっと隣にいたのに、手を出すどころか告白すらもしなかった男よ?」
「うっ、そ、それはっ……つーか、かわいいって自分で言うのかよ」
俺が苦笑すると、夏希はそっぽを向いて腕を組んだ。
「べ、別にいいじゃない。ちゃんと努力もしてるんだから」
「いや、まあ、誰も文句は言えないだろうけどさ」
俺は肩をすくめた。
「それ、どういうこと?」
「えっ、なにが?」
「どうして、誰も文句を言えないのかしら?」
夏希は含み笑いを浮かべながら、わざとらしく首を傾げた。
無視しようと思ったが、向こうも揶揄うような言葉とは裏腹に頬を染めているのをみて、思い直す。
「だってそりゃ……夏希が、一番かわいいからに決まってるだろ」
「っ……!」
夏希の頬が一瞬で朱に染まった。
「お、大袈裟よ、ばか!」
先程よりも強めに叩いてくる。
普通に痛いが、こうなることはわかっていた。
(まあ、大袈裟でもなんでもないんだけどな……)
昔から夏希は、俺にとっては本気で誰よりもかわいい存在だった。
そんな彼女と恋人になれて本当に嬉しいし、思ったより大人な話にも寛容なようで、安心した。
とはいえ、まだそういうことが早いのはわかっている。何より、夏希の嫌がることは絶対にしたくない。
言われなくとも、想いを伝えたその瞬間から、一生大切にすると心に決めていた。
——それなのに、付き合ってからわずか数日後、急に夏希が余所余所しくなった。
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