第5話 好きになったきっかけ
一晩経っても不安は消えなかったようで、俺は約束通り、夏希に付き添って登校した。
学校が近づいてくると、夏希の表情はこわばり、口数もめっきり減ってしまった。
「やっぱり、一緒に謝るか?」
「いえ、大丈夫よ」
声色は固かったが、夏希はしっかりと首を横に振った。
「でも、俺が原因ではあるからさ」
「それはあくまで私たちの事情よ。澪も昨日言っていたけど、サッカー部の人たちからすれば知ったことではないし、やっぱり心象は良くないと思うわ」
「まぁ、そうだけど」
「いいから、澪はちゃんと教えられる準備をしておきなさい」
サッカー部の練習が終わったあとは、一週間の遅れを取り戻すために、夏希に勉強を教える約束をしている。命令口調なのは、彼女なりの気遣いだろう。
心配ではあるけど、これ以上はお節介だ。
「わかった。じゃあ、頑張ってこいよ」
「えぇ」
夏希を見送ったあと、俺はそのまま図書室へ向かい、机に参考書を広げた。
「「「あざした!」」」
サッカー部の掛け声が、グラウンドから響いてきた。
俺は参考書を閉じ、帰り支度を始めた。
しかし、夏希はなかなか来ない。大丈夫だろうか。
「——お待たせ」
心配になって見に行こうとしたところで、夏希はようやく姿を見せた。
疲労の色が滲んでいるが、どこか晴れやかな表情だ。
首尾を聞いたところ、微妙な空気になったものの、先輩マネのフォローでなんとか丸く収まったようだ。
「それは良かったけど、解散してからずいぶん時間かかってたな」
「最後まで片付けとかしていたから。信頼を取り戻すには地道にやるしかないし、しばらくは少し遅くなるわ」
夏希の瞳には、覚悟の光が灯っている。
立派な姿勢だが、夏希は溜め込んでしまうところがあるから、ちょっと心配だな。
「無理はするなよ」
「えぇ。けど、誠意を見せる側が、どこまでやればいいかを自分で決めるのは甘えだと思うの」
「まぁ、そうだけどさ。俺にも手伝えることとかあるか?」
「ありがたいけど、大丈夫よ」
「……わかった」
俺は渋々ではあるが、引き下がった。
部活でも力になりたいというのは俺のエゴだ。夏希が求めていないのなら、それはありがた迷惑になってしまう。
でも、これくらいは許容範囲だろう。
「その代わり、少しでも危ない感じしたら、強制的に休ませるからな」
「っ……えぇ」
夏希は少し驚いたように瞬きをして、それからほんのり頬を染めてうなずいた。
誤魔化すように、早口で続ける。
「それより、予習はしたんでしょうね?」
「えっ? あぁ、バッチリだ」
「ならいいけれど……ちゃんと、責任取りなさいよ」
夏希がイタズラっぽく片目をつむる。
「お、おう」
誰かが聞いてたら、語弊を招きそうな言い方だな……。
注意するべきか迷ったが、どこか機嫌の良さそうな横顔を見る限り、夏希にそんな意図はなかったんだろう。
(俺が脳内お花畑になってるだけか)
このあとも一緒に勉強をするのだ。
煩悩は封じ込めておかないと、夏希に嫌われてしまうかもしれない。
「よしっ」
「……どうしたの?」
気合いを入れる俺に、夏希が探るような目線を向けてくる。
「い、いや、なんでもない。それより、ちょっと急がないと乗り遅れるぞ」
「……そうね」
夏希は何か言いたげな表情をしていたが、早足で歩き出すと、黙って着いてきた。
教えるための勉強道具はカバンに入っているため、自宅には帰らず、夏希とともに篠原家にお邪魔した。
リビングの机で、並んで参考書を広げる。
「ここはこうして——」
「面倒くさいわね……解き方だけ教えなさいよ」
夏希は開始三十分と経たないうちに、文句を言い始めた。
地頭はいいんだけど、飽き性なんだよな。
「それだとすぐ忘れるし、模試とかで同じような問題出てきたとき解けないからさ」
「いいわよ、別に」
「ダメだ。後で困るのは夏希なんだから」
「うっ……どうしてそんなに厳しいのよ?」
「そりゃ、どうせなら同じ大学行きたいだろ……あっ」
慌てて口を塞ぐが、すでに遅かった。
その場に妙な沈黙が落ちる。顔が熱い。
耳まで真っ赤に染めた夏希が、ジト目を向けてくる。
「……付き合った途端、強気じゃない」
「やめろ。小物感が際立つだろ」
抗議をしてみせると、夏希がくすくす笑う。
「今更よ。十五年間も尻込みしてたんだから」
「いや、生まれた瞬間から好きなわけじゃねえよ」
「へぇ……じゃあ、いつからなの?」
夏希が口角を吊り上げ、楽しそうにこちらを見てくる。
俺は視線を逸らし、頬を掻きながらぶっきらぼうに答えた。
「気づいた時にはってやつだよ」
「……そう。ただ一緒にいたからってだけなのね」
夏希は小さく息を吐き、悲しげに瞳を伏せた。
……やばい、言葉選びを間違えた!
「あっ、いや、違うって!」
俺は咄嗟に声を上げた。
「話しやすいし、そばにいると落ち着くっていうか……っ、それに、か、かわいいし!」
早口でまくし立てる。もはや、恥ずかしさなど気にしている余裕もなかった。
「……ふーん?」
——そう顔を上げた夏希の口元には、実にいい笑みが浮かんでいた。
「澪、そんなふうに思ってくれていたのね」
「っ——!」
……やられた。
俺はガックリと肩を落とした。顔が火照っていくのがわかる。
夏希は本気で落ち込んでいたわけじゃない。俺を揶揄うための演技だったのだ。
(一本取られたな……でも、彼氏として、このまま引き下がるわけにはいかない)
「そういう夏希はどうなんだよ?」
「……私も同じような感じよ」
夏希は一瞬だけ目を逸らした。
「嘘だろ」
「っ……!」
俺がすかさず指摘すると、夏希は今度こそはっきりと視線を泳がせた。
「やっぱりな」
「っ……なんで無駄なところだけ鋭いのかしら」
夏希は手元のペンをくるくる回しながら、唇を尖らせた。
俺がじっと見つめていると、視線は机に向けたまま、観念したように話し始める。
「覚えてないかもしれないけど……私が男子に揶揄われてたときに、澪だけが庇ってくれたことがあったのよ」
「そういえば、そんなこともあったな」
思春期の男子特有の、気になる女子に意地悪をしたくなる現象。
幼いころから発育のよかった夏希は、その標的となってしまうことが多かった。
「それで、好きになってくれたのか?」
「べ、別に、それで一発でオチたとか、そういうわけじゃないわよ⁉︎ その、流されずに助けてくれて、ちょっといいなって思っただけで……っ」
夏希は必死に弁明をした。
相変わらずの素直ではない様子に、口元が緩んでしまう。
夏希が眉を寄せる。
「なに、ニヤニヤしているの? 気持ち悪いわよ」
「いや……そういえばあのあと、ちょっとよそよそしかったもんな」
「なっ……!」
夏希が再び真っ赤になる。
「に、逃げたあんたよりマシでしょ! なによ、高校生なんだから別々に行くべきだと思ったって!」
「う、うるさい。そんなの過去のことだろ」
「あんたに言われたくないわよ!」
夏希にどやされながらも、俺はつい微笑んでいた。
こうしてじゃれ合える日常を取り戻せたことが、何より嬉しかった。
夕食の時間まで勉強をしたあと、俺は帰り支度をして玄関に向かった。
「それじゃ、また明日」
「……」
靴を履いたところで振り返り、軽く手を振るが、夏希はまつ毛を伏せたまま、何も言わない。
「夏希?」
少し不安になって覗き込むと、ぽつりと、小さな声が返ってくる。
「……彼女とお別れだっていうのに、何もしないわけ?」
「っ……」
一瞬、思考が真っ白になった。
夏希も真っ赤になってうつむいている。
いいのか——。
そう問いかけそうになったが、すんでのところで思い留まる。
(夏希はそんなこと望んでないよな……)
何をすればいいのかは、わかっていた。
耳まで熱くなるのを感じながら、そっと夏希の手を取り、そのまま引き寄せた。
「っ——」
ぴくんと体を震わせた夏希だったが、すぐに力を抜いて身を預けてきた。
ややあって、控えめに背中に腕が回される。俺も、少しだけ腕に力を込めた。
(幸せだな……)
愛しい人とのハグはストレス軽減に役立つというが、まさにその通りだ。
夏希も、同じように感じてくれているだろうか——。
ふと視線を落とすと、彼女は赤面しつつも俺の胸に顔を寄せ、ほんのりと口元を緩めていた。
誰がどう見ても、幸せそうな表情だ。
(かわいすぎる……!)
心臓が跳ねて、思考が鈍る。
しかし、俺の体は、夏希の感覚をはっきりと記憶しはじめていた。
髪から漂うほのかに甘い香りと、俺よりも少しだけ高い体温。
そして、触れているすべての箇所から伝わる、女の子らしい柔らかい感触。
(これ、やばい……っ)
いつまでも抱きしめていたかったが、一時の欲で嫌われたくはない。
誤魔化しが効かなくなる前に、理性を総動員して夏希を解放した。
「あっ……」
夏希は一瞬だけ名残惜しそうにこちらを見たが、すぐにふいっとそっぽを向いた。
「……合格よ」
夏希が照れくさそうに言うと、俺は顔を真っ赤にしながら反射的に距離を取った。
そして——、
「じゃ、じゃあ、また明日!」
「——えっ?」
夏希が呆けたように目を丸くするのも無視して、逃げるように玄関を飛び出した。
そのまま自宅に直帰し、カバンを放り出して素早くジャージに着替え、再び靴を履いた。
「澪、どうしたの? そんな慌てて」
「ちょっと走ってくる!」
母さんにそれだけを告げ、俺は二度目のダッシュをかました。
「はぁっ、はぁ……っ」
何も考えなくて済むように、がむしゃらに足を回し続ける。
それでも、脳裏に焼きついた夏希の笑顔は、体に残る彼女の温もりと柔らかさは、なかなか消えてくれなかった。
結果——。
翌朝、バッキバキの筋肉痛に襲われた。
「……帰ってから、何してたのよ」
ぎこちなく歩く俺に、夏希が半眼を向けてくる。
「自分と戦ってたんだ」
「意味がわからないわ」
頼むからわからないままでいてくれ、と俺は切に願った。
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