第19話 澪の決意
食事を終えたあと、俺たちは日陰のベンチに並んで座り、それぞれ日焼け止めを塗っていた。
「……ねぇ、澪」
隣から、夏希が少しだけ声を落として話しかけてくる。
「どうした?」
「その……背中、塗ってほしいのだけど」
「……えっ?」
俺は瞬きをして、夏希を見つめてしまった。
「手が届かないのよ」
彼女は言い訳のように早口でそう付け加えたあと、ちらりとこちらを見上げた。
「お、おう、任せろ」
これはあくまでスキンケアだ——。
自分にそう言い聞かせ、手のひらにクリームを伸ばす。
しかし、そっと夏希の華奢な背に触れると、熱を帯びた肌のやわらかさが指先に染み込んで、思わず手を引っ込めてしまう。
「ど、どうしたのよ?」
夏希が驚いたように振り返る。
「いや、その……」
言葉にしたら、気持ち悪がられるだろうか。でも——
(堂々とするって、決めたんだろ)
意を決して、口を開いた。
「……びっくりするくらい、すべすべだったから」
言ってから、顔がほんのり熱くなるのを感じた。
「なっ……⁉︎ ば、バカなこと言ってないで、早く塗りなさいよっ」
息を呑んだ夏希は、パッと背を向けて鋭い声を出す。
しかし、怒ったような言葉とは裏腹に、彼女は耳まで赤く染まっていた。
「……わかった」
そっと安堵の息を吐いて、再び夏希の肌に触れる。
なるべく無心で塗っていくが、どうしても、うなじや背中から腰にかけての曲線に目を奪われてしまった。
そんな状態で、平常心を保っていられるはずもなく——、
(あっ、やばい……)
俺は自分の変化に気づき、反射的に前屈みになった。
「……よし、終わったぞ」
「ありがとう……って、どうしたのよ?」
夏希が振り返り、怪訝そうに眉を寄せる。
「ごめん……ちょっと、待って」
俺は決まりが悪くなって、視線を逸らした。
その一瞬で察したのだろう。夏希は目をぱちぱちさせたあと、呆れたようにため息をついた。
「……変なこと言ってるからよ」
「いや、本当に綺麗だったし……それに、夏希にも責任はあると思う」
「な、なんでよ。あんたがむっつりなだけでしょ。いえ……最近はがっつりかしら?」
「なっ……! そ、そういう夏希だって、けっこう積極的——ふぐっ!?」
言い終える前に、夏希の指が俺の頬を引っ張った。
赤らんだ目元で睨みつけてくる。
「私はあんたが煩悩まみれだから、仕方なくよ。進んでやってるわけじゃないから」
「ちょ、痛い痛い!」
思いの外引っ張る力が強くて、俺はたまらず悲鳴を上げた。
「あっ、ごめんなさい」
夏希はすぐに手を離してくれた。
(あれ、やけに素直だな……)
ふと、違和感を覚える。
——それは正しかった。
「お詫びにやり返していいわよ。今なら、ね?」
夏希はすくっと腰を上げると、揶揄うように両腕を広げた。
「お、おい、それはずるいだろ!」
「自業自得よ」
夏希はサラリと俺の抗議を流すと、手を広げた。
「ほら。五、四——」
「ちょ、ちょっと待って!」
俺は必死に懇願するが、夏希はカウントダウンを止めない。
「——二、一……残念。時間切れよ」
無慈悲にそう告げると、勝ち誇ったように口角を上げた。
その楽しそうな笑みに、思わず心が絆されそうになる。
けど、胸を張って夏希の隣に立つためには、やられっぱなしではだめだ。この借りは必ず返そう。
(そうすれば、また少し自信が持てるはずだ)
いい加減、少しは前向きにならないと嫌われるかもしれないし、そうでなくとも男は堂々としているべきだ。
……まあ、もう少し謙虚になってほしい愚息もいるけど。
俺が動けるようになったあとは、波打ち際で水を掛け合ったり、浮き輪でぷかぷかと漂ったりしながら、夏らしい時間を満喫した。
夏希がふとした瞬間に見せてくれた、楽しげな表情や照れくさそうな笑みは、ずっと忘れられないと思う。
しかし、それとは別に、思い出は形としても残しておきたい。
夕焼けに染まりゆく空を背景に、俺と夏希は寄り添っていた。
「夏希、もうちょっと近づいて」
軽く腕を引っ張ると、夏希が意味ありげに片眉を上げてみせる。
「いいの? また、前屈みになられても困るのだけど」
「だ、大丈夫だって。というか、意識させないでくれ」
「その言い方、怪しいわね」
夏希は揶揄うように目を細めつつも、なかなか距離を縮めようとしない。
(おかしいな。いつもなら、逆にくっついてきそうなものだけど……)
その様子をじっくり観察すると、夏希の頬はどこかこわばっており、ほんのり桜色に染まっていた。
「……もしかして、照れてる?」
「なっ……!」
夏希の頬、そして耳元が、夕陽が霞んでしまうほど真っ赤に染まる。
こんなにも、照れてくれてる。その事実に背中を押されて、俺は普段はなかなか伝えることができない想いを言葉にした。
「……えっと、その、夏希……かわいいよ」
「っ〜〜!」
夏希が視線を泳がせ、パクパクと口を開閉させるが、言葉にならないようだ。
うん、本当にかわいいな。照れくさいけど、それ以上に嬉しくて、自然と微笑んでしまう。
「もう、なんなのよ……っ」
夏希は唇を噛みしめながら、上目遣いで睨みつけてきた。
その瞳は潤んでいて、変な気分になりそうだったけど、なんとか真剣な表情を作る。
「決めたんだよ。もう絶対、卑屈になったりしないし、正直に気持ちを伝えるって。……夏希が、そう思わせてくれたんだ」
「っ……!」
夏希は一瞬だけ目を見開き、ふと視線を下げた。
「夏希? どうし——っ⁉︎」
俺は思わず息を呑んだ。夏希がぎゅっと腕に抱きついてきたからだ。
(柔らかっ……! それに、あったかい……っ)
女の子らしい感触と温もりに、体が硬直してしまう。
肩口から、夏希がイタズラっぽく見上げてきた。
「ふふ、さっきまでの余裕はどこにいったのかしら?」
「しょ、しょうがないだろ! 急にこんなの……っ」
お互いに水着なのだ。肌の柔らかさも、すべすべとした感触も、鼓動の近さも、全てが直に伝わってきて、頭がクラクラしてしまう。
だけど、ここで引いてしまえば、今までと何も変わらない。
俺は深呼吸してから、夏希にホールドされていた腕を引き抜き、その肩をぐっと抱き寄せた。
「っ……」
夏希が肩を揺らすのを全身で感じ取りながら、携帯を構える。
「ほ、ほら、撮るぞ。夕陽も沈んじゃうし」
「そ、そうね……」
夏希が覚悟を決めるように唇を引き結ぶと、少しだけ身を寄せて、俺の腰にそっと手を添えた。
「っ……」
心臓が跳ねるのを感じながら、スマホのシャッターを切る。
間もなくして、燃えるように赤く染まった空と、並んで立つ俺たち二人が、画面に鮮明に映し出された。
——夏希は髪をなびかせながら、少しだけ照れくさそうに笑っていた。
◇ ◇ ◇
近くのお店で夕食を済ませると、帰りの電車に乗り込んだ。
そこそこ混んでいたけど、途中で運良く並んで座ることができた。
陽はすでに沈んでいたが、窓から見える空はまだほんのりと明るい。
ふと隣を見ると、夏希がうとうとしていた。
「寝てもいいぞ、起こすから」
「大丈夫よ……」
そう囁くように答えた直後、夏希はすう、と静かに俺の肩にもたれかかってきた。
首元にかかる髪が、くすぐったい。
そっと様子を窺うと、目は閉じていて、呼吸も穏やかだ。完全に寝てしまったらしい。
前にもこんなことがあったな、と思い出す。確か、夏希の部屋で映画を見ていたんだ。
そのとき、俺は彼女の匂いや感触に耐えられず、反応してしまった。
——それを、途中で目を覚ましていた夏希に揶揄われた。
(あのときに、意外と積極的だって知ったんだよな……)
付き合ってから二ヶ月が過ぎたが、まだ最後の一線は越えていない。
お隣さんで、互いに親が共働きという条件を考えれば、早いペースではないだろう。付き合って一ヶ月以内に済ませるカップルも多いと聞く。
それでも、付き合いたてのころは、もっとゆっくり進むものだと思っていた。少なくとも、勉強終わりに自分が夏希に頼み込むことになるとは、想像もしていなかった。
俺が多少なりとも積極的になれているのは、間違いなく夏希から歩み寄ってくれたからだ。
(やっぱり、最後は俺から踏み出さないと——って、やば……っ)
慌てて思考を放棄した。
正直、今日は色々と焦らされっぱなしだった。あんな水着姿を見せられて、背中に触れて、密着して……。
今も、こうして温もりを感じている。
そんな状態で「今よりも先」の関係について考えてしまえば、反応してしまうのは当然と言えば当然だろう。
「……ふぅ」
気を紛らわせようと、スマホを取り出す。
そのとき、ちょうどメッセージアプリから通知が届いた。
「……椎名先輩から?」
画面に表示された差出人に、思わず声が漏れた。
——海デートは楽しかったかい?
こんなことを聞いてくるのは、初めてだった。そもそも、神崎のこと以外は話していない。
どうしたんだろうと思いつつ、指を動かして返信する。
——はい。とても。
——それはよかった。ところで、夏希は水色のビキニだった?
(えっ、なんで知って……あぁ、そうか)
そういえば、二人で買いに行ったと言っていたな。
だとしたらなんでそんなことを確認してくるのかとは思ったけど、とりあえず素直に「そうですけど」と返す。
——まったく、あの子は……。
画面越しでも、先輩が呆れたように笑っているのが見える気がした。
俺が「どうしたんですか?」と送ると、すぐに返信が来た。
「……えっ?」
その内容を読んだ瞬間、俺は口を半開きにして固まってしまった。
脳裏に思い浮かぶのは、先程まで見ていた夏希のビキニ姿。
無難なセパレートタイプではあったものの、俺にとってはすでに破壊力抜群だったのだが——、
「あれよりも……⁉︎」
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




