第12話 クラスメイトが再び絡んできた
月曜の朝。
洗面所の前で、俺は額にうっすら汗をにじませていた。
「……うまくいかねぇ……」
昨日、美容院で整えてもらった髪型を思い出しながら、指先にスタイリング剤を馴染ませていく。
けれど、なかなかあのときのバランスが再現できない。
右を直せば左が浮き、前髪を整えればトップが潰れる。
(プロってやっぱ、すげえな……)
あれよあれよという間に整えていった伊吹の手際を思い出し、ため息が漏れる。
そうしているうちにも、夏希を迎えに行く時間は刻一刻と近づいていた。
(やばい、そろそろ仕上げないと……っ)
焦り始めたちょうどそのとき——、
——ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
(まさか……)
「あら、夏希ちゃん。おはよう」
「おはようございます」
母と夏希の会話が聞こえてくる。
「あの、澪いますか?」
「洗面所にいるわよ」
「ありがとうございます」
トタトタという軽い足音とともに、夏希が姿を現した。
制服の上にカーディガンを羽織り、片手にポーチを持っている。
「……やっぱり。絶対てこずってると思ったのよね」
夏希が俺の頭を見上げて、呆れたような声を出した。
「いや、その……やっぱ難しくてさ」
言い訳したくなったが、正直に白状した。
夏希はすっと目を細めて、俺の後ろに回り込む。
「やってあげるわよ。彼氏が笑いものになってほしくないから」
「あ、あぁ……ありがとな」
俺は近くの椅子を持ってきて、腰掛けた。
「あんただけじゃなくて、私まで揶揄われるのよ」
セリフこそ素っ気ないけれど、その手つきは迷いがない。まるで、最初からこうすると決めていたかのようだった。
鏡の中の俺が、みるみる昨日の姿に近づいていく。
「すごっ……よく覚えてるな」
俺が感心すると、夏希は表情を変えないまま、さらっと返す。
「昨日の今日よ。当たり前でしょ」
「へぇ……じゃあ、目線は合わせてくれなかったけど、ちゃんと見てくれてたんだな」
ちょっと意地悪っぽく言ってみると、夏希の手がピタリと止まり、頬に赤みが差した。
「……オールバックとかは、簡単にできるのよね」
「わ、悪かったって! もう言わない!」
夏希の意図に気づいて、慌てて両手を上げた。
彼女はふん、と鼻を鳴らすが、その頬がわずかに緩んでいるのが鏡に映った。
(……夏希、笑ってる)
俺も釣られて、思わず口元を緩めてしまう。
「……何ニヤついているのよ。気持ち悪いわ」
夏希がジト目を向けてくる。
「悪かったな」
肩をすくめながら答えると、彼女の視線がふいに鏡に向いた。
——そして、何かに気づいたようにピタリと動きを止めた。
自分が今、どんな顔をしていたか。
それが、鏡越しに俺に見られていたことに気づいたのだろう。
「っ……!」
オロオロと視線を泳がせる彼女を見て、笑いを堪える。
これ以上機嫌を損ねてしまうと、本当にオールバックにされかねないからな。
幸い、夏希はその後も丁寧な手つきで整えてくれた。
「……完成、っと」
夏希が手を離すと、鏡の中の自分は、昨日と同じくらい——いや、それ以上に整っていた。
「すごい……」
思わずこぼれる声に、夏希はふんっと鼻を鳴らす。
「……毎日見てるんだから。どうすればマシに見えるかくらい、知ってるわよ」
ツンとしているように見せて、誇らしげに小鼻が膨らむ。
……かわいすぎるだろ。
「な、なによ」
ジトッと睨まれ、俺は首を横に振った。
「いや、なんでもない。ありがとな」
「……ま、いいけど」
夏希は肩をすくめて、ふっと息を吐いた。
そのまま二人で家を出ると、門扉をくぐったところで、俺はそっと右手を差し出した。
「夏希——」
呼びかけると、夏希は一瞬だけきょとんとしたあと、視線を落とす。
うっすらと頬を染めながらも、ためらいなくその手を握ってくれた。
それだけで十分だった。だけど、夏希はゆっくりと指を絡めてきた。
……幸せだ。
「行くか」
「えぇ」
うなずき合って、同時に足を踏み出す。
それから昇降口に到着するまで、俺たちはつないだ手を離さなかった。
——昼休み、中庭。
春の光に包まれながら、俺と夏希はいつものベンチに腰を下ろし、それぞれ弁当を広げていた。
食べ始めてしばらくして、夏希がふいに口を開く。
「ねえ、何か交換しない?」
「いいぞ」
俺は軽く笑いながらうなずいた。おかずの交換は、昔からたまにしている。
ちらりと夏希の弁当を見ると、他のおかずはきれいに減っているのに、卵焼きだけが、なぜか複数残っていた。
「じゃあ、卵焼き同士とか?」
「っ……」
夏希がぴくりと肩を揺らした。
(……もしかして、楽しみにとっておいたのか?)
「あっ、やっぱり別ので——」
「い、いえ、卵焼きでいいわ」
遠慮しようとする俺の言葉を遮ると、夏希は素早く箸で自分の卵焼きをひとつ取り、俺の弁当箱にストンと置く。
そのままの流れで、俺の卵焼きを自分のほうへと運んだ。
「お、おぉ……」
なんという手際だ。伊吹さんでも、この箸捌きは無理だろう。
ちょっとだけ面食らいながら、入れ替わった卵焼きを口に運ぶ。
「……おばさんの卵焼き、ちょっと久しぶりだな。……ん?」
味が記憶と違う。
俺が口を動かしながら夏希のほうを向くと、バッチリ目が合った。
「な、なによ……美味しくないの?」
夏希はパッと視線を逸らしつつも、どこか不安そうに尋ねてくる。
「いや、めっちゃ美味しいよ。けど、ちょっと味付け変わったか? 甘さ控えめっていうか……前より俺好みな気がする」
感想を素直に口にすると、夏希がぼつりとこぼした。
「……私が作ったのよ」
「えっ?」
「だ、だからっ。その卵焼き、私が作ったのよ」
素っ気なくそう言うと、誤魔化すように端を口元に運んだ。
(……なるほど、だからか)
三角食べを好む彼女が、卵焼きだけを不自然に残していた理由がわかった。
俺が自然と卵焼き同士の交換を申し出るように、誘導していたんだ。
夏希がわざわざ、自分で作って、食べさせてくれた。
こんなに嬉しいことはない。
「ありがとう。すごく、嬉しいよ」
俺が静かに言うと、夏希はわずかに眉をひそめた。
「たまたま気分だっただけよ。……どうしてもって言うんなら、また作ってあげてもいいけど」
そう言いながら、夏希はわざとらしく指先で髪の毛をいじった。
「じゃあ、また——」
——お願いしようかな。
そう言いかけたところで、揶揄うような声が聞こえてきた。
「イメチェンでもしたのかよ、白石」
山田だった。林と田所も一緒だ。
本当にいつも一緒にいるな。俺と夏希も一緒にいることは多いけど、この三人には敵わない。
「他の男に取られるのが怖くなったか?」
「ま、ちょっとはマシになったんじゃねーの」
感心する俺をよそに、山田たちは皮肉げに口元を歪めた。
「ちょっと、あんたたち——」
「夏希」
反論しようとする夏希を、手で制する。
一度深呼吸してから、落ち着いた口調で返した。
「前も言ったけど、堂々と夏希の彼氏だって名乗れるように、頑張るつもりだから。これは、その第一歩だ」
「っ——」
隣で小さく息を呑む気配がした。
振り向くと、怒っていたはずの夏希が、弁当箱のフチに視線を落として耳の先まで赤くなっていた。
そんな様子を見てか、山田がぶっきらぼうに言った。
「ま、なんでもいいけどさ。その……昨日は悪かったよ」
「え?」
思わず、俺は目を見開いた。まさか山田から謝罪の言葉が出てくるとは。
「一応、努力はしてるみてーだしな」
「それに、神崎に目つけられんのも面倒だしよ」
林と田所が視線を逸らしながら続く。
「篠原も、悪かったな。それじゃ」
それだけを言い残して、三人はそれ以上の会話を拒むように、踵を返した。
遠ざかっていく背中に睨むような視線を送りながら、夏希がぼそりとつぶやく。
「……あんな態度で、許していいの?」
「んー……まあ、絡んでこないなら、それでいいかな」
俺はふっと笑って、顔を向けた。
「怒ってくれて、ありがとな」
「っ……」
夏希は肩を震わせ、そっぽを向いた。
「別に、私が気に入らないだけだから。それより——」
夏希の声色が真剣味を帯びる。
「無理はしてないでしょうね?」
「え? あぁ、大丈夫。ほんとに」
俺は笑って首を振ったが、夏希はどこか心配そうな目をしていた。
だめだ。彼女にこんな表情はさせちゃいけない。
少しだけ顔が熱くなるのを感じながら、俺は口を開いた。
「だってさ、あんなやつらの言葉より、夏希の言葉とか反応のほうが、よっぽど大事だし」
「っ……」
夏希がぴくりと反応し、箸をぎゅっと握りしめた。
そして、目線を落としたまま、ぽつりとつぶやく。
「……少しは、自信がついたみたいね」
「あぁ」
俺は笑みを浮かべてうなずいた。
「だからさ。ついでにもう一個、頼んでもいいか?」
「……なに?」
「また今度、卵焼き作ってくれよ」
夏希は一瞬きょとんとした後、ぷいっと顔を背けた。
「……気が向いたらね」
そう言いながらも、どこか嬉しそうに口元を緩めた彼女の姿に、俺もつられて笑みをこぼした。
◇ ◇ ◇
——翌朝、篠原家。
「行ってきます」
「気をつけてねー」
光恵が娘の夏希を送り出した直後、夫の智和が降りてきた。
「あれ、夏希はもう行ったのか?」
「えぇ」
「昨日といい、早いなぁ」
もう少し早く起きるかぁ、とつぶやきながら、智和が食卓につく。
「おっ、朝食に卵焼きは珍しいな。……ん? ちょっと甘さ控えめだ」
智和が光恵に視線を向ける。
「そういえば、昨日の弁当もこの味付けだったな。味付け変えたのか?」
「いえ、私は変えてないわよ」
光恵は笑いを噛み殺しながら、首を振る。
「えっ……? あぁ、夏希が作ったのか」
「きっと、澪君の好みなんでしょうね、おかずの交換することもあるらしいから。まあ、あの子は絶対に認めないけど」
「なるほどなぁ」
智和が納得したようにうなずきながら、苦笑する。
「変だな。これでも、少し甘すぎるくらいに感じてきたよ」
「ふふ、そうね」
光恵は口元を抑え、くすくすと笑みを漏らした。
——そのころ、白石家では、澪の髪の毛を整えていた夏希が、その頭上で盛大なくしゃみをしていた。
「ご、ごめんなさい……!」
「いいよ。光恵さんたちが夏希の話でもしてるんだろ」
夏希に気を遣わせないための澪の冗談は、図らずとも的中していた。
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