第11話 彼女がまた視線を合わせてくれません
その日はサッカー部の練習がオフだったが、俺は珍しく夏希と別行動をしていた。
「ここだよな」
目的の建物を前に、地図アプリをちらりと確認する。
「……よしっ」
俺は小さく気合いを入れて、足を踏み入れた。
階段を登った先の扉を開けると、カランコロンという鈴の音がした。
内装はこぢんまりとしているが、洒落た照明と木の温もりが調和していて、落ち着いた雰囲気がある。
カウンターの女性スタッフが声をかけてきた。
「ご予約いただいていた、白石澪さんですね? 担当の伊吹が参りますので、少々お待ちください」
伊吹さん。神崎がいつも指名しているというスタイリストだ。
俺が神崎にした頼み事は、おすすめの美容院を紹介してもらうことだった。
数分後、奥から姿を現したのは、グレイヘアにスタイリッシュな黒シャツを着こなした中年男性だった。いわゆるイケおじだ。
目尻に笑いジワを刻んだその人は、俺の前に立つなり、口元に笑みを浮かべて言った。
「こんにちは。白石君だね? 神崎君から、俺より格好良くしてやってくれって頼まれてるよ」
「はは、それは無理ですよ」
「やる前から無理って思ったらダメだよ。彼女のためなんだろ?」
「まあ、はい」
神崎、そんなことまで伝えていたのか。
「いけると思わないと、届くものも届かない。素材はいいから、磨けば光るよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「あぁ」
初めてのシャンプーは心地よく、カットの手つきも話のペースも丁寧だった。
神崎がわざわざ指名料を払う理由もわかるな。
そして一時間後——。
鏡の中には、スタイリング剤でしっかりと整えてもらい、少しだけ垢抜けた自分がいた。
俺は思わずつぶやいた。
「美容師って、すごいですね……」
「いやいや、俺は整えただけさ。いくら一流のシェフでも、萎れた野菜から美味しいサラダは作れないよ」
伊吹さんは柔らかく笑いながら、ハサミを置いた。
「さっきも言ったけど、自信を持って。最初は根拠がなくてもいい。後から、それを裏付ける努力をしていけばいいんだから」
「……はいっ」
最初は根拠がなくてもいい——。
その言葉が、ストンと胸に収まった。
「またいつでも来なよ」
「はい、ありがとうございました!」
美容院を出るころには、俺の背筋は自然と伸びていた。
美容院を出てしばらく歩くと、一陣の風が吹いた。
「おっと……」
咄嗟に髪を押さえてしまい、少し戸惑う。
いつもなら、こんなこと気にしたことすらなかったのに。
少し照れくさくて、夏希には美容院に行ったことは言っていない。
驚いてくれたら、いいな——。
そんなささやかな期待を胸に、俺は一度自宅に戻って荷物を置くと、すぐに篠原家のインターホンを押した。
今日は、もともと会う約束をしていた。
「結局、どこ行ってたのよ……えっ?」
ドアを開けた夏希が、目を見開いて固まった。
「ちょっと、神崎に紹介してもらってさ。美容院、行ってきたんだ。……どうかな?」
「えっ? あっ、うん……似合ってると思うわ」
驚いてはいるようだが、感想は思ったよりも淡々としていた。
「そうか、ありがとう」
(やっぱり、髪型ひとつで劇的に何かが変わるわけじゃないか)
内心で苦笑しながら家に上がらせてもらうと、いつものようにリビングの机で並んで勉強した。
しかし、俺はすぐに異変に気づいた。
——夏希と、視線が合わない。
話しかければ答えてくれるのだが、普段は人の目を見て話す彼女が、頑なにこちらを見ようとしないのだ。
(……一週間記念のときと、同じだ)
胸がひやりと冷たくなる。
(もしかして、また何か忘れているのか?)
焦って考えを巡らせるが、何も思いつかない。
一ヶ月記念日はもう少し先だ。こっそり準備も進めているので、間違いない。
(もしかして、単純に髪型があんまり似合ってなかったとか……)
自信が、じわじわと萎んでいく。そのとき、伊吹さんの言葉がよみがった。
最初は根拠のない自信でも、それを裏付ける努力をすればいい——。
俺は勇気を出して、ちらりと夏希の顔をのぞき込んでみた。
「夏希。なんかあったのか? ちょっと変だぞ」
「べ、別にいつも通りよ」
夏希は慌てたようにそう言って、パッと顔を背けた。反動で、髪の毛がふわりと舞う。
——その隙間からのぞいた耳の先には、ほのかに朱色が差していた。
(……これって、もしかして)
ようやくわかった。
夏希は避けているのではなく、照れているだけだ。
(なんだ……)
張り詰めていた気持ちが、ふっと緩む。
同時に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……本当に、大丈夫か?」
もう一度尋ねながら、そっと夏希の手に触れてみた。
彼女はピクッと肩をすくめて、びっくりしたようにこちらを見る。
「だ、大丈夫だって言ってるでしょ」
すぐにうつむいてしまったが、手を引っ込めることもなかった。
「……夏希、ありがとな」
「急にどうしたのよ?」
夏希が怪訝そうに眉を寄せる。
俺は笑みを浮かべて、首を振った。
「いや、なんでもない」
「……変なの」
夏希が呆れたようにつぶやくが、その頬は赤らんだままだ。
「なあ……抱きしめていいか?」
「っ——」
夏希は一瞬固まってから、ふいと顔を背け、
「そんなの、いちいち聞かなくていいわよ……ばか」
「っ……そっか。じゃあ、お言葉に甘えて」
俺は夏希の手を取り、ソファーに座ってから、そっと引き寄せた。
思った以上にすんなりと、俺の腕の中に収まってくれる。
「……あったかいな」
「う、うるさいわね。調子乗らないで」
口ではそう言いながら、彼女は何も抵抗しない。
むしろ、少しずつ体の力を抜いて、俺に寄りかかってくる。
女の子らしい匂いや感触にはまだソワソワしてしまうけど、少しだけ慣れてきた。
腕の中の夏希も、目元を緩めて微笑んでいる。どこか安心したような表情だ。
「……かわいい」
「へっ? なっ……!」
夏希の顔が、みるみるうちに赤くなった。
(やべ……っ)
半ば無意識に、声に出てしまっていた。頬がじわじわと熱をもつ。
しかし、俺以上に夏希が照れてくれているので、なんとか平静を保つことができた。
夏希はしばらくオロオロと視線を泳がせたあと、腕の中からじっとりとした目線を向けてくる。
「……ちょっと垢抜けたからって、急に積極的じゃない」
「自信を持てって言ったの、夏希だろ。……嫌か?」
「そ、そうは言ってないでしょ」
夏希が唇を尖らせ、そっぽを向いた。
愛おしさが込み上げてきて、体温を感じているだけでは物足りなくなってしまう。
(今なら、大丈夫だよな)
その細い肩に手を置き、顔を覗き込むようにして、優しくその名を呼んだ。
「——夏希」
「っ……!」
夏希はハッと息を詰め、唇を引き結んだ。
躊躇うような間のあと、控えめにあごを上げて、静かにまぶたを閉じた。
「っ——」
思わず、息を呑んでしまう。
がっついてしまわないよう、ゆっくりと顔を近づけ、わずかに突き出された唇を優しく奪った。
「ん、ん……」
夏希は目を閉じ、鼻から抜けるような声を漏らした。
とろけるような表情を浮かべている。
(夏希……!)
胸の奥から込み上げた熱に突き動かされるまま、彼女の後頭部に手を回し、それまでより少しだけ長く、想いを込めて唇を重ねた。
「ん……っ」
夏希が思わずといった様子で喉を鳴らした。
顔を離すと、彼女は手の甲で口元を隠しながら、何かを堪えるような目で見上げてきた。
「い、いきなり激しいわよ……!」
「ご、ごめん……嫌だったか?」
俺の問いかけに、夏希は視線を揺らしたあと、肩をすくめた。
指先で髪の毛をいじりながら、ぼそっとつぶやく。
「……自信、持ったんじゃなかったの?」
「あっ……」
(受け入れて、くれたんだ)
胸に安堵が広がる。
「……ありがとう」
俺は小さく笑い、もう一度、夏希を抱きしめた。
ゆっくりと体を離してからも、俺たちは指を絡めたまま、ソファーに並んで腰掛けていた。
しばしの沈黙のあと、意を決して口を開く。
「なぁ、夏希」
「なに?」
「今度の日曜日、完全なオフだよな。……どこか、行かないか?」
心臓は、緊張で素早く鼓動を打っていた。
前回断られたというのもあるが、それ以上に——、
その日は、一ヶ月記念の二日前だった。
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